2023年5月12日
アメリカ

さようなら『オペラ座の怪人』NYで35年の歴史に幕

アメリカのニューヨーク・ブロードウェイで、1988年から上演が続けられてきたミュージカル『オペラ座の怪人』。

白いマスクと赤いバラの看板を目にしたことがある方も多いのではないでしょうか。

上演回数は1万回を超え、ブロードウェイのミュージカルの中で、最多記録を更新し続けてきましたが、4月16日に35年の歴史に幕を下ろしました。

実は、このミュージカルには、2人の日本人女性が在籍しています。初演の時から在籍する演奏者とつい最近加わったダンサー。

それぞれの最後の舞台に臨む思いとは。

『オペラ座の怪人』とは?

「オペラ座の怪人」はフランスの作家による小説をもとにしたミュージカルで、物語の舞台は19世紀のパリ・オペラ座。
顔の傷を仮面で隠し、オペラ座の地下に潜む怪人(=ファントム)と美しいソプラノ歌手との悲恋を描いた物語です。

劇で使われるシャンデリア

数多くのミュージカルの名作を生み出した作曲家のアンドリュー・ロイド=ウェバーさんの音楽に加え、大きなシャンデリアが落下するなど、豪華な舞台装置も見どころのひとつです。

1986年にロンドンで初めて上演された後、ニューヨーク・ブロードウェイでミュージカル『オペラ座の怪人』の上演が始まったのは1988年1月26日。
それ以来35年間、上演を続け、その回数は1万回を超えて、数あるブロードウェイのミュージカルの中で最多記録を更新し続けてきました。

ブロードウェイミュージカルの歴代上演回数のランキング
(Internet Broadway Databaseより 2023年4月9日時点)

1位「オペラ座の怪人」(1988年~2023年)1万3973回
  (4月16日の最終公演で1万3981回)
2位「シカゴ」(1996年~)1万329回
3位「ライオンキング」(1997年~)9944回
4位「ウィキッド」(2003年~)7485回
4位「キャッツ」(1982年~2000年)7485回
6位「レ・ミゼラブル」(1987年~2003年)6680回
7位「コーラスライン」(1975年~1990年)6137回
8位「オー!カルカッタ!」(1976年~1989年)5959回
9位「マンマ・ミーア!」(2001年~2015年)5758回
10位「美女と野獣」(1994年~2007年)5462回

35年の歴史 生き字引は日本人

バスーン奏者 佐藤敦子さん

実は、35年前の初演から、オーケストラのメンバーとして参加している日本人がいます。バスーン(=ファゴット)奏者の佐藤敦子さんです。
カンパニーのみんなから「あこ」と呼ばれ、スタッフや出演者の間でその存在を知らない人はいません。

大学生時代の佐藤さん

横浜市出身の佐藤さんは4歳でピアノ、17歳でバスーンを始め、アメリカの名門、ジュリアード音楽院を卒業。
別の作品で演奏していた姿が関係者の目にとまり、「オペラ座の怪人」の初代オーケストラのメンバーに採用されました。

当時、フリーランスで活動していた佐藤さんは「安定した仕事に就けた」といううれしさがあったといいます。初めての公演はさぞ感動的だったのだろうと、そのときの感想を尋ねると、こんな答えが返ってきました。

佐藤敦子さん
「オープニングの日には、100時間のリハーサルと1か月のプレビュー公演を経て、『やっとここまでこぎ着けた!やっと休める!』という気分でした。とにかくそれまでは休みがなかったんです。でも、公演が始まれば、週8回の公演のうち半分だけ出ればいいので、やっと休める、と思ったんです」

ブロードウェイのオーケストラには『50%ルール』というものがあり、週6日間、8回行われる公演のうち、半分に出れば契約を解除されないといいます。このルールのおかげで、初演から演奏を続けているオーケストラのメンバーは8人にのぼります。
佐藤さんも公演の合間に、室内楽の演奏会や、ニューヨーク・シティ・バレエ団での演奏なども行っています。

『オペラ座の怪人』が始まった頃の佐藤さん(右端)と娘 回りは音楽仲間たち

佐藤さんの人生の歩みは「オペラ座の怪人」の歴史と重なり合っています。

公演が始まったとき、佐藤さんは3歳の長女の子育ての真っ最中でした。週6日、夜の公演がある日には、ベビーシッターを雇って、劇場に駆けつけていました。ベビーシッターが突然、来られなくなったときには、同じ時期に子育てをしていた音楽仲間と交代で子どもを世話をしながら、なんとか乗り切ったといいます。

「ベビーシッターが急に来られなくなったから『これから預かって!』みたいな感じでお願いをして。でも、お互い様なんです。一緒に子育てをしている仲間がいたから乗り切れました。もちろん、子どもに『行っちゃ嫌だ』なんて言われたときには、本当に仕事に行っていいものかと悩みますよね。それは母親なら誰もが経験することだと思います。そのとき3歳だった娘がいまや母親になり、私には、いま孫も2人います。35年って、そういう歳月ですよね」

変わったもの、変わらないもの

子育てをしていたらあっという間に過ぎた35年だったという佐藤さん。この間、作品そのものにも大きな変化がありました。

それは「出演者の人種の多様性」です。

歴代の出演者の説明をする佐藤さん

怪人役に初めて黒人の男性が抜擢されたのは2014年のこと。2016年にはヒロインのソプラノ歌手役を初めてアジア系の女性が演じ、2022年には黒人の女性が演じました。

佐藤敦子さん
「感覚的にはおよそ5年ごとに節目があるんですよね。特に”25年”のときは大きな節目で、マイノリティーの方が主役をとるようになったんです。それまでも出演者にマイノリティーはいましたが、主役級のキャラクターではなかった。だから黒人の俳優が怪人役を演じたとき、そして、フィリピン系の女性がヒロインを演じたのは節目の1つです」

ブロードウェイミュージカルの世界は、これまで閉鎖的な人種観がたびたび批判されてきました。特に演出家や脚本家などは白人男性が中心の世界とされ、出演者も白人が中心になってきたと指摘されています。

近年、白人以外の出演者が増えてきてはいるものの、アジア系の俳優で作る団体が調べたところ、有色人種の割合は主役級で20%、脚本家で14%、演出家にいたっては1人もおらず、多様性の確保が依然として課題となっていました。
(AAPACによる最新の調査 2018年~2019年)

ミュージカルの歴史に詳しい、ニューヨーク大学のローレンス・マスロン教授は、「オペラ座の怪人」はブロードウェイの”生き証人”で、この作品の変化をみれば、35年の社会の変化がわかると指摘します。

ニューヨーク大学 ローレンス・マスロン教授

「1988年にこの作品が始まったときには、白人の出演者ばかりでした。しかし、時が経つにつれ、多くの有色人種の俳優が出演するようになりました。このミュージカルの舞台は1911年のパリなので、当初はその時代らしい演出を無意識のうちにしていたのでしょう。しかし、社会が多様性の概念をより理解し、1911年のパリに実際にどういう人たちがいたのかという歴史的な事実に即す必要がなくなったことで、舞台上の有色人種のパフォーマー、ダンサー、オーケストラのメンバーにも、より多くの機会が与えられるようになりました。この作品は、ブロードウェイで見られた多くの変化を取り入れているのです」

一方、佐藤さんによると、35年、変わっていないものもあるといいます。それは・・・。

佐藤敦子さん
「譜面です。音響設備のスピーカーは最新式になるなど変わっているんですが、譜面は変わっていません。生演奏なので、いろいろなことは起きますけどね。笑っちゃいけないんですが、あるとき、怪人役の俳優が放った火が、オーボエ奏者の頭に飛んできて、髪が燃えちゃったことがありました。頭をたたいて消そうとして大泣きしていたんですが、ショーは止まりませんでしたね」

ミュージカルが何度も直面した困難

多くの人に愛されてきた「オペラ座の怪人」。しかし、いつも順調だったわけではないと、佐藤さんは振り返ります。

35年の歴史の中では、休演を余儀なくされたことが何回かありました。そのうちの1回が、2001年9月11日に起きたアメリカ同時多発テロ事件です。

当時の市長の要請で、事件のわずか2日後には再開したものの、観客はなかなか集まらず、「テロには屈しない」という思いだけで公演を続けたといいます。

佐藤敦子さん
「9月11日は火曜日だったんです。そのときの市長から『木曜日から開けてくれ』と要請がありました。でも最初は200人くらいしか集まらなかったんです。このままニューヨークはなくなってしまうんじゃないか、ブロードウェイは全部、つぶれるんじゃないかという気分でした。それにいつ何が空から落ちてくるか分からない。仕事に行くのも戦々恐々で、落ち着かなかったですね。それでもやめるとはまったく思わなかったです」

さらに長期間の休演を迫られたのが新型コロナウイルスの感染拡大です。およそ1年半にわたって休演を余儀なくされました。

35年間で培った人材が支えに

再開後も、ほかのミュージカルは出演者などが新型コロナに感染して、たびたび休演することがありましたが、「オペラ座の怪人」は、1度も休演せず、公演を続けてきました。

鍵を握ったのは35年の歴史が培った人材力です。
再開するまでに、過去に出演したことのある人たちに声をかけ、いつでも誰でも代役ができるよう、準備を整えていたというのです。この35年間の出演者は400人以上にのぼります。

ダンサー 亀井彩花さん

ダンサーの亀井彩花さんもそんな1人です。「オペラ座の怪人」の海外ツアーに参加した経験が買われて、新型コロナに感染した出演者のかわりに呼ばれ、その後、正式なメンバーになりました。
1988年生まれの亀井さんは、このミュージカルのないニューヨークを知りません。

亀井彩花さん
「生まれたときからそこにあった舞台に出られる、というのは本当に幸せです。誰かが休むことになると、そのかわりをできる人がたくさんいるんですよね。『6年ぶりだよ』なんて言いながら出る人もいました。みんなで支え合って、本当の家族みたいです」

それでも・・ついに迎える終演のとき

さまざまな困難を乗り越えながらも続けられてきた公演。しかし、新型コロナからの再開以後、思うように客足が戻らなかったことから、ついに、その歴史に幕を閉じることになりました。

1回の公演に37人の出演者、27人のオーケストラ、そしてスタッフを含めて総勢125人が携わっているこの作品。豪華な舞台装置や衣装にも費用がかかり、1週間の公演で、100万ドル(日本円でおよそ1億3400万円)かかるともされ、再開後は赤字を計上する苦境が続いていたといわれています。

リハーサル中に流れてきたニュースをみて、出演者の間では大きな動揺が広がったといいます。

稽古をする亀井さん

亀井彩花さん
「聞いたときは信じられませんでした。え?終わるの?うそでしょ?みたいな感じでした。ちょうどリハーサルをしていたんですけど、みんなフェイクニュースだと話していました。でも、そのあとミーティングがあって、終わると告げられて、とてもショックでした。中には泣いている子もいました」

佐藤敦子さん
「『ファントムファミリー』なんて呼んでいるんですが、本当の家族のような存在です。35年間、同じ仲間で、けんかもしながら過ごしてきました。常に帰るところがあるという安心感はいいものですね。それがなくなるのは、とてもさみしいです。でも、開けたものはみないつかは閉まります。それに、ショーは一期一会ですからね」

専門家は、「オペラ座の怪人」は、ニューヨークにとって、単なるミュージカルの枠を超えて『歴史の一部』になっていると指摘しています。

ニューヨーク大学 ローレンス・マスロン教授

「『オペラ座の怪人』はニューヨークの代名詞のような存在で、怪人のマスクとバラのポスターやその音楽は、誰もが一度は見たり聞いたりしたことがあります。ニューヨークを訪れる観光客の行き先の1つに、この作品が入っているほどで、この四半世紀、観光客に支えられてきました。でもだからこそ、新型コロナで観光客が来なくなった時に大きな打撃を受けたのです」

迎えた最終公演 歴代出演者の姿も

そして迎えた16日の最終公演。1988年の初演から数えること実に1万3981回目の公演です。
最後の瞬間を近くで見守ろうと、劇場周辺には、チケットを持っていないファンも多く集まりました。

最終公演の直前 演奏仲間に撮影してもらった一枚

佐藤さんはいつもどおりの心構えで、普段どおりの演奏をしようと、リラックスした気持ちで臨んだといいます。

公演前から劇場内は熱気にあふれ、テーマ曲に合わせて舞台上の巨大なシャンデリアが劇場の天井まで上っていく注目の場面では、観客からひときわ大きな拍手と歓声が沸き起こりました。

舞台に集まる歴代の出演者たち

そして公演のあとのカーテンコールでは、1988年の初演でヒロイン役を演じたイギリスのソプラノ歌手、サラ・ブライトマンさんなど歴代の出演者や、作曲を手がけたロイド=ウェバーさんなどが登場し、全員で劇中の曲を熱唱。劇場内の熱気は最高潮に達しました。

終演後、亀井さんはすがすがしい表情で劇場から出てきました。

亀井彩花さん
「すばらしい公演だったと思います。感無量です。やりきりました。このミュージカルは、私にとっては人生で1番大きな影響を与えてくれた作品です。この作品が刻んだ偉大な歴史は残るし、この作品のようなすばらしい作品がこれからも生まれていくと思います。私もまたブロードウェイの舞台に立てたらうれしいです」

35年間、作品とともに歩み続けてきた佐藤さん、最後の公演が終わってからもミュージシャンとして活動を続けていきたいと考えています。

佐藤敦子さん
「無事に終わりましたね。最後の公演もいつもと同じように、平常心でやりました。これだけの人が見に来て、みんなをハッピーにできるんですから、こんなにすごいミュージカルはほかにはないと思います。私の孫たちが見られるまでできるとよかったんですけどね。まだ終わったという感じはしません。先がありますので。これからも気心の知れた仲間たちと室内楽をできるだけ続けたい思っています」

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