せんきょ、だいじ。閉ざされていた世界からの1票

せんきょ、だいじ。閉ざされていた世界からの1票
「誰を指さすかもわからないから」
ある母親は娘の投票に“罪悪感”のようなものを感じると話します。

「それもその人の意思だから」
そう話す別の母親もまた、わが子の投票にためらいを感じていました。

それでも、いつか本人が答えにたどりつくかもしれない。1票に込められた親子の思いを追いました。

(ネットワーク報道部 廣岡千宇/直井良介)

僕にとっての選挙

東京・渋谷区に暮らす28歳の堀口惇之(あつし)さんは、投票日が近づくと選挙公報に目を通します。

東京都知事選挙が告示されたあと、いつにも増して大勢の候補者の顔がならぶ選挙ポスターの掲示板を、真剣な表情で確認していました。
母親 智子さん
「やっぱり写真をみて選ぶことが多いですね。写真をながめながら、この人みたいな。息子にとって、選挙は自動販売機で飲み物を選ぶのとあまり変わらないことなのかもしれません」
自閉症で、重い知的障害がある惇之さんにとって、選挙の仕組みや政策を理解するのには難しさがあります。

でも、これまで投票を欠かしたことはほとんどありません。

自分で選んでほしいから

母親の智子さんには、息子をできるかぎり選挙に行かせてあげたいと思う理由がありました。

たとえば小学校の授業参観。子どもにとっては晴れの舞台のはずが、惇之さんは、ひとり、ほかの子どもたちとは違う方向を見ていました。

惇之さんは、幼い頃から周囲にあわせるのが苦手でした。
電車の中など、ふだん行き慣れない場所ではパニックになったり、大声をあげてしまうこともありました。

「うるさい」「降りてくれないかな」

そんなことばを直接ぶつけられたり、冷たい視線を感じたりする経験も少なくありませんでした。

智子さんは、まわりに迷惑をかけないようにと惇之さんとの外出を控えていた時期もありました。それが、息子のためになると思ってのことでした。
母親 智子さん
「おそらくこの子はこういうところはだめだろうなっていう場所は、最初にもう選択肢から外しちゃうんですよ。学校だってあの子が選んだわけではないし。やっぱり狭い世界のなかで生きてきているなっていうのは感じてきました。その後悔があるので、息子にもいろんなことを選ばせてあげたいなって」
自分自身で何かを選ぶこと、みずからの意思を示す機会を奪ってきてしまったと、智子さんは悔いていました。

だからこそ、みんなと同じように認められ、自分自身で決めていい選挙が、特別なものに映っていました。

1票への葛藤

知的障害のある人の投票をめぐっては、かつて法律の壁もありました。
成年後見人がついた人の選挙権
以前、知的障害や認知症などで判断能力が十分でない、成年後見人がいる人には選挙権は認められていなかった。当事者が声をあげて、2013年に公職選挙法が改正され、同じ年の7月以降に公示・告示される選挙から投票ができるようになった。
法改正のきっかけのひとつになったのは、知的障害のある女性が起こした裁判でした。

判決で裁判長は、当時の公職選挙法の規定は憲法違反だと認めたうえで、原告に語りかけました。

「どうぞ選挙権を行使して社会に参加してください。堂々と胸を張って、いい人生を生きてください」
ところが、その後も葛藤を感じている親たちがいます。

6月下旬、重い知的障害のある子どもを育てる母親たちが集まり、選挙への率直な思いを語りました。

「自分と同じように投票させてあげたい」
「それでもうちの子には難しいんじゃないか」

選挙が近づくたびに、相いれない気持ちの間で揺れ動いています。
知的障害のある娘の母親
「選挙権はあるんだから、投票には行きたいけれど…。(娘が)だれを指さすか分かんないし、ささない可能性もあるし」
堀口智子さん
「でも、それもその人の意思なんだと思う。経験を積み重ねていって、いつか本人が“あーそういうことなんだな”って、たどりつくようなことが、もしかしたらあるのかもしれないし」

本当にいいのかな

障害のある子どもを投票に行かせることに戸惑いを感じていたひとりが、道井美樹さんです。娘の花香さん(26)は、まだ1度も投票したことがありません。
初めて選挙の案内が送られてきたのは、5年ほど前のことでした。

娘の確かな成長を実感して、母親の美樹さんは素直に喜びを感じたのを覚えています。ただ同時に、複雑な感情もわきあがってきました。
母親 美樹さん
「娘はしゃべれないし、ことばの理解も乏しい。選挙のことも政策もおそらくわからない。ちゃんと理解しているわけじゃないのに、本当に投票していいのかなって」
母親の美樹さんにとって選挙は重く、崇高なものに見えていました。

もっと福祉を充実させて、障害のある人たちの暮らしをよくしたい。その思いを託す大事な機会だからこそ、娘の1票にためらいを感じたと言います。
母親 美樹さん
「うちの娘が選んだことで、その1票の重さというか。それが果たしていいのかどうかというところでの、罪悪感というか。娘のための1票なので、その重い選挙だからこそ、娘が1票を投じていいのかなと」

選択肢が広がっていく

一方の惇之さん。自分で選ぶ機会を増やしてあげたいという母親の思いを受けてか、その日常は変わりつつあります。

毎日通う福祉施設で、みんなのために続けているのが献立を黒板に書き出すこと。スタッフが使うエプロンやフェイスガードをつくるのも惇之さんの日課です。
以前は、苦手だからと周囲が遠ざけるようにしていた手先を使った細かい作業も、みずからすすんで取り組むようになっています。
施設の生活支援員 柴田梓さん
「ほかの利用者さんもそうですけど、これをやりましょうって、ずっと決められてきたんですよね。自分でやるという気持ちが出てきたことで、日々の活動の幅も選択肢も広がっているのかなって。もしかしたら周囲に、自分だけじゃない世界があるんだっていうのを感じられている。世界の広がりですよね、きっと」
そして、街なかへと積極的に出ていくようになりました。そこでは惇之さんにとって、新鮮なことばが飛び交います。

「ありがとう」「助かります」
母親 智子さん
「息子は注意されたり、しかられたりすることばかりが多くて..。 “ありがとう”とか、そういうことばをかけられる機会って少なかったんです。“ありがとう”って声をかけてもらうことで、あの子も自分のなかで、“あー自分も役に立ってるな”とか、“ここに自分の居場所があるんだな”とか、思っているのかもしれません」
地域の人たちとの新たなつながりも生まれ、自分の世界に閉じこもりがちだった日々から、踏み出そうとしています。

「だいじ、だいじ」


惇之さんが作業に集中しているときに、よく口にしていることばです。得意の絵で毎日の昼ご飯を記録したノートにも必ず、このことばが添えられています。

せんきょ。だいじ。

都知事選の投票の4日前。母親の智子さんは、部屋中のたんすの引き出しを開けては、何かを捜していました。
「選挙の入場整理券が突然、なくなってしまって…」

ぬいぐるみやキーホルダー、お気に入りのチラシなど。惇之さんには、自分にとっての“宝物”をしまい込んでしまうくせがあります。投票のための入場整理券もいつの間にか、どこかにしまい込んでしまったようでした。
心配そうな惇之さんに、智子さんは、整理券を無くしても投票できるから大丈夫だよと伝えました。
母親 智子さん
「ちゃんと毎回、選挙に行くっていうのは、もうこの子の中には入っているし。選挙に行って投票するっていうことを自分の中でしっかりわかっているなって」
カレンダーに書き込まれた「せんきょ」の文字を、惇之さんは強いまなざしで見つめていました。

自分で決めた1票

7月7日。七夕と重なった投票日を迎えました。

母親と姉とともに、惇之さんはいつものように投票に訪れました。
投票所の中に入れば、そこから先は家族は付き添うことはできません。

あくまで自分の意思だけで投票をします。
惇之さんは係員に付き添われながら、しっかりとした足取りで記載台へと向かいました。

投票先を聞かれると、ひとりの候補者の名前をはっきりと告げて、自分で決めた1票を投じました。
(智子さん)「投票してどうでしたか?」
(惇之さん)「たのしかった」
(智子さん)「またね、一緒にいきましょうね」
(惇之さん)「うん」
母親 智子さん
「選挙に参加をしたという、そのことがやっぱり意義があるっていうんですかね。(息子が投票する姿をみて)あーできるんだとか、自分もやってみようとか、広がりのひとつになっていくとうれしいなとすごく思います」

一歩を踏み出した先に

そして、別の投票所には、まだ投票をしたことがない花香さんの姿がありました。

顔写真をみれば人を選ぶことができるという花香さんですが、投票所の中に写真はなく、今回、投票することはかないませんでした。
それでも、母親の美樹さんには、会場の厳粛な雰囲気にも取り乱すことなく、落ち着いたようすにみえました。

「ちょっと誇らしく、私には見えます。ね、花香? なんかやり遂げたような、1歩踏み出したような」
母親 美樹さん
「(選挙権を)最初いただいたときに、すごく感動したことを思い出したんです。あのときに、認められたんだっていう気持ちがあって。経験を積み重ねていけば、もしかしたら娘も投票できるようになるのかなって。みんなで一緒に考えて、みんなができることを増やしていけるような社会になっていければいいなと思います」

誰もが投票をためらわない社会へ

惇之さんや花香さんのような知的障害のある人の投票をサポートしようと、自治体や施設で取り組みも始まっています。
東京・狛江市では、選挙の前に市の職員が福祉作業所を訪ね、知的障害のある人たちとのコミュニケーションの取り方を学んでいます。

また、品川区のグループホームでは、文字を書くのが難しい人たちに、投票所で「指さし」をして意思を伝えられるよう、お手製の候補者一覧を使って事前に練習しています。
ただ、こうした取り組みは、一部の自治体や施設にとどまっています。会場に顔写真を掲示するなど、誰もが投票しやすい環境作りを求める声も高まっています。

専門家は選挙制度や政策に対する理解の違いにかかわらず、多様な声が反映されることが健全な社会につながると指摘します。
障害のある人の権利保障に詳しい 京都産業大学 堀川諭教授
「人それぞれ、できること、できないことがありますから。できるから、あなたは投票にふさわしい、できないから、わからないからふさわしくない、ということを言い始めると、結果的にみんなが苦しい状況になってしまうと思うんですね。
高齢者の人たちも若者も、そして重い知的障害のある人たちも、みんな社会の一員なんです。みんなの存在、みんなの意見があって初めて社会の合意が形成されます。やっぱり社会は多様な人々で構成されていますので、投票の結果もまた多様な見方の反映であると、私たちは受け入れるべきだと思っています」

取材後記

堀口惇之さんの母親、智子さんは知的障害や発達障害のある人たちへの理解が広がってほしいと、「しぶはち隊」(2018年、東京・渋谷区発のキャラバン活動。忠犬ハチ公や子どもたちの∞の可能性が由来)というグループのメンバーとして活動を続けています。
知的障害があるなどの理由で成年後見人がいる人にも選挙権が認められて、ことしで11年。堀川教授は、各地で投票所のバリアフリー化などが進められてきた一方で、知的障害のある人たちの投票環境の改善はとりわけ遅れ、いわば見過ごされてきたと指摘しています。
あの母親が口にした投票への“罪悪感”ということば。その思いを生み出させているのは社会の側なのかもしれません。誰もが当たり前に投票できる、みんなの選挙に近づいていけるよう、これからも向き合っていきたいと思います。
(7月9日 首都圏ネットワークで放送)
ネットワーク報道部 記者
廣岡 千宇
2006年入局
みんなの選挙・取材班
ネットワーク報道部 記者
直井 良介
2010年入局
みんなの選挙・取材班