2022年2月22日
頭をつかまれ湯船に沈められる。お尻をライターであぶられる。
4歳から始まった義父からの虐待は、7年続きました。
でも、母親にも、先生などの大人には相談しませんでした。
誰かに言ったら、母親に危害が及ぶかもしれない。だから、絶対に言いませんでした。
でも、今はこう思っています。
「異変に気付いて、『相談してもいいんだ』と思えるよう寄り添える人や場所がもっと必要だと思います」
虐待を受けたひとりの男性が考える、いま、大人にこそ知ってほしいメッセージです。
(成人年齢取材班記者 吉元明訓)
抜け落ちた恐怖や痛みの記憶
「当時どんな暴力を受けたかは覚えているんですけど、その時に感じたはずの痛みや恐怖は記憶から抜け落ちてるんですよね」
こう話すのは、ブローハン聡さんです。
今から30年前、フィリピン人の母親と日本人の父親の間に生まれました。
しかし、父親は別に家庭を持っていて、ブローハンさんは認知してもらえず、11歳まで戸籍が、15歳まで国籍がありませんでした。
父親からの生活費はすぐに滞ったということで、物心がついた時には生活が苦しく、電気が止まりろうそく1本で過ごしたこともありました。
フィリピンパブで働いていた母親は、明け方まで帰ってこないことも多く、ブローハンさんの中に残る母親の印象は、昼間にいつも寝ている姿だと話します。
それでも、母親のことが大好きで、少しでも負担をかけないようにと、幼いながらに心がけていたといいます。
始まった虐待
ブローハンさんが4歳の時、母親は別の男性と結婚しました。
日本人で、よく自慢話をしていました。ただ、ブローハンさんを見るときは、いつも冷たい目をしていました。
一緒に暮らすようになってすぐに暴力を振るわれるようになりました。理由はわかりません。
暴力を振るわれるのは決まって母親がいないときでした。
頭をつかまれ湯船に沈められる。包丁を投げつけられる。傘で頭を叩かれる。暴力は毎日のように続きました。
ブローハンさんは、義父が帰ってくると、決まって神様に祈るようになっていました。
「きょうはやられませんように」
虐待、先生に“告げ口”しちゃった
小学校に入ってからも、ブローハンさんに対する義父の暴力は続きました。
気づくと、祈ることもやめていました。
暴力のことは、母親にも話しませんでした。心配をかけたくない。危害が母親にも及ぶかもしれない。そう思ったからでした。
学校の先生や友だちにも相談しようと思ったこともありませんでした。
先生は勉強を教えてくれる人、学校は友だちと会える楽しい場所でした。
ところが小学5年生になったある日、ブローハンさんは担任の先生から呼び出されました。
義父からはお尻をライターであぶられることもあり、席につくとき、腰を浮かすようにして座っていました。
それが先生に見つかった。ばれたらどうしよう。お母さんがひどい目にあうかもしれない。
ブローハンさんは、血の気が引いていくのを感じました。
何を聞かれても答えないでいましたが、ほかの先生たちも集まってきて、お尻を見せ、本当のことを話すほかありませんでした。
「暴力受けていること、先生に“告げ口”しちゃった」
ブローハンさんは、心の中でこうつぶやきました。
施設で感じることのできた「安心感」
それからブローハンさんは、親からの虐待などで緊急に保護された子どもが一時的に集団生活をする「一時保護所」で3か月ほど過ごしたあと、都内の児童養護施設に入所することになりました。
寂しいと感じることはなかったといいます。
ブローハンさんは、それまでも親戚の家などによく預けられていたからです。
施設も自分が過ごす場所のひとつ。むしろ、誰にも暴力を振るわれないという安心を徐々に感じられるようになっていきました。
それでもブローハンさんは、施設で自分の悲しみや苦しみの感情を表に出したり、自分の受けてきたことを話したりしようと思ったことはありませんでした。
相手にいろいろと気を遣わせてしまうんじゃないか。困らせてしまうんじゃないか。
何も言わないこと。
それが、みんなと“うまくやる”一番の方法だとブローハンさんは思っていました。
押し殺した泣き声
母親は、施設に入ったあとも定期的に面会に来てくれました。ブローハンさんは、たとえ短い時間であっても、母親の顔を見ると安心感を得ることができました。
「乳がんになったから手術のために、ちょっとフィリピンに帰るね」
ある時、面会に来た母親から伝えられました。
母親に心配をかけないように。いつも通り母親との会話を楽しむように努めました。
でも、面会のあと駅まで見送り、母親の姿が見えなくなると、涙が止まりませんでした。施設までの帰り道は、泣いている姿を誰にも見られないように、走りました。
その日の夜、布団に入ってからも、誰にも聞かれないよう泣き声を押し殺し続けました。
その1年後、母親は乳がんで亡くなりました。
初めて出したSOS
ブローハンさんは19歳で施設を退所。
その後、日本で暮らす叔母とその娘3人と一緒に暮らしました。
携帯電話の販売代理店での仕事をはじめ、稼いだ給料のほとんどは彼女たちやフィリピンに暮らす親戚への仕送りに使いました。
それが“当たり前”だと思っていたからです。そんな生活は6年ほど続きました。
仕事ではトップの業績をあげることもありましたが次第に精神的に疲れ転職を決意。
しかし新しい仕事は見つからずさらに精神的に追い込まれてしまいました。
駅のホームでただ目の前を通り過ぎて行く電車を見つめていると、ふと電車に飛び込んでしまおうかと思うこともありました。
誰かに助けてほしい。
ブローハンさんは、当時、仲の良かった、支援団体の女性に連絡をしました。駆けつけてくれた彼女を見て、泣きながら抱えていた思いを吐き出していました。
家族のために働き続けることが苦しいこと。手持ちのお金がなくなっていくことが常に不安なこと。親戚の前で弱音を吐けないこと。誰かに助けてほしいこと。
自分の感情をありのままに誰かに伝えて助けを求めたのは、それが初めてでした。
「よく抱え込んで頑張ってきたね。言えたのはすごいことだよ。話してくれてありがとう」
女性はこう声をかけてくれました。ブローハンさんは涙が止まりませんでした。
誰だって、助けもらいたいときは「助けて」と言っていい
ブローハンさんはいま、児童養護施設を出た人などが、気軽に集える場所を整えようと取り組んでいます。
一軒家を借りて、生活や仕事の相談を気軽にできるように、ブローハンさんや同じような境遇を経験した大人が待機していて、ゲームを楽しんだり、マンガを読んだり、思い思いに過ごせるように心がけているといいます。
「僕は、ずっと誰にも相談できませんでした。自分の感情を見せることもしませんでした。それは虐待を受けていたこともあって、子どもの頃から『自分のことは自分で守る』ものだと思っていたからです。でも、子どもはもっとわがままでいいし、誰かに甘えたっていい。それは大人になってからも同じだと思います。異変に気付いて、『相談してもいいんだ』と思えるよう寄り添える人や場所がもっと必要だと思います」
大人たちが向き合うべきこととは
虐待などを受けて児童養護施設で暮らす子どもたちは2万3000人余り(2021年3月末時点・厚生労働省まとめ)
ブローハンさんを取材する中で、「相談する」という考え自体を持つことができず、不安、苦しみ、つらさを自分の中でため込んでいる子どもたちが一定数いて、それは大人になっても続いてしまうという実情が見えてきました。
どうやって彼ら彼女たちに社会として寄り添い、相談しやすい環境を作っていけるのか。私たち大人たちが考えていくべきことだと感じています。
成人年齢取材班記者
吉元 明訓
平成24年入局
熊本局や青森局を経て国際部
外国にルーツがある人や児童福祉などを取材