名古屋市に住む81歳の男性は2月末に新型コロナウイルスへの感染が確認され、3月、ふるさとから遠く離れた東京の病院で亡くなりました。1人で父を見送った息子、夫をみとることができなかった妻。亡くなるまでの1か月を語りました。

健康のために通っていたスポーツジムで ~妻の話~

男性は妻と2人暮らし。ゴルフが趣味でスポーツジムに通うなど81歳という年齢を感じさせない活動的な人だった

2月18日にジムに行ったんですよ。ジムには土日をのぞいて毎日行ってて。その日は行ったら消毒してたんですって、ジムがね。コロナにかかった人がいるっていうことで。

19日に朝起きたら「なんか、ひざがおかしい」って、熱を測ったら38度。ジムに電話したんです。「コロナにかかった人がいるって聞いたんですけど、その方は何曜日の何時にジムに行ってたんですか」って聞いたら、「同じ時間帯に同じスタジオの中に2日間いました」って。

それでもうスポーツジムの方が「病院へ行ってください」って言われて。病院に電話をかけたら、保健所のほうに相談するように言われて、病院へ行きましょうということで。もう行った時点でエックス線で肺炎になってることが分かったのでそのまま入院ていう形になって、あくる日に陽性って分かりました。

熱だけで元気だったんです。食欲もあって。入院してからだいたい1日3回ぐらいは電話かけていますので、「熱下がってきてるよ。でも食事がまずい」とかって言ってたんですけどね。そんなに深刻な状態じゃないと思ってましたけどね。そこからあっという間に悪くなったんですけどね。

「退院したら酒を飲もう」回復を信じていた家族 ~息子の話~

実家から車で30分ほどの場所に暮らしている息子は、父の感染を聞いて驚いたが楽観していた。入院直後も元気な様子だったから

びっくりしましたね、急なことだったので。でも死亡率っていうのを見ると数パーセントだったので、まあ元気でしたし、まさかね、亡くなるなんて思ってない。食べるのも年のわりにはすごく食べてたし、本当にひいても風邪ぐらい。どこも悪くなったことがなかったから。お酒もけっこう好きで、たまに会うと一緒にお酒を飲んで。最後に僕が会ったのは2月1日だったんですけど、その時に日本のウイスキーを持って行ったんですけど、「おいしいおいしい」って言って飲んでいたもんですから。

1人で窓もない病室にいるって言うので、交代でみんなで電話をかけてあげようと。会うこともできないし、何もしてあげられないので、せめて電話だけはっていうことで、僕ら家族が交代で毎日電話をしてましたね。電話かけると「熱下がった」って言ってるものですから、むしろ良くなったときすぐ動けるように「病院の中で歩いとらんと、足の筋肉とか落ちちゃうんじゃない?」「そうなんだ、せっかく鍛えたのに筋肉落ちちゃうから、ちょっと運動しようかな」って言ってたんです。本当に元気でした。

一度父がですね、「みんなで頑張って元気でやってくれ」とお別れみたいなことを言うので、どうしてそんなこと言うの?と、熱も下がってきていたものですからね。「大丈夫だよ」と、「出てきたら、また一緒にお酒飲もうよ」と。ちょっと高い酒をね買ったんですが、それを飲もうって言ったら、「ああ、そうか。ありがとな」って。

実はそれが最後の会話で。その日の夜には酸素濃度が急に下がって。翌日だったですかね、もう人工呼吸器を取り付けるっていうところまで急に容体が悪化してしまいました。

思いがけない事態に ~息子の話~

入院4日目、肺炎が進行したため男性はICUに移された。翌日には気管挿管したが、さらに症状は悪化した。息子が主治医から受けた説明はー

酸素濃度の状態が悪くなってきたということで、人工呼吸器のサポートでもすでに限界であろうと。そのときに「人工心肺、ECMOというものがありますから、それを使った治療に切り替える必要があります。最大限効果を引き出すためには、専門の先生がいらっしゃる病院に転院する必要があります。転院する形になってもよろしいですか」と。

最初は三重県と言われたんですけども三重は病床の空きがなくて、しばらくは名古屋の今の病院でっていうこともご検討いただいたみたいなんですが、東京のほうで病床に1つ空きがあるから、そちらのほうへと言われました。最初に聞いたときは、父はずっと愛知県で生まれて育ってるもんですから、東京というところに1人で行かせるのがかわいそうだなっていうのは感じたんですね。でも、主治医の先生がご苦労されて見つけてくださった結果だと思ってましたので、そうやって提示していただけるだけでもありがたいことだなと思って。

ECMOの詳しい説明もありました。当然、高齢ですから、「ひょっとしたら救命できない可能性もあります」と。それから、つけてる間に感染症にかかったり、血栓ができてしまって脳梗塞であるとか、呼吸がなくなってしまうリスクとか、どこからか出血をして重大な状態になるかもしれないってことも説明を受けて。ただ、今、コロナウイルスの治療に関しては、大きなネットワークができていて、その中で病院の垣根を越えて治療が行われている。そういうところで万全の態勢で治療をするということと、今後出てくる患者さんの治療にすごく役に立つからということも言われたんですね。

ひょっとして父はだめかもしれないなって、その時思ったんですけども。でも医学の進歩に貢献できるんだったら、それはきっと父も喜んでくれることかなと思ったものですから、母と相談して、それが最善の方法であればお願いしましょうということになりました。

名古屋から東京への搬送。息子はその様子を見守った

防護服を着た医師が付き添ってドクターカーというものでですね東京まで搬送していただいたんですが、10人か15人ぐらいのスタッフの方が取り囲む中を父が運ばれてきて、外にコロナウイルスがもれないように完全に密閉されているような状態だったと思うんですけれども、そこで初めてガラス越しじゃない父を見ることができて。その後はドクターカーに乗っていく…。現実なんですけど、映画のような、これは夢なのか現実なのか。現実としてもあまりにも今まで経験したことがないような光景だったもんですから。悲しいとか、そういう感覚がなくて、ただぼう然と光景を見ていたという感じですかね。

本当は「ありがとうね」って遠くからでも声をかけたかったんですけど、僕そのとき「頑張れ」って言っちゃって。どうにか助かってほしい、何とかなるかもしれないっていう気持ちと、だめかもしれない、でもだめってことを僕は認めたくないですよね。ですから、出てきたことばは「頑張れ」っていうことばで。「ありがとう」とか、「そんな無理しなくていいよ」って言ってしまうと、父が亡くなってしまうかもしれないっていう気持ちがどっかにあったんですよね。

生死をめぐる葛藤 ~息子の話~

息子は週に一度のペースで東京の病院を往復した。訪れるたびに容体は悪化。腎機能が低下して人工透析を始めた。転院から20日後には、ECMOを取り外さざるを得なくなった

3月16日に病院からお電話いただいて、「ちょっとお話があります。すぐに来れませんか」っていうことで翌17日に、東京の病院に行きまして、主治医の先生から細かい説明があったんです。

1つは、脳梗塞が見つかったと。これはECMOの治療をするなかで懸念事項として最初に言われていたことで、CTのスクリーニング検査で見つかってしまった。それから、大腸からの出血と口の粘膜からの出血というのが続いていて、これもECMOで血液を固まらなくさせるために投与している薬の副作用であると。現段階においては、もうこれ以上、ECMOを装着し続けるメリットがないと。回復はしてなかったんですけども、そこでECMOの離脱という形になりました。離脱の手術がですね、3月17日に行われたんですが、「ECMOを外したらそのまま亡くなってしまうかもしれません。院内にとどまってください」と言われまして。

待合室のところに仮眠ベッドを置いていただいて、そこで一晩過ごすという形でした。つらかったですね。その晩はほとんど一睡もできずに、1人で、どうしようかって。だんだん日ごとに、父が、人じゃなくてモノに見えてくるんですよね。いろんなものがつながってますし、当然本人の意識もないし。自分の本当の意思で生きてるのか、機械で生かされているのか、こんなことを続けていいのかと。人の命を、父の生きる寿命ですね、自分が変えてしまってもいいのかと、そういう葛藤もありましたね。

ECMOを外した後は人工呼吸器の酸素量を最大にして様子を見ていたが、3月19日、主治医からさらに決断を迫られた

「これ以上いろんな治療を行うことは、延命になります」と、「救命ではありません。どうされますか」と、本当にいちばんつらい決断を迫られまして。そのときに母と電話で話をしたんですけども、延命になるならもうやめようと、自然の中で亡くならせてあげようという決意をしまして。人工透析も次の交換のタイミングでやめるということに決めました。それから昇圧剤ですね、血圧を上げるための薬も投与してたんですが、それもやめましょうということで。ただ、本人に苦しみがあってはいけないので、モルヒネのようなものを投与して、とにかく本人には苦痛がないようにしますからというご提案があって、そうさせてもらうことにしました。

ちょうどそれが3月19日の午前中にあったんですけれども、お昼ぐらいですかね、僕が控え室で食事をとっていたら看護師の方がみえて、「実は看護師どうしが話すトランシーバーというのがあります。それを介して、息子さんがお父さまに何か声をかけてみませんか」と提案をしてくれて。僕はずっと、父に声をかけたいけれども、かけることもできないし、携帯電話も当然使えないものですからね、そんな提案をしていただけるんだったらぜひお願いしますということで、ICUの窓越しに、看護師の方が持ってるトランシーバーを父の耳元に持って行っていただいて、僕の思いをですね、父に伝えることができました。

声を出すのがやっとだったんですけど、「本当にありがとう」と、「本当に今までありがとう、十分頑張ったから、もういいよ」と。「ゆっくり休んでくれれば」ということを、父に伝わったかどうかわかりませんけど、最後の思いをこめて、伝えることができました。

「お母さんは大丈夫か」 妻のことばかり心配していた ~妻と息子の話~

男性の妻も感染が確認され一時入院していたため、万が一感染を広げることがあってはならないと、東京に行くのを控えていた。この日、妻もトランシーバーで夫に語りかけた

息子:看護師さんから「お母さまも声をかけたいんじゃないですか」って言っていただいて。でもトランシーバーですから、どうするのかなと思ったら、「病院に自宅から電話をかけてくれたら、その電話の声をトランシーバーにのせてお話できるようにしますよ」と言ってくださって。本当にそれはうれしくて。すぐ母に電話をして、こういう提案があるから、ぜひお父さんに最後の言葉を伝えてほしいと言いました。

妻:本人に聞こえてると信じて話をしました。今まで幸せだったこととかね、長い間、本当にありがとうっていうことと。あとはね、息子と頑張ってやっていくから心配しないでって。もう、頑張らなくていいよって。

49年なんです、ことしね。「金婚式だね」ってお正月に言ってたら数えたら違ってたんですよ、来年だった。でも、間違えてやればよかったって。もう、とにかく優しいね、怒った顔あまりないので。怒ってた時の顔を思い出そうとしても思い出せないんですけど。

入院したときも私が電話すると、「お母さんは大丈夫?」って、「感染してない?」って毎回聞くのね。「私は大丈夫だから、お父さん頑張って治してね」っていう会話ですよね。だから私が感染したことは全く知らない。もし私が感染したのを知ったら、つらい思いすると思うんですよ。自分のせいで私がかかっちゃったって思うとね。だから今でも、知らなくてよかったなって思ってます。

たった1人で父を見送る ~息子の話~

トランシーバーで父に最後の言葉をかけた日、息子は病院内で夜を明かした

先生のお話では「そろそろだと思う」ということで、控え室で待機してたら呼びにきてくれまして。駆けつけたときにはもう血圧が20ぐらいまで下がってまして、本当にいよいよだなと思いました。本当につらかったんですけども、やはり父の最期の姿は目を背けちゃいけないと思って見てました。

8時48分にですね、心拍数が0になりまして。8時53分に死亡確認ということになってます。先生も部屋の中から深々と頭を下げてくださって、最後まで父のために懸命に医療を尽くしてくれて本当にありがたかったですね。

男性はふるさとから遠く離れた東京で、その日のうちにだびに付された

病院の先生には、亡くなった場合に「父を連れて帰ることができますか」っていうことをご相談してたんですけども、東京から名古屋を、しかもコロナで亡くなった人の遺体を運ぶっていうのは、やってくれるところがなくて。しかたがないですから、「都内で火葬をしていただけるところをどこか知りませんか」っていうことでおうかがいして、情報だけ教えていただいて自分で連絡をとって、都内の火葬場で火葬することになったんですね。

そこで「コロナ患者さんを焼いてるということが知れると都合が悪い」ということを優しい言い方ではあったんですが、言われまして。結局、火葬は夕方5時からすることになったんですが、服も普通の私服なものですから、周りの人が見たら、あの人なんだろうって不審に思うじゃないですか。ですから、控え室の中でずっと5時まで待って、火葬の時間になったら今度は火葬炉の前で待ってると。当然遺体を外には出してもらえませんし、お経ぐらいはっていう話もしたんですけど、「お経も困ります」とお断りされたので、1人で、50分ぐらいだったですかね、火葬が終わるまで、ずっと待ってました。

外見ると、たくさんの方に囲まれて見送られている方がいらっしゃって。それは悲しい場面なんですけどね。でも、僕から見たら本当にそれがうらやましくて。棺の前にたくさん人が集まって最期のお別れをしている家族を横目で見ながら、私は1人で立ち会ったんですけど。意地になってるところもあって。もし僕がここで、泣いたり悲しんだり、誰かに対して怒りをぶつけるようなことをしても、父がよけい悲しむんじゃないかなって思ったものですから。もう、その場では一切感情を押し殺して、ただ50分間、無言で待って。

その日は都内のビジネスホテルに泊まる予定だったものですから、ホテルまで戻ってから泣きました。収骨してすぐタクシーに乗ったんですけど、まだお骨があったかくて。ひざの上が汗でびっしょりになったのを覚えてます。昔よく子どものころはだっこしてもらってたんですけど、その立場がいまや逆になっちゃったなと思いながら。

でも不思議と、お骨って気持ち悪いなって思うことがあったんですけど、自分の父のお骨だと思うと、それが本当にいとおしくて、ぎゅっとだきしめて、連れて帰りました。

ビジネスホテルで息子は父と約束の酒を酌み交わした

父と最後に交わしたことばが、「退院したら一緒にお酒を飲もうね」ですから、近くのコンビニに行ったらお酒が売ってたものですから。その日は父の遺骨の前にグラス1つ置いて、僕もグラス1つ置いて。ウイスキーを2人で。いろいろ父に語りかけながら、その晩はお酒を飲んで。やっと病院から出られてよかったねっていう話をはじめはしてたんですけど、やはりだんだんこみあげてくるものがあって。でも一晩じゅう泣いたというよりも、ずっと感謝のことばを言ったり、親不孝な子どもだったかなとか、そんなことを思いながら、ずいぶん飲んだせいで、その日はよく寝れて、次の日名古屋に父を連れて帰りました。

お骨になって帰ってきた夫 ~妻の話~

感染を広げないようにと、一度も東京に行けなかった妻。夫をみとることも、最後に顔を見ることもできなかった

実感がわかないんですよね。元気なときから1度も会ってないから。その過程を見ていないので、頭ではわかっているんですけど何か受け入れられない。お骨も見てるのに、どうしてもまだ帰ってくるような気がしてね。遺骨を息子から受け取ったときも「お帰りなさい」って、いつもの会話ですよね。だから毎日、朝「おはよう」って言ってね。朝コーヒーいれたら、「お父さん飲みな」って言って、日常生きてたときと同じような会話をしてます。主人は絶対元気になって帰ってくると思ってたのでね、

一緒に食べようと思ってたものが、そのまま冷凍室に残ってるんですよ。お肉なんですけど、松阪牛のお肉だったから、2人で食べたらもったいないと思ってね、今度息子が来たら食べようかなって思って入れてあったのを、この間、冷凍室開けて、あぁもう食べることできないんだ、食べさせてあげればよかったなって。何かにつけ、やっぱり思い出しますよね。

「コロナを広めているのは人」 ~息子の話~

亡くなって3週間余り、ごく親しい人だけが集まって男性のお別れ会が開かれた。ほほえむ遺影の前で、息子は取材を受けた思いを話してくれた

父が闘病している時はコロナが怖くて怖くてしかたがなかったんですけど、父が亡くなるとコロナが怖いというか憎い感じがしなくて、コロナ自身が意思を持って人に感染しているわけではないし、人がいなければ増えることもできないし、生きていくこともできないので。人の行動がコロナを広めているわけですし、父も母も人を介して、人の行動によって感染しているわけですから。

父が入院しているときに、「お母さんは大丈夫か? 大丈夫か?」と言っていたんですけど、父は自分の家にコロナを持ち込んだことに責任を感じているんだと思います。

自分の大切な人だとか愛する人を、ひょっとしたらうつしてしまうかもしれないとか、傷つけてしまうかもしれないということを、もっとリアルに想像してもらいたいなと思います。

(4月11日・12日取材 社会部 山屋智香子)