「関西の千鳥ヶ淵」を知っていますか 戦没者をまつる豊龍山無縁寺

「関西の千鳥ヶ淵」を知っていますか 戦没者をまつる豊龍山無縁寺(2020年10月21日 和歌山局記者 牧原史英)

特産のみかんの取材で和歌山県有田市の国道沿いを車で移動中、目にとまった看板には「豊龍山無縁寺」と書かれていました。

「なんだろう『無縁寺』って」

調べるとこの寺には、太平洋戦争で亡くなって遺骨の引き取り手がいなかった戦没者が、まつられていることがわかりました。

東京の千鳥ヶ淵の戦没者墓苑ができる10年近く前に、地元の人たちの熱意で建てられ、以来70年、ひっそりと守られてきたのです。

無縁寺を建立したのは地元の実業家

「無縁寺」は、みかん畑が広がる有田市の山の中腹にたたずんでいます。

市などによるとこの寺にまつられているのは陸軍や海軍の戦没者3736人で、境内には「無縁塔」があり、遺骨などが納められています。

則岡豊松さん

この寺の設立に大きな役割を果たしたのが、地元の実業家の故・則岡豊松さんです。

戦中から戦後にかけて菓子の販売などで成功したという則岡さんは、昭和25年に無縁塔の建立に尽力しました。当時は別の場所にありましたがその後移されて、今の「無縁寺」となります。

なぜ戦没者を追悼する寺を建てたのでしょうか。

引き取り手のない多くの遺骨を追悼

菅田良憲さん

地元にある別の寺の元住職に話を聞きました。則岡さんの活動を支えた菅田良憲さん(92)は、「則岡さんは妻と舞鶴港などに行き、遺骨を預かってきた」と振り返ります。

菅田良憲さん
「則岡さんは親分肌の人で、多くの若い人たちが戦争で亡くなったのに、満足に慰霊されないということに衝撃を受けていたようです」

終戦で引き揚げてきた兵士たちの中には、戦友の遺骨を持ち帰ってきた人もいました。しかし引き取り手が分からない遺骨は、そのまま舞鶴港に残されることもあったといいます。

「家族や国のために戦死したのに引き取り手もなく、供養もされないのはあんまりだ」
そんな思いにかられた則岡さんは地元の有田市で、引き取り手のない戦没者を追悼することを決意したそうです。

地元で行われた追悼の様子

戦争で大切な人を亡くした悲しみが色濃かった時代でもあり、則岡さんの思いに共感した人たちがボランティアで活動を支えました。当時の写真を見るとかなり多くの人が参加したことが伺えます。

こうした追悼行事が本格的に始まったのは昭和25年ごろでした。東京の「千鳥ヶ淵戦没者墓苑」ができる10年近くも前に、市民たちの意志で行われていたのです。

国から感謝状も

則岡さんたちの熱意は国にも届きました。寺には当時の厚生省の復員局長からの感謝状が残されています。

(感謝状より)
「終戦後、数多くの遺霊をそれぞれの遺族に届けて参ったのでありますが、なお、交付不能となっているものも相当数残って居りましてその慰霊の方途については常々苦慮いたしていたところであります。何卒、この数多くの無縁慰霊を永く御供養下さいますことをお願い申し上げます」

昭和31年には上皇さまの叔父にあたる高松宮が、無縁寺を訪れました。手作りの追悼の場に皇族が訪れるとは、と地元の人たちは喜びにわいたといいます。

「無縁さん」存続の危機に

無縁寺が建つ山には桜の木々が植えられ、春には、餅投げなどの催しが行われてきました。
寺は「関西の千鳥ヶ淵」とか、親しみを込めて「無縁さん」などと呼ばれて、多くの人が自由に訪れる追悼の場所になっています。

しかし戦後75年がたち、高齢化による支え手の不足は深刻です。

桝井美重子さん

寺を支える住民グループ代表の桝井美重子さん(78)は、則岡さんの知り合いだった夫と共に長年、無縁寺で慰霊の行事を行ってきました。

しかし夫は去年他界し、「このままでは無縁寺の歴史と意義を伝えられる人がいなくなってしまう」と話しています。

無縁寺を引き継いでいくため、寺の設立の経緯を文書にまとめていくうちに、桝井さんは無縁塔にまつられた人たちの名簿を見つけました。

そこには軍人だけでなく、日本に向かう引き揚げ船のなかで亡くなった子どもたちの名前もありました。

中には東京や神戸など元の住所が分かる人たちも数多くいましたが、なぜ引き取り手がいないのか。空襲で親族が亡くなったり、戦後の混乱期で音信不通になってしまったりしたことが考えられるといいます。

戦後しばらくは名簿の人たちの「縁者探し」も行われましたが、結局新たな手がかりは見つからなかったそうです。

桝井美重子さん
「夫は子どものころ米軍の空襲を経験し、『戦争で犠牲になるのは、か弱い市民だ』と話していました。だからこそ同じように市民の手で慰霊を続けていく意味があるのではないでしょうか。夫の遺志を継いで命ある限り慰霊を続けていきたいと思っています」


戦後75年がたってあの戦争を身近に、自分の事として感じることは難しくなっています。それでも私(記者)は無縁寺の存在とまつられている戦没者を知り、追悼を続ける人たちと関わるなかで、戦争によって失われるものの大きさを自分なりに感じることができたと思います。

1人の男性の思いから始まった「手作り」の慰霊の場を、地道に着実に、戦争を語り継いでいくために残していきたいと感じました。