一隻の軍用船が街を守った

一隻の軍用船が空襲から街を守った(2018年8月10日 新潟局 氏家寛子記者)

太平洋戦争末期の昭和20年8月10日、新潟市の新潟港周辺は、アメリカ軍の空襲によって47人が犠牲となりました。

この空襲でアメリカ軍の戦闘機に唯一応戦して、19人の犠牲者を出した軍用船がありました。この船について語り継ぐ活動を続ける男性を取材しました。

「新潟市を守った船」を知っていますか

新潟市では空襲があった8月10日に合わせて、毎年、戦跡を巡るツアーが行われています。

6年前からこのツアーの案内役を務める渡辺博さん(74)は、この空襲で犠牲になった1隻の船について語るとき、特に言葉に力が入ります。

軍用船「宇品丸」です。当時、朝鮮半島から日本へ食料を輸送していましたが、アメリカ軍が敷設した機雷に触れて、新潟港で座礁していました。

8月10日午前11時45分、新潟市上空に現れた16機のアメリカ軍の戦闘機に、宇品丸はたった1隻で応戦しました。10数分間の戦闘の末、船は炎上し、乗組員19人が犠牲となりました。

しかし、戦闘機は宇品丸への攻撃で弾丸をほぼ使い果たし、市街地の被害は最小限に食い止められたとされています。

渡辺さんはツアーの中で、「宇品丸が孤軍奮闘したから16機が集中攻撃して、結果的には自分たちが犠牲になって市民を守ったと言われています」と語りました。

「宇品丸」風化を懸念 
語り部に

渡辺さんは、宇品丸が炎上した現場近くで生まれ育ちました。

しかし終戦の年はまだ幼かったため空襲の記憶はほとんどなく、宇品丸について周りで話題になることはありませんでした。

渡辺博さん:
「宇品丸のことをみなさんに聞いても分からないんですよね。近所の人とは全くこの話はしません。これはやはり、市民に伝えなければいけないと思いました」

渡辺さんは、当時の宇品丸について、もっと知りたいと考え続けていました。

目撃者との出会い

手がかりにしたのは新潟市の北部公園にある、地元の住民有志がつくった宇品丸の慰霊塔と、その隣にたたずむ石碑でした。

石碑には、宇品丸で犠牲になった人を追悼する歌が刻まれています。

「ああ悲壮 世界平和を夢に抱き 玉砕しけり 宇品の勇士」

渡辺さんは、慰霊塔に刻まれた名前を頼りに、4年前、この石碑を建てた人にたどり着きました。

戦時中、新潟港近くの鉄工所で働き、戦闘機による空襲を目撃していた西野留蔵さん(2016年死去)でした。

宇品丸について尋ねると、当時101歳と高齢で、ほぼ寝たきりだった西野さんが起き上がって、宇品丸の思い出を語り始めました。

機雷に触れて高く上がった水柱。
飛来した戦闘機のごう音。
そして、焼けただれた宇品丸の姿。

西野さんは「宇品丸がいなければ新潟は大きな被害を受けたと思う」と強調し、宇品丸への感謝と平和への思いを込めて、戦後50年の節目に、みずからお金を出して石碑を建てたと話してくれました。

臨場感あふれる話に、渡辺さんは心を動かされたと言います。

渡辺博さん:
「西野さん自身が忘れかけていたことがぱっと浮かんできて、話をするうちに涙ぐんでいました。今はもう空襲を体験されてご存命の方はあまりいないと思います。ここまで知った以上、私がみなさんに伝えていかなければいけないと改めて思いました」

思いを次の世代に

それから毎年、新潟市の戦跡を巡るツアーで渡辺さんは、西野さんから聞いた話も盛り込んで、宇品丸について語っています。

ことしのツアーには、高校生から戦争を知る世代まで14人が参加し、石碑に刻まれた歌を撮影したり、手を合わせたりして思いをはせていました。

新潟市の高校の女子生徒は、「宇品丸のことを初めて聞きました。戦争のときに何が起きたか、きちんと伝えていく必要があると思います」と話していました。

渡辺博さん:
「73年が経過して、新潟の空襲について知らない人が増えていますが、空襲や宇品丸について分かってくれる人が少しでも増えるだけで、やったかいがあると思っています。慰霊碑があるおかげで、これからも伝えることができると思います」

渡辺さんは、観光ガイドのボランティア仲間に呼びかけて、戦争や宇品丸について説明できる後継者を育てる取り組みも始めています。

戦争を体験した人たちが減り続ける中、渡辺さんは戦争の記憶を次の世代に伝えるため、これからも体が動くかぎり、語り部の活動を続けたいと話しています。