94歳 最後のパイロットの遺言

94歳 最後のパイロットの遺言(2021年6月7日 大阪局 加藤拓巳)

太平洋戦争中、「ゼロ戦」を上回る高性能の戦闘機があったことを知っていますか。

“日本海軍最後の切り札”とも呼ばれた「紫電改」です。その速さは終戦後、一緒に飛行したアメリカ軍の戦闘機を置き去りにしたという逸話も残るほど。

そんな「紫電改」が、令和の現代に復元されました。復元には94歳の元パイロットも協力。戦闘機を通して伝えたかったこととは。

復活、紫電改

「紫電改」読み方は「しでんかい」です。戦後74年がたった2019年に復元されました。

全長9.37メートル、翼の幅は11.99メートル。濃い緑色の機体が忠実に再現されています。操縦席の計器類や細かな鋲の位置まで精巧に造られています。

実際に空を飛ぶことはできませんが、機体を移動させたり、操縦席に乗ったりすることも可能です。

“日本海軍最後の切り札”

「紫電改」が展示されているのは、兵庫県加西市の「鶉野(うずらの)飛行場跡」です。

戦時中、「姫路海軍航空隊」の基地として、全国から集まった若者たちが操縦士になるための訓練を受けたこの場所。

鶉野飛行場跡

全長1200メートル、幅60メートルある滑走路や、防空ごうは、ほぼ当時のまま残っています。

「紫電改」はこの飛行場近くの川西航空機(現在の新明和工業の前身)の姫路製作所が製造しました。

スピードもパワーも「ゼロ戦」を上回り、日本に迫る敵機を迎撃する役割を担いました。

本土決戦が迫る中、巻き返しのために投入され、“日本海軍最後の切り札”とも呼ばれました。

しかし終戦のころ、機体や関係する資料が処分されてしまい、資料はほとんど残されていません。

地元の歴史について調べてきた上谷昭夫さん(82)は、このままでは戦争の実情が忘れさられてしまうと危機感を感じていました。

上谷昭夫さん

上谷さん
「戦争中はいろいろなことが秘密にされたうえに、本当のことをいうのがはばかられた。このため、後世になってもなかなか史実がわからず、これは自分が調べないといけないと感じました」

復活までの軌跡

上谷さんは資料を求め、姫路から夜行バスで東京の防衛省の資料館に何度も足を運んできました。

その中で見つけたのが「紫電改」の取扱説明書です。上下巻に分かれ、合わせて300ページほど。その1枚1枚に詳細な図面が描かれています。

模型の組み立ては、水戸市で建設や看板の製作を手がける広洋社に依頼しました。過去に「ゼロ戦」の復元を手がけた実績があったからです。

製作期間はおよそ2年間。上谷さんは作業の確認のために、今度は水戸まで何度も足を運びました。

説明書を見ても特定が難しかったのが機体の色です。そこで上谷さんは、かつて姫路製作所で紫電改の製造に関わった技術者が使っていた道具箱に注目。

そこに付着していた塗料をもとに機体を濃い緑色に塗ることにしました。

“最後のパイロット”

上谷さんがこだわり抜いて再現した「紫電改」。“最後の仕上げ”としてある男性に機体を見てもらうことにしました。

兵庫県出身の海軍航空隊の元操縦士。笠井智一さん(当時94)です。

笠井さんは「紫電改」で実際に戦った経験があります。1942年に16歳で海軍予科練習生として入隊し、アメリカ軍と数々の空中戦を展開しました。

パイロット時代の笠井智一さん

「紫電改」の搭乗員の多くは戦時中に亡くなりました。笠井さんは「最後の紫電改パイロット」とも呼ばれています。

2020年7月、笠井さんは上谷さんの招きで、飛行場にやってきました。車からおりると、すぐに敷地の柱にたなびく国旗に向かって敬礼。

笠井智一さん

海軍の帽子を深くかぶり、年齢を感じさせないほど背筋はピンと伸びています。

そして、倉庫に入ると、復元された「紫電改」を見て一言。「立派につくってあります」はっきりした口調で話しました。

そして、上谷さんの説明を聞きながら、1時間ほどかけてじっくりと機体と向き合っていました。

笠井さん
「この機体を見るとよみがえるものばかり。紫電改で何十回、空中戦をやった。その中で何十人の仲間が死んだ。戦争はいかん。戦争したらいかん」

この対面から半年後。ことし1月に笠井さんは亡くなりました。

戦争を経験した方々から直接、聞き取り伝えていくことができる時間は、残りわずかなのだと改めて感じました。

「紫電改」が語り部に

最後のパイロットからお墨付きももらった「紫電改」。月に2回一般公開され、多いときには2000人ほどが訪れています。

新型コロナの影響で、広島や長崎の代わりに、近くの鶉野飛行場跡を平和学習の場として選ぶ小中学校も出てきました。

昨年度は39校2684人の子どもたちが訪れたといいます。

ガイドする上谷さん(2019年)

上谷さんもガイドとして、説明に立っています。

「機体がこんなに大きくて迫力があるとは思わなかった」
「この場所から戦闘機が飛び立っていたとは知らなかった」
参加した子どもたちは、リアルに受け止めているといいます。

上谷さん
「子どもたちと同じか、少し上の10代、20代の若者たちがこの飛行機で戦った。今は平和だけれども、その当時の人たちのことを忘れてはダメですよと。こういう悲惨なことを体験した日本人、再び戦争がないようにするために紫電改は1つの戦争の語り部として残ってほしい」

「紫電改」本物にも関心が

およそ400機が製造された「紫電改」。“本物の”機体も国内に1機だけ残されています。

終戦から34年が経過した1979年7月に愛媛県の久良湾で引き揚げられたものです。

引き揚げられた「紫電改」(1979年)

終戦間近の1945年7月24日に、豊後水道上空でアメリカ軍機と交戦した際の1機といわれています。

海底40メートルに沈んでいましたが、ダイバーに発見されました。長年、海の中にあったため機体のところどころに傷みがあり、前方のプロペラは直角に折れ曲がっていました。

補修され、いまは愛媛県愛南町の施設で展示されています。

“本物”の「紫電改」

戦没者の遺族だけでなく全国から観光客も訪れています。

最近は、兵庫県加西市で再現した「紫電改」を見たことをきっかけに、実物を見たいという人も増えたといいます。

紫電改展示館で長年担当 永元一広さん
「加西市で機体が復元された影響を感じます。加西市のものは精巧につくられていて、工場から出荷された直後の新品という感じがします。一方、こちらは実際に戦った機体だという重みがある。それぞれに見学の意義があり、展示を通して訪れた人が歴史の事実を知り、平和について考えるきっかけになればいいです」

特攻隊「白鷺隊」

「紫電改」の復活をきっかけに、上谷さんたちはほかの機体も復活させようと動きだしました。

実は昭和20年、鶉野飛行場でも特攻隊が編制されていました。その名は「白鷺隊」(はくろたい)。姫路城の別称『白鷺城』から名付けられました。

「白鷺隊」の辞世の句

「千載一遇の神機到来」
「白鷺隊」が詠んだ辞世の句が残されています。

72人の隊員のうち63人が命を落としました。

その「白鷺隊」が搭乗していたのが「九七式艦上攻撃機」。上谷さんたちは復元計画を立てました。

復元に思い託して

しかし、復元には2000万円の制作費がかかります。寄付を名乗り出たのが、地元出身で阪神百貨店の社長を務めた三枝輝行さん(80)でした。

飛行場の近くで育った三枝さん。戦時中、まだ幼いころに、家に多くの隊員たちがやってきたといいます。

三枝さん
「小さいころのことですが、隊員たちに食事をふるまっていたことは覚えています。でもね、飛行場の詳しいことや、そこで訓練していた人たちが特攻で亡くなったことは、実は最近まで知らなかったんですよ。」

昭和20年3月には、飛行場の近くで事故が起き、三枝さんの伯父さんが亡くなりました。

紫電改の不時着によって起きた事故ですが、軍事機密だったためか遺族にも伏せられていて、最近まで知らなかったといいます。

歴史を伝えていかねばならないと考え、復元に協力することにしました。

三枝さん
「かつての飛行機が復元されることで、この場所を訪れた人たちに戦争の悲惨さが伝わってくれればいい。ぜひ、多くの子どもたちに見てもらえる場所になればいいと思いました」

姫路海軍航空隊の碑

「九七式艦上攻撃機」は上谷さんが集めた資料をもとに再び水戸市の広洋社で製造が始まっています。

広洋社で復元を担当 斎藤裕行さん
「紫電改は設計図がないなかで実物大でつくったので時間がかかって大変だった。今回も設計図からつくるので『紫電改の復元はよかったのに』と言われないように、今回も自信を持って送り出せるようにしたいです」

「九七式艦上攻撃機」は、来年春の完成を目指しています。

戦争をリアルに感じるには

戦争を知る世代はどんどん高齢化し、話を聞く機会も少なくなりました。

私の祖父も兵庫県にある「宝塚海軍航空隊」に所属していたそうですが、戦時中の話を直接、聞いたことがありません。

母から聞いた話では、終戦間近の昭和20年8月、祖父の部隊の先発隊が淡路島で砲台建設に向かう途中、鳴門海峡で、アメリカ軍機の機銃掃射を受けたそうです。

乗っていた約100人のうち、82人が死亡。大半は10代後半の予科練習生でした。

現在、鳴門海峡を一望できる丘には、「慈母観音像」と82の慰霊碑があります。

82の慰霊碑

「あの日、何かが違っていたら、祖父も亡くなっていたかもしれない。そうだとしたら、いまの私はこの世に存在していなかったかもしれない」

私は神戸放送局に赴任した2017年から、毎年、夏になるとこの丘を訪ねています。私にとって戦争と平和を考える大切な場所になっています。

私は33歳。戦争を知らない世代です。それでも、何か「自分ごと」にできるきっかけがあれば、戦争をより身近に感じることができるのではないか。

復活した「紫電改」がそのきっかけになってほしい。上谷さんも、亡くなった笠井さんも、そして取材した私もそう願っています。