「20歳の壁」
母親から虐待を受けた男性が考える成人年齢

2022年4月26日

「生活のためにさまざまな契約をしようとしましたが、“親権者の同意”を求められるのが大きな負担でした」

こう話すのは、19歳の男性です。母親から虐待を受けて、児童養護施設で育ち、親を頼ることができなかった男性。

「20歳という成人年齢」が、大きな壁になっていたといいます。

成人年齢の引き下げをどう受け止めているのか?大人に知ってほしいこととは?
話を聞かせてもらいました。
(成人年齢取材班記者 山本健人)

話を聞かせてもらったのは、大阪府に住む19歳の男性です。

幼いころに母親から虐待を受け、児童養護施設で育ちました。

18歳で児童養護施設を退所したあと、1人暮らしをして大学に通っています。

幼いころはどんな暮らしをしていましたか?

男性
母子家庭で、母ときょうだいと暮らしていました。

母は、夜間に飲食店で働いていたので、日中は寝ていることが多かったです。
私より年齢の低いきょうだいに食事を作ったり、幼稚園へ送り迎えしたりするのは、私の役割でした。

虐待はいつごろから始まったのですか?

男性
小学生になったころからです。母親から暴力を振るわれて、顔や目の周りにあざができてしまいました。

不審に思った学校が、一度、自宅を訪れたので、その後は、あざや傷が目立ちにくいおなかなどを殴られたり、蹴られたりするようになりました。

誰かに助けを求めたことはありますか?

男性
当時は助けを求めることを考える余裕はなく、殴られないようにするにはどうしたらいいのかばかりを考えていました。

精神的に追い詰められ、小学校の高学年の時に、自宅のアパートから飛び降りて、自殺を図ったこともあります。

大事には至りませんでしたが、母からの暴力はエスカレートしていきました。

いつ児童養護施設に入所したのですか?

男性
小学生の時です。母から受けた暴力で大きなけがをしたことがきっかけで、児童相談所が介入しました。

緊急に保護された子どもが一時的に集団生活をする一時保護所で過ごしたあと、児童養護施設に入所することになりました。

児童養護施設での暮らしはどうでしたか?

男性
職員の人たちに、とても優しく接してもらいました。

ただ、中学に進学すると、自分の置かれた境遇がみんなと違うことを実感することが増えました。

例えば、同級生は当たり前のように携帯電話を持っていましたが、私はお金がなかったので買えませんでした。

つらいと感じることはありましたか?

男性
高校に入ってからは、施設から毎月もらえるお小遣いをためて携帯電話を買うことができましたが、お小遣いをやりくりしながら通話料金などを支払うのは大変でした。

また、友人の家に遊びに行ったときに、友人が親と食卓を囲んでいるのを見て、幸せそうな姿でうらやましく思ったこともあります。

何歳で施設を退所したのですか?

男性
児童養護施設は原則18歳で退所しなければならないので、高校を卒業し、大学に進学した18歳の時に退所しました。

ただ、施設を出たあと、いろんなことを自分で契約する機会があったのですが、当時は“未成年”だったため、契約の際に「親権者の同意」を求められました。

母とは連絡が取れないため、契約を結ぶことは、大きな負担でした。

具体的には、どういった契約がありましたか?

男性
引っ越しをするために賃貸契約を結ぼうとしたのですが、「親権者同意書」と「親の身元確認書類」の提出を求められ、諦めざるを得なかったことがあります。

また、携帯電話の月々の支払いが生活費を圧迫していたので、格安スマホに切り替えようとしたときに、親権者の同意を求められました。疎遠だった祖父に保証人になってもらうために、何度も祖父のもとを訪れなければならないなど、手続きは煩雑でした。

大人に知ってもらいたいことはありますか?

男性

成人年齢が18歳に引き下げられることは、児童養護施設で育ったり、家族が経済的に困窮していたりするなどの理由で、親に頼ることのできない18歳、19歳の若者にとってはよいことだと思います。

ただ、高校を卒業したり、施設を出たりしたばかりの18歳は、社会に出て、生きていくための知識が身についていないため、周りの大人からのサポートが必要だと思います。

私は、幸運にも頼れる児童養護施設の職員に出会え、施設を出たあとも連絡を取り合い、役所での手続きについて教えてもらったり、生活に困ったときの相談窓口を紹介してもらったりすることができました。

親に頼ることができない若者に、まわりの人たちができることは限られていると思うかもしれませんが、“ちょっとしたひと言”で「あすも頑張って生きてみよう」と思えることもあります。

成人年齢取材班記者

山本 健人

2015年入局
初任地・鹿児島局を経て現所属。
アメリカ担当として人種差別問題などを中心に幅広く取材。