石川県小松市の慰霊碑は、市営墓地の一角に立っていました。その場所は今は、さら地になっています。
日清戦争以降の戦没者を弔うために遺族など地域の人たちが建てたものでしたが、老朽化で傾き「倒壊の恐れがある」として、3年前に市が地元の人と協議の上で撤去したのです。
失われ行く慰霊の場と高齢化する遺族の声に、あなたはどう向き合いますか。
「ここにありましたよね、確か。無くなったんですか?いったいいつの間に…」
墓参りに訪れた地元の人たちに慰霊碑の写真を見せながら話を聞くと、撤去されたことに驚いた様子でした。
毎年墓参りに来ているという女性は
「あったね、こんなの。なくなったのは気がつかなかった。その辺にずっとあると思っていたから」
また別の男性は
「私たちが小さな頃からずっとある。なんで無くしたんだろう。おそらく誰も守る人がいなくなって無縁仏みたいになってきたんだろう」
と話していました。
いま各地で同じように、慰霊碑などの撤去や移設が相次いでいます。
厚生労働省に取材したところ、国は管理者が高齢化して管理できなくなった慰霊碑などを移設や撤去する際、自治体に50万円を上限に補助する制度を設けていますが、去年までの4年間にこの制度を利用して撤去や移設された慰霊碑や慰霊塔などは全国で8か所あるということです。
放置すれば地震の際に倒壊するおそれもあり、安全面や管理面を考えるとやむをえないかもしれません。しかし戦地へ赴き命を落とした人たちを弔うための慰霊の場が、ただひっそりと姿を消していっていいものなのか。記者になって4年目、26歳の私にはなんともやるせなく感じられました。
遺族たちがどんな思いでいるのか知りたい。そう思った私は福井市にある「福井忠霊場」に、去年から通い続けて来ました。戦死した兵士たちを弔うために戦時中の昭和15年に設けられた墓園で、1500あまりの墓標などが並んでいます。
管理してきた地元の遺族たちの中心は、当初は戦争で夫を亡くした妻たちでした。昭和60年ごろまでは会のメンバーで大規模な追悼法要をしたり、建物の改修をしたりなど活発に活動していたそうです。
しかしその後世代が様変わりして、今は子どもの代でも70代後半から80代を迎え、活動を続けられる人は数少なくなっています。
遺族会の副会長を務める熊谷嘉代子さん(78)も戦没者の子の1人です。父の嘉之雄さんは海軍兵として南方に出征し33才で命を落としました。
忠霊場には母と一緒に中学生のころから何度も通ってきましたが、最近はひざを悪くするなどして通うのが難しくなってきました。
熊谷嘉代子さん
「遺族には亡くなった人もいるし、けがの人もいるし、出てこられない人も多くなった。何か出来たらいいなって思うけど体が動かないから、もどかしい」
こうした中で全国の遺族会が期待をかけているのが、戦没者の孫の世代です。
福井市の高津智二さん(53)も「孫」の1人です。戦死した祖父が弔われる福井忠霊場に、幼い頃から父と一緒によく訪れていました。
しかし祖父の遺品として残るのは名前が刻まれた拍子木だけで、両親からも祖父についての話をほとんど聞いたことがありません。
父は忠霊場の遺族会会長を務めるなど熱心に運営に関わっていました。しかしその父が他界した後は仕事の忙しさもあって、ときどき忠霊場にお参りする以外は活動に関われていないということです。
高津智二さん
「小さな頃から墓参りや清掃の仕事も一緒に行っていて、墓を守っていかないといけないという気持ちはあります。でも仕事が忙しくどうしても十分なことができない」
次の世代に引き継ぐこともできないなか、自分たちがいなくなったあとの「慰霊の場」をどのようにしていくか。遺族たちは本格的な話し合いを始めました。
ことし6月に集まった5人は、存続か撤去かについて思いを語り合い、踏み込んだ議論になりました。
5人からは、
「忠霊場の拝殿や位はい堂など建物の管理は難しく、最終的には壊すしかない」
「その際の費用はどう賄うのか」
といった具体的な課題についても協議しましたが結論は出ません。一方で思いが詰まった「慰霊の場」が失われることへの苦渋の声も挙がりました。
話し合いのあと遺族会副会長の熊谷さんは、「出征した時はみんな家族を犠牲にして行ったのに、今はあれはできない、これはできない、という話になってくると、本当に心がつらいです」と話していました。
会では話し合いを重ね、遺族会を近く解散したうえで、維持や管理を福井市に託すことで忠霊場の維持を図る方針を決めました。その後、福井市と協議を重ねていますが、結論はまだ出ていません。
戦後75年、同じようなことが全国各地で起きているのではと思い、ことし7月から8月にかけて全国47都道府県の遺族会に電話で取材しました。
その結果、戦没者を弔うために建てられた慰霊碑など「慰霊の場」の維持・管理について「課題がある」と回答したのは44道府県にのぼりました。全体の66%にあたる31道府県の遺族会は「次の世代の担い手がいない」と回答し、遺族を中心とした維持・管理が限界に近づいている現状が浮き彫りになりました。
また「戦没者の孫やひ孫にあたる世代は遺族会にいるものの、仕事などで活動できていないため託すことは難しい」との回答は29の府県にのぼります。福井市の高津さんと同じような孫の世代の葛藤や限界も各地でみられることがわかりました。
こうした課題の解決に向けた動きについては24道県の遺族会が「地元市町村など行政に託すことを考えている」「すでに行政に要請している」と回答し、慰霊の場の維持管理をめぐる行政との協議などが各地で進んでいることがわかりました。
全国組織の日本遺族会は、慰霊碑の維持や管理などを自治体など行政が行うよう、平成29年度から毎年、国に要請しています。
戦争で命を落とした人たちの「慰霊の場」を今後どうしていくのか。戦後75年を迎えましたが、その答えはまだはっきり見えていません。
戦争の記憶とともに慰霊の場の維持管理を次世代がどのように引き継いでいけるのか、また、行政はどのような役割を果たしていくのか、いずれも各地で模索が続いています。
ひとつだけ確かなことは、あの戦争の体験者や遺族は、きょうも1人また1人と相次いでこの世を去っているということです。
福井忠霊場の遺族の1人、岩崎一晃さん(79)のことばです。
岩崎一晃さん
「国のために亡くなっていった人のお墓だから守っていかないといけない。でも我々はもう守り切れない。せめて『ここにあなたの戦争で亡くなったおじいちゃんが眠るお墓があるんだよ』ということだけでも知ってほしい。そういう場所にしたい」
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