【対談・後編】「共に作るラジオ」の先へ
~孤立に抗う社会を作るには~

これまでのひきこもりに関する番組作りは本当に当事者や家族の役に立っているのか-。そんな疑問を抱えていた取材チームはひきこもりの人々と意見交換を繰り返し、昨年5月に始まったのが「みんなでひきこもりラジオ」。“当事者と共に作る”コンセプトの放送には「初めてひとりじゃないと思えた」「人と会うのが怖い、けど話をしたい」など胸の内が数多く寄せられ、交流の輪が広がっています。さらにMCの栗原アナはラジオブースを出て、全国の当事者や家族と対話を重ねました。
前編では、ラジオから学んだコミュニケーションのあり方やひきこもり報道のあり方について議論しました。
【対談・前編】「共に作るラジオ」の先へ ~孤立に抗う社会を作るには~
後編では、当事者の親や家族への支援についての議論です。孤立にあらがい、周囲と新たなつながりや助け合いを紡ぎ出すために、今何ができるのかを考えます。

ひきこもりの支援活動を行う社会福祉士の長谷川俊雄さん、長年にわたり当事者の取材を行う作家の石井光太さん、武田真一キャスターと共に、番組で使用した「出張ラジオカー」を停めた河川敷で、これからのひきこもりとの関わり方について意見を交わしました。
2020年12月9日に放送したクローズアップ現代+の対談記事です。

“べき”が蔓延する社会で

武田
当事者の方たちがいろんな思いを持っていて、居場所がほしい、誰かとつながりたいということはわかったんですけれども、それにもかかわらず現実には多くの方がやはりまだひきこもっています。何が壁になっていると思いますか?

栗原
みんなでひきこもりラジオを通して、だんだんとわかってきたのは、実は一番そばにいる親の存在が壁になっているのではということです。たとえばこんな投稿がありました。

ウミさん・横浜・20代 高校を卒業したあとひきこもり始めて3年になります。その間に数回アルバイトもはさみましたが、長くは続かず、いまに至ります。いろいろな人に相談してみたりもしましたが、抜け出せません。悩みは親、きょうだいとの距離感、社会と自分の間にある壁です。人が怖い、でも話したい、つながってみたい、そう思いながら生きています

まさに親、家族が壁になっている投稿はすごく多かったです。

長谷川
親が感じている課題と、本人が持っている課題が食い違っている。親はひきこもっている子どもを持つことによって不安や焦りがあり、将来がみえない。不安があるのは当然だと思うんです。そうであれば親の不安や焦りは、まずは本人に働きかけないで解決すべきだと思うのですが、どうしても子どもを動かすことで解決をしようとしてします。そこで子どもとコミュニケーションが成り立たない関係性を生み出してしまっています。
子どもは何に苦しんでいるのか、なぜこんな状態になっているのか、そこに心を寄せたり意識を持つことがなかなか親にはできない。それは、家族の問題だから家族だけで解決すべきだという、親も「べき」で縛られていて、なおかつ親を支援するところが非常に限られていて社会資源として不足しています。

石井
多分見ている距離も違うと思いますね。親御さんだといわゆる持続可能と言ったらおかしいですけど、一生きちんとうまくいけるようなレールに乗ってほしい。それは親の願いとして正しいと思うんです。ただ子どもとしてはそうではなくて、今の1歩、この1歩が重要なんだと考えてる。そうすると、やっぱりズレってどうしても出てきますよね。

栗原
親御さんのお話を聞いていても、社会の空気感に親が押しつぶされていくような様子というのはすごく受け取れましたし、社会の側にプレッシャーが存在していて、周りから言われる言葉1つ1つがお父さんお母さんの胸にグサグサと刺さって傷ついてしまうのが改めてよくわかりました。

長谷川
親自身が少数派に転落することで未来や希望を失うと恐れている。だからしがみついてしまって子どもを動かそうとしてしまう。でも違う生き方や価値観を持って小さな幸せを手にしていく生き方だってあるわけです。そういう意味で言うと、今の社会にある種の見切りをつけるのか、腹をくくって違う生き方を子どもとともにするという、ともに新たな生き方を模索することが大事になるのかな。簡単じゃないことは重々承知なんですけども。

石井
僕は「~すべき」と親が考えるのはある程度仕方のないことだと思ってます。ひきこもりの子どもを養ってるわけで、社会の最前線の中である程度の稼ぎをしてほしいという価値観はやはりあると思いますし、「~すべき」という言葉は子どもを守りたい気持ちゆえだと思うんです。親と子どもはどうしてもわかり合えない部分があるし、どうしても親の善意が裏目に出てしまうこともあるわけです。でも大切なのはそれと同じ圧力を社会がかける必要はないですよね。特に、ひきこもりとは全く関係ない人たちまでその家庭に圧力をかける必要はないわけです。例えば学校の先生だとかアルバイト先の店長さんだとか、あるいは友達だとかラジオリスナーの人とかも含めてですね、親と違うことを言ってくれる人が周りにいれば、小さな幸せや違う価値観を見出すことはできるんじゃないのかな。やはり親や家庭の責任というふうに考えるのではなくて、家庭ができないことをどうやって周りの人たちがやっていくのかが大切だと思っています。

家族全体で“ひきこもり”になっている

武田
よく親を苦しめるのは「世間体」と言われますけれども、僕も子を持つ父親として思うのは、世間体だけじゃないと思うんです。今のこの社会というのは本当に厳しくて、非正規労働も広がっていて、とにかく親も不安なんだと思うんです。ですから、どうしても子どもを心配する、安全を求める。そうすると子どもに提案できることとして、いい学校に行って、いい会社に入ってということぐらいしか思いつかないんですよね。それは確かに親の無力なんですけれども、でも決して子どもをいじめたいとか否定したいと思ってるわけじゃなくて、ただただ子どもに楽に暮らしてもらいたいという願いだと思うんです。でもそれが自分1人の力ではどうにもできないから、子供を責めてしまって家族の中で閉じこもってしまう。ほんとに親の気持ちというのは苦しいんだろうなと想像します。

石井
お父さんお母さんをみていると本当に必死になっています。これ以上ないと思うぐらい悩んでいるし、周りがこうしろああしろと言う何倍もすでにやってるんです。そこに対してさらに周囲が新しい視点をこう投げかけて、もっとあれやれこれやれ、これを理解しろっていうのはなかなか厳しいと僕は思ってます。ひきこもっている子どもに対する支援だけでは全然足りないわけです。必要なのは親やきょうだいに対する支援、あるいは親戚のような周りの目線も含めて啓発活動をしていきましょうというような形で、トータルケアという考え方でやっていかないと、たぶん家族の問題っていうのは解決できないと思うんです。しかしわれわれはそう考えずに専門家に任せよう、問題がある子の問題だけを治せばなんとかなると考えてしまう。ここに問題がこじれてしまう原因があるのではないのかなと思ってます。

武田
家族全体がひきこもり当事者なんだということですね。

長谷川
そうですね。ひきこもりご本人と親が関わると、ひきこもりが深まったりするんです。つまり最初にひきこもったのはご本人の課題かもしれないけれども、そのあと複雑化したのは家族で作ってきた問題だと思うんです。これはひきこもりに限らず家族の中で起きているあらゆる問題はそうだと思うんですけれども家族だけで解決していくのは難しいんです。僕は「切ない関係性」って呼んでいるんですけれども、親はとことんこの子のために考えて提案しているんですけれども、親のよかれは子どもの迷惑になっちゃうという。これが何度も何度も循環していって、身動きがお互いにとれなくなるっていうこともあるんじゃないかなって考えています。

求められるケアラー支援

石井
今、例えば高齢者のケアや見守りというのは、ケアラー支援という言葉がすごく多くなっていまして、高齢者を介護する家族や子どもたちを、いかに支えるかというのが地域で非常に重要になってきています。自治体主導でそういった人たちを集めて、介護者をきちんとケアしていこう、リラックスさせたり、相談させたり、あるいはアンガーマネジメントをしたり、いろんなことをやってるんです。これは多分ひきこもりに関しても同じことが言えて、ひきこもりの人たちを支える親というのはケアラーなんですよね。そのケアラーたちをきちんと支援をする。社会として支援をする。そうすると初めて違う価値観と触れたり、あるいは自分と違うことをやってることを見て、たくさんの気づきがあったりリラックスできるんですよね。でも今は、本当に数少ない家族会だけで何とかやっているんですけども、例えば自治体だとか、もちろんやっているとこもあるんですけど、もっと広い形で親の会を支援していくことが日本で必要なんだと思っています。

栗原
まさに親の会に参加して状況が変わったという声を紹介しようとします。

ダンボのママさん・京都府 10年前、中学生のひきこもりだった息子を持つシングルマザーです。そのときは本当にどうすればいのかわからず、息子を殺して私も死のうと何度も思い、実際、息子の首に手をかけたこともありました。でも、ひきこもりの子どもを持つ親の会に参加して、自分だけではないこと、そして、子どもにとってこの時間が必要なのだということに気づきました。今はコロナのためひきこもり同然の毎日ですが、息子は希望を抱えて生きています。どうかひきこもりになってる皆さんもご家族の皆さんも希望を失わず、日々を大事に過ごしていただきたいと思います

究極の局面まで行った方が親の会に出会って変化したと、息子さんも変わっていったと、そういうメッセージですよね。

長谷川
誰かと話をすることは、ただ話してるだけだとよく言われることがあるんですけども、話すことはここにある不安を放すことになるわけだから、まずは話すことによって不安や焦りを一旦放す。そうしてお父さんお母さん方が少しゆとりを持っていただくことが、そこからしか出発ができないと思っています。

武田
そうした親の悩みや苦しみというのは当事者にはどういうふうに伝わっているのでしょうかね。

長谷川
そこがとても難しいと思うんです。子どもはやっぱり親の、自分に対する悪い影響に注目しがちですよね。人間って自分が傷つく体験に敏感ということがあって、普段親がご飯をつくってくれているんだけど、そこは評価しないとかですね。なおかつ、ご飯についてはお父さんお母さんも当たり前だと思って出していることもありますよね。そこで例えば「きょうのご飯おいしかった?」とか「あなたの好きな何とかよ」とか、もうちょっと丁寧にコミュニケーションを工夫する余地もあると思うんです。お父さんお母さんたちには固定している表現の仕方があって、よくアイメッセージ・ユーメッセージといいますけども「あなた」を主語にするといい悪いになってしまったり、こうしなさい、こうすべきだになってしまう。そうじゃなくて、「お母さん、とても不安なんだ」「母さん、うれしかったよ」という「わたし」を主語にすると、随分マイルドになって、緊張・対立もなくなるということはありますよね。お母さんお父さんが、多くの人たちとの間に持ってたコミュニケーションのスキルを、もっと自分が楽になり、楽しい会話ができる、そういうコミュニケーションに変えて少しずつ表現してみる。
いきなりやると失敗するんです。だから、家族会や家族講座や家族相談の中で試しながら、お母さんもお父さんも自信を持てたら試してみるとかですね、そういう家族外の第三者、あるいはそうした場所が必要だと思います。

まずは「わかり合えないことをわかる」から

栗原
今回、山梨県でひきこもり支援をするソーシャルワーカーの芦沢さんからもお話を聞きました。印象に残ったのは「わかり合えないことをわかる」ことの大切さだと思いました。家族のあいだであっても、適切な距離感が必要なんだなということを痛感しました。

山梨県中北保健所の芦沢茂喜さんの支援は「一定のリズムで訪問する」「正論を言わない」「ゴールを求めない」。緊張関係のある親と子のあいだに入ってお互いの考えやコミュニケーションの整理が重要だという。
WEB記事「ふすまの向こう側と」
https://www3.nhk.or.jp/news/special/hikikomori/pages/articles_31.html

長谷川
つまりわかり合おう理解し合おうということに強迫的にならないことだと思うんですよね。それと芦沢さんの活動はとても理にかなったものだと思うんです。引き出すんじゃなく、出てくる支援だと思うんですね。それは無理がないし侵襲的ではなく、相手に心的外傷を与えるようなものではない。そこには待つということと、そこに存在し続けること。なおかつそれが定期的に行われることで安心感や安全感を育むんだろうなと思いました。ソーシャルワークの世界では媒介的機能とか仲介的機能って言ってるんですけどもお互いの相互性みたいな関係性をよくする。親子の二者関係だけではなく、支援者との二者関係、仲間やNPO法人のスタッフとの二者関係など、いろんな二者関係を手にすることによって、関わる世界を広げる支援なのだと思いました。

武田
私は親の立場で子供をわかるように努力するということが最大の愛情表現だと思っていたんですね。だからわかり合えないことを認めるということは、すごく切ない気もするんですけれども。

石井
わかり合えないとはいっても、それぞれの価値観って違うわけじゃないですか。どっちかが間違ってるわけではなくて、お父さんの価値観もそれはそれで正しいし、子供の価値観もそれはそれで正しいわけですよね。それは違うからわかり合えないというだけであって、そこに第三者が入れば「その価値観わかるよね。この価値観もわかるよね」となれば、お互い認め合ったことにもなるんです。わかり合えなくても、お互いをなんとなく理解できたら、一緒にいられるわけです。そう考えた時に、必ずしもわかり合えないことは悲しいわけではなくて、わかり合えなくても何かが入ることによって一緒にいれるということを、その状況を作ることが大切なんじゃないのかと思います。

栗原
そうですね。わかり合えないけれども、尊重はできる関係性が、そこに誕生してるってことなんでしょうね。

石井
そうですね。

「あなたらしく生きていく」ことを支援する

栗原
ラジオに投稿を寄せてくださった方々の中でもうひとりご紹介したいのはA4・2ページ分にわたるメッセージを送ってくださった、初夏さんという女性です。今回出張ラジオカーでお会いする約束まではできていたんですけれども、途中で会えなくなってしまった方なんです。だけど伝えたいことがありまして、それは支援の中で感じた違和感についてでした。なんとか支援につながろうとしてメールを書いたんですけれども、彼女のもとに返ってきたのは、無機質な、電話番号とテンプレートのメッセージだけ。そのことについてこの初夏さんは「ひきこもりでなく、一人の人間として向き合ってほしい」という切実な声を寄せてくださったんです。
長谷川さん、支援の現状と課題というのは今どう感じてますか?

長谷川
初夏さんの言葉は僕も支援者の一人として重く受け止めたいと思います。支援者ってどうしても、その人の課題を中心に見てしまうというか、課題を持つ一人の人間として見ることが、実はとても苦手なんじゃないかなと思うんです。基本の基なんだけれども、どうしても課題に目がいってしまって同じように支援者が解決しようとしてしまう。そこでゆとりを失ったり焦ってしまったり。そうするとどうしても無機質な、ご本人の感情に寄り添う助走はカットしちゃって、いきなり本題を提供するみたいなことがあるんじゃないのかなと思います。あと、多くの地域では保健所が解体されて福祉保健センターのようになって、訪問活動ができなくなってもう20年ぐらい経っているんです。そういう意味でいうと、なかなか地区活動ができない行政のシステムも、大きなネックになっていると思っています。
また民間の支援ではNPO法人もあるのですが、ちょっと申しにくいところもあるんですけども、とても素晴らしい実践をしているところもあれば、ほとんどビジネスに近い、ひきだしビジネスのようなNPOもあったりするんです。そのコントロールをする行政のシステムが弱い。あるいはNPO法人がやってる支援の中身がなかなか公開されず、見えにくい。そうしたことをオープンな情報として誰もがわかるようにする、情報へのアクセスの課題もあると思っています。

武田
しっかり当事者の話を聞くことであったり、家族を包括的に当事者として捉えてサポートするとか、どんな支援のあり方がこれから必要になってくるのでしょうか?

長谷川
その人の自立を目指すのが支援なのか?そうではなくてその人がその人らしく生きていくことを支援するのが大事で、やっぱり生きることの支援だと思うんです。生きることの支援のあとに、その人が何々をしたいといった時には、そのしたいことが実現できる支援だと思うんですね。とても堅い話になりますけども、日本国憲法の第25条が生存権。行動権や活動権じゃないんです。まず生きていく。生きてることを支援しようというところに、ひきこもり支援ももう一回戻ってそこを基本に据えるべきじゃないか。
次に大事になってくるのはやはり包括的支援とか、継ぎ目のないシームレスな支援です。言葉としてはとてもきれいなんですけども、包括的支援の中身がなんなのかということを、実は現場は何をどうしたら包括的になるのかということはわかってないんだと思うんです。だから言葉が先行してしまったり、理念が先行してしまっているので、そこを具体的に示す。芦沢さんもそうですけども、実践を掘り起こし、解釈し直して、普遍化していく。そうしたことを国や地方自治体の行政が行うべき、課題でもあるなと思っています。

栗原
包括的支援ですけれども、今神奈川県の大和市でこもりびと課という課が設置されまして、当事者や家族の悩みを包括的に相談に乗ってくれます。その中で、こもりびとコーディネーターが家族に伴走してサポートしていくという取り組みが少しずつ始まっているんです。

長谷川
縦割り行政の中でどこがひきこもりを担当するのか、押し付け合いになってしまうのはよくあることなんです。大和市の場合は一つのセクションで丸ごと受け止める。なおかつそこに権限を付与してるので、他のセクションも一緒に動かざるを得ないというところ大きいと思います。そういうセクションを作っても、縦割り行政のまた一つの縦割りになってたら意味がないと思うんです。横断的に組織化ができる権限や役割・機能を全庁的に認知をしている先進的な取り組みだと思っているところです。

「共生=お互いに依存しあえる」社会へ

武田
行政やNPOの支援のあり方や新しい取り組みもどんどん生まれてきていますけれども、ただこれだけひきこもりが多くなっている現状では、当事者やご家族が直接接する近所の方とか、学校とか会社とか、やはり社会全体や地域の関わりがすごく大事だと思うんです。「みんなでひきこもりラジオ」のような空間をいかに社会の中に作っていくかということだと思うんですけれども。

石井
今の世の中は「こうやって生きろ」「こうやって生きるべきだ」というものが非常に強くあると思うんです。共働きで、きちんとした企業の正社員になって頑張れ、そして税金を払えというようなのがひとつのメインストリームになっている。だけど僕たちの生き方は千差万別なわけです。必ずしもそこに乗らなくていいはずなんだけれども、でもそれがどうしても社会で求められてしまうがゆえに親や周りがそう生きられない子供に対しても求めてしまう。僕たちがもう一歩引いて考えないといけないのは、例えばひきこもって、外に出て、またひきこもってという生き方だってひとつの生き方なわけで。あるいはお父さんが子供に「頑張れ」というのもひとつの生き方なのかもしれない。それらを狭い家庭の中だけだとどうしてもぶつかってしまうわけですから、認めてあげるのは、その周りの人にしかできないと思うんです。
達成感を感じるきっかけって細かいところでたくさんあると思うんです。一歩外へ出るというのもそうかもしれないし、家の中で料理を作るというのもあるかもしれないし、きょうだいと話をしてみるのも達成感かもしれない。達成感って、結局周りが褒めてくれないとなかなか感じられないんです。だから例えば苦しんでる人が小さいことを達成したとき、それを社会の価値観ではなくて、その人の目線の中で褒める。その人は達成感を得て「もっと頑張ってみよう」「今度はこっちをやってみよう」って考えられると思うんです。それは親も同じだと思っていて、親もいろんな達成感が本来はあるはずで、周りはきちんと認めてあげれば、子供に対して「今度はこういうふれあい方をしてみよう」と考えられるようになってくる。それって国とか行政が何かというよりも、むしろ周りの人たちが小さなところでひとつずつ認め合う。こういった積み重ねが最終的に、みんなの生き方を楽にするのではないのかと思っています。

栗原
今回ラジオを担当して、7500の声を聞けば聞くほど思うのは、ひきこもりの皆さんの声というのは、多様で優しい社会への招待状なんじゃないかなと思っています。例えば学校ではみんなが普通に同じことをやるんじゃなくて、一人ひとりに合った学び。家庭でもそれぞれに合ったパートナーシップのあり方。職場も、それぞれに合った働き方ができる。そういう多様で優しい社会への入口を教えてくれているのかなと思います。やはり私たちは当事者の声をまず聞く、まず受け止めていくところから、一緒に社会を作っていきたいですし、メディアの一人としても、そういった場所を幾つも提供できるように取り組み続けていきたいなと思っています。

長谷川
今、ちょっと金子みすゞの詩の一節を思い浮かべましたね。「みんな違って、みんないい」。明治期にすでに多様性の大切さを詠んでる詩だと思うんですけども、まずそのことを一回取り戻すということが私たちの課題だろう。実は私たちが社会に出て働いたりしているけれども、よくよく考えてみると、結構孤独だったりとか、表面的な付き合いしかしてない方たちも大勢いらっしゃるんじゃないかなと思うんです。そう考えると、私はひきこもりの問題は、社会的な孤立の問題ではないのかなと思っていて。もう一回私たちの耳を大切にするというか、人の声を丁寧に聞いていく。そして丁寧に聞く中に、自分の痛みや苦しみも重ね合わせて想像していく。もう一点は、やっぱり、一人で生きてっちゃだめなんだと逆に思ったんですね。言葉はきついかもしれませんが、多くの人たちに依存していく。みんなで依存し合って生きていくことを、共に生きる、共生とか連帯っていうと思うんです。そうしたことをこれからの時代の大きな課題として、ひきこもりのご本人たちは、私たちに投げかけてくれてるのかなと思いました。

武田
はい。きょうはどうもありがとうございました。

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