
国際社会からの非難が一層高まるロシアのプーチン大統領。そもそもどういう人物なのか。いったい何を考えているのか。
長年、ロシアを取材し、プーチン大統領にも詳しいNHKの石川解説委員と専門家に、経歴や人となりを中心に分析してもらい、わかりやすく解説してもらいました。
1、人生観に戦争が影響
2、2度の国家破綻・危機
というキーワードが浮かび上がってきました。
※この記事は2022年3月15日に公開したものです
ずばり、どういう人なんですか?

愛国者ですね。そのカギはプーチン大統領の生い立ちから知ることが重要になります。
1952年10月7日に、ロシア西部のレニングラード、今のサンクトペテルブルクで生まれました。第2次世界大戦はすでに終わっていましたが、レニングラードといえば、大戦でドイツ軍に900日にわたって包囲され、爆撃と飢えで多くの市民が犠牲となったところです。
実際、父親は軍人で、戦争で重傷を負いました。母親はドイツ軍の包囲網を生き延びましたが、餓死寸前だったと言われています。そして、兄は戦争中に死亡しています。

つまり戦争での傷あとが大きい、生々しい家庭で生まれ育ったということです。だからプーチン氏は、大戦での勝利、勝利への思いがとても強い。それだけの犠牲を払って勝ち取った勝利という思いがあるのだと思います。
政治の道に進むきっかけは?
きっかけとなるのは2つ。
1つは柔道です。
プーチン氏は、少年時代には「学校嫌いの不良だった」と語っていて、それを変えたのが柔道だとも言われています。ロシア政治に詳しい拓殖大学海外事情研究所の名越健郎教授は、柔道はプーチン氏の性格などにも影響を与え、KGB入りにもつながったと指摘しています。

そしてもう1つが、旧ソビエトのKGB=国家保安委員会に入ったことです。プーチン氏は、少年時代にスパイを主人公にした映画を見たのをきっかけにスパイに憧れ、大学入学前、日本でいう高校卒業直後にはKGB入りを志願したと言います。しかしKGBの採用はリクルートのみだったので、KGBの面接官の助言にしたがいレニングラード大学の法学部に入学。その後、リクルートされました。
当時のKGBや外務省は優秀な人しか入れなかったので、成績も柔道も、それなりに優秀だったのだと思われます。
KGBに入ってからのプーチン大統領は?
旧ソビエト時代、KGBというのは国家の中の国家と言われていました。旧ソビエトは、1つの中央集権的な帝国でしたが、それを支えたのが共産党とKGBでした。
KGBには大きく2つの組織があって、国内を担当する公安警察・治安警察と国外を担当する対外情報機関。プーチン氏は対外情報機関に所属していました。東ドイツのドレスデンに派遣されました。
当時のドイツは民主主義陣営の西ドイツと共産主義陣営の東ドイツに分かれていましたが、1990年10月3日、東西ドイツが統一しました。その際、プーチン氏は国が崩壊するのを目の当たりにしました。
プーチン氏は東ドイツの崩壊、そして旧ソビエトの崩壊と、国家の崩壊を2度経験しているわけですが、1回目のこの時の経験も、プーチン氏のその後に大きな影響を与えたと思われます。
東ドイツ崩壊後は?
故郷のサンクトペテルブルクに戻り、KGBに所属しながら、母校レニングラード大学で国際関係担当の学長補佐として働きます。これは経歴としては実は微妙な感じだったと思います。プーチン氏の同僚はモスクワの本局に戻ったりしているわけですし。
この頃はすでに結婚し2人の子どももいました。旧ソビエト末期は自国の通貨ルーブルに対してドルが価値を持つようになっていたため、給料だけでは家族は食べさせられませんでした。
プーチン氏はこの頃、いわゆる「白タク」、タクシーの運転手もしながら家族を養っていたということです。
当時のソビエトの暮らしは?
当時、ルーブルの価値が大きく落ちて、公務員の給料はよくても200ルーブル程度でした。
アメリカのドルが公式レートは1ドル1ルーブルでしたが、闇レート、このほうが実態を反映していたのですが、どんどんルーブルは下落しドルは上昇しました。91年半ばには1ドル500ルーブルほどになっていたと思います。当時、50ドルだと2万5000ルーブルほどになったので、50ドルあればなんとか1か月ほどは暮らせたと思います。
当時は、白タクで稼ぐというのがもっとも簡単な方法でした。黒塗りの公用車の運転手も勤務の合間に白タクをするほどでした。
サンクトペテルブルクには、ドイツ人の観光客がたくさん来ます。ドイツ語の堪能なプーチン氏が白タクをしながら外貨を稼いだのは自然な流れだったと思います。
KGBでのプーチン大統領の評価は?

具体的な実績はわかりませんが、経歴だけ見ると、上司からの評価はあまりいいものではなかったことが伺えます。
KGBでは優秀な人材は西側諸国に赴任しますが、プーチン氏が赴任したのは東ドイツ。しかもベルリンではなくドレスデン。
東ドイツ崩壊後は、本局ではなく故郷のサンクトペテルブルクに戻り、大学で勤務。さらに家族の生活費を稼ぐためにタクシーの運転手までやっていました。
これらのことから、KGBで評価され、出世の道を歩んでいたとは思えません。むしろ、いわゆる出世コースからは外れていて、この時点ではプーチン氏がその後、大統領になるとは、誰も予想できなかったと思います。
でもそれがラッキーだったのです。この時、KGBの出世コースに入っていたら、政治の世界に入ることも、ましてや大統領になることもなかったでしょう。
私はプーチン氏を見ていると本人の意図というよりもラッキー、運のよさというものも感じます。
大きな転機となったのは?
ソビエトの崩壊です。
プーチン氏はソビエト崩壊を悲劇と言いますが、皮肉なことに、ソビエトが崩壊しなければ、プーチン氏が大出世することも、ましてや国のトップになることはありませんでした。
ソビエトが一気に崩壊に向かうこの頃、母校の大学の学長補佐として働いていたプーチン氏はある人物と出会います。母校レニングラード大学の教授で、のちにサンクトペテルブルクの市長になるサプチャク氏です。
このころ、共産党の一党支配が崩れ、地方議会で反共産党のグループ・民主ロシアが多数派となり、市長も民主派となります。その民主派の市長がサプチャク氏で、プーチン氏は大学の学長の推薦で出会いました。
実務をできる有能な官僚を求めていたサプチャク市長に気に入られ、国際経済協力担当の副市長として起用されます。これが人生を変える大転機となりました。

“民主派”となったプーチン氏は何をしたの?
1991年8月に、ゴルバチョフ氏の改革に危機感を抱いたKGBなど共産党保守派がクーデターを起こします。これがソビエト崩壊につながりました。
このクーデターでは、プーチン氏はKGBの職員だったにもかかわらず、サプチャク氏に付き添って反KGBの立場を取りました。そして、クーデターのさなかに、辞表をだし、長年勤めてきたKGBを辞めてしまいました。
プーチン氏は旧ソビエトへの強い愛着がある一方で、こうした現実的な一面もあるのです。
名越教授はプーチン氏の行動について「歴史の流れに乗ろうとした。彼はKGBとしてソビエト体制を守る立場にあったが、土壇場の局面で反KGBの立場をとった。そこから、国家が生存するためには強力な権力機構を築かなければならないという新たな使命感が生まれたようだ」と分析しています。
ソビエト崩壊後は?
サンクトペテルブルクの市長に就任したサプチャク氏に信頼され、第1副市長・国際経済担当に任命されます。当時ソビエト崩壊後の混乱期、外国からの食糧など人道支援の受け入れなど非常に重要な職務でした。
その後、サプチャク氏が選挙で落選し、一時、無職になりますが、サンクトペテルブルク市政から大統領府に移っていたかつての同僚の助けで大統領府の要職に就きます。
そこからはトントン拍子で出世していきます。
大統領府の副長官やFSB=連邦保安庁の長官を歴任し、1999年には当時のエリツィン大統領によって首相に抜てきされます。そして、エリツィン大統領から後継者に指名され、2000年の大統領選挙で初当選しました。

なぜ、トントン拍子で出世を?
プーチン氏は上司には、正直で、とことん尽くすというタイプだったようです。
サプチャク氏から副市長として声をかけられた時にも「実はKGBの職員です」と正直に告白したようです。所属していたKGBを飛び出してまでとことん尽くし、高い信頼を得ていきました。そして、ついにはサプチャク市長の灰色の枢機卿とも言われるほどの権限を持つようになりました。
また、大統領府に入ってからは、当時のエリツィン大統領にとことん尽くしました。FSB長官時代に、当時のエリツィン大統領の家族や側近の汚職疑惑を捜査していた検事総長のスキャンダルを公にして、失脚させたと言われています。
当時、ロシアは、1998年にロシア国債が債務不履行となり、エリツィン大統領はガタガタで、大統領を退任すればエリツィンファミリーは裁判にかけられ国民から糾弾され、ろう獄行きとなるおそれもありました。プーチン氏はエリツィン大統領を窮地から救った形になりました。
後継指名されたのは、エリツィン大統領から「自分たちを守ってくれる信頼できる後継者候補」と思われたことも大きかったのだと思います。
こうしたことから、上司にとことん尽くして、結果をだすことで信頼を勝ち得ていったことがわかります。

部下や同僚に対しては?
プーチン氏が権力の座に就いたときに、側近として呼んだのは、東ドイツ時代のKGBやサンクトペテルブルク時代の同僚や仲間たちです。
サンクトペテルブルクの第1副市長時代の部下は、その後、要職に就いています。一時、大統領となるメドベージェフ氏や国営エネルギー企業トップのセーチン氏などです。自分の側近には、こうした信頼でき、よく知る人を置くという性格がうかがえます。
一方で、プーチン氏自身は、上司にとことん尽くして評価を受けて抜てきされた人です。自身も、自分から求めて地位に就いたのではなく、仕事で結果をだして評価されたと思っているようです。このため同じタイプの部下を評価する傾向があるようです。
俺が俺がと、自己アピールするタイプより、あたえられた仕事、職務をひたすらこなすタイプの人を、実績に応じて評価する傾向があるようです。
また、性格については、プーチン氏を知る関係者からは「約束を守る、優しい、友達を大切にする」という声も聞きますが、裏切り者は絶対に許さない、しかもすぐに復しゅうするのではなく2、3年かけてじっくりと復しゅうするという恐ろしい面もあると聞いたことがあります。
大統領で何をしたの?
プーチン氏が大統領に就任してまず打ち出したのが「安定」と「愛国心」でした。
経済改革を実行し、未払いだった年金の支払いを再開し、10年でGDPを倍にするという計画も打ち出します。資源高が追い風となり、わずか数年で実現します。
2006年に旧ソビエトの債務を完済すると、国際社会に対しても強いロシアを打ち出していくようになります。
2007年のドイツのミュンヘンでの演説では、プーチン大統領が公の場でアメリカの一極支配を批判し、多極化を求めるロシアの立場を表明します。アメリカの一極支配へのチャレンジャーとしての立場を明確にします。
そして、NATOの旧ソビエト内への更なる拡大は許さないとの立場も明確にしていきます。

国民はどう思っているの?
プーチン大統領への肯定的評価は常に60%を超えています。
その大きな理由がやはり「安定」と「愛国心」。
20世紀の間、ロシアは革命と戦争と国家崩壊による大混乱を経験してきました。この30年でも、ソビエトが崩壊し、ロシアになりました。国民も共産主義から民主主義になり生活がよくなるのかと思っていたら、1998年には国家財政が破綻し、生活は厳しくなってしまいます。
ロシアの多くの国民が、ロシアがどうなってしまうんだろうという、いわば「アイデンティティークライシス」のような状況にまで追い込まれてしまったのだと思われます。国民のほとんどが「変化」は悪いことしかもたらさない、自由や民主主義よりも「安定」が欲しいと思うようになりました。
そんな中、大統領になったプーチン氏は「安定」と「愛国心」を打ち出し、実際に政策を実行してきました。プーチン大統領は国民の欲求にこたえた政治家と言えます。
ロシア国民はプーチン大統領を、ナロード(民衆)のことを考えてくれる善き皇帝と思っているようです。
ただ今、プーチン大統領と国民の間のかい離が広がっています。国民は国の偉大さも重要ですが、小さな幸せを維持したいとも思っています。
ところがプーチン大統領は国民は偉大なロシアを望んでいると思ってしまい、そのために自分はいわばロシアの救世主になると考えてしまったのかもしれません。