旧満州に渡った農大生 日記が伝える悲劇

旧満州に渡った農大生
日記が伝える悲劇(2018年8月15日 名古屋局 早川きよカメラマン)

戦時中、多くの日本人が旧満州、今の中国東北部に渡りました。その中には食料を増産するために送り込まれた農業大学の学生も含まれていました。

志半ばで戦争に巻き込まれた学生たちの悲惨な暮らしぶりがうかがえる日記が、この夏、岐阜県で見つかりました。


父親が記録した満州

73年前、満州で書かれた日記です。終戦直後の満州で、次々と人が死んでいった様子が書かれています。

「病死するもの続出。かようの場所では葬式どころか犬猫のそれの様に、穴をざっと掘って土をかける程度」という記述も。

日記は、東京農業大学の学生として満州に渡った息子に続き現地に行った父親が、終戦前後の4か月に渡って書いていたものです。

農大生も旧満州で犠牲に

昭和18年、戦況が悪化する中で、学生たちも戦場に送られるようになりました。

東京にある東京農業大学は、農業で貢献しようと満州に農場を作り、昭和20年、約100人の学生を送り込みました。

終戦直前、ソビエト軍が侵攻し、混乱の中、飢えや寒さにより58人の学生が命を落としました。

この悲劇を調べて語り継いでいる人がいます。東京農業大学の小塩海平教授です。

旧満州に農大生が送り込まれていたことについては、この大学の学生だった時に知りました。

小塩海平 教授:
「聞いた時には、びっくりしました。大学の実習中に起こったことなので、その他のいろいろな戦争悲劇とは全然違います。また、大学が国策に便乗して、若い学生を満州に送り込んだという過去にあったことをきちんと知って、そこから学んでいかなくてはならない」

日記に記された悲惨な生活

小塩さんは15年前から旧満州に送り込まれた元学生に聞き取りを行っています。

調べを進めていくと当時、学生の父親が書いた日記が、岐阜県可児市の遺族のもとに残っていることが分かりました。

日記は、満州に渡った息子に続いて、東京農業大学の開拓団に参加した父親が、終戦前後の4か月間書き続けたものでした。

日記を書いた父親は現地で病気で亡くなり、遺族の元に日記だけが返ってきました。

7月下旬、遺族から日記を受け取った小塩さんは「開拓団の記録は少なく、この日記が唯一と言っていい」と話しています。

日記からは当時、東京農業大学の開拓団がソビエト軍の支配下に置かれ、学生たちが悲惨な生活をしていたことがうかがえます。

日記より:
「一昨日も使役に行った人の中に、2人も団体行動から離れたため、ソ連兵から狙撃された」

日記より:
「栄養不良で病死者続出。ここで拘留中も危険を冒して生きねばならないとは、実に国家の滅亡した国民ほど悲惨なものはない」

小塩海平 教授:
「淡々と事実が書かれていることが余計に切々と訴えてくるものがあり、当時の生活がリアルに迫ってきます。死ななくてすんだ将来のある若い人たちの無念さを思うと、何も出来なかったのかということは、改めて悔しい思いがします」

いまこそ伝えなければ

同じ大学の先輩が体験した悲惨な戦争を学生にも知ってもらいたいと、8月上旬、小塩さんは日記を読み聞かせました。

弱ったものは誰からも助けられもせず、死んでいくしかなかった状況を、小塩さんは朗読していきました。

男子学生:
「入学して勉強するために来たのに、満州に行かされて何のために行かされたんだろう」

女子学生:
「本当に志半ばだったと思うので、すごい無念だったと思います」

小塩さんは日記を読んだあと、学生たちをキャンパスの中庭に連れていきました。そこには旧満州で亡くなった58人の学生の慰霊碑が、ひっそりと建っていました。

道半ばで命を落とした学生たちのことを、記憶に刻んでほしいと思ったからです。

小塩海平 教授:
「無関心でいても平気な自分っていうのを、何とか克服しないといけない。戦争とか紛争とかというのは、無関心から生じると思うからです。誠実な応答をしていくことが人間として、これから若い人たちにやってもらいたいことであり、私も一緒にやっていきたいと思っています」

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