約2か月間の“追体験” 80年前の悲劇 子どもたちの変化と成長

約2か月間の“追体験” 80年前の悲劇 子どもたちの変化と成長
ちょうど80年前の太平洋戦争中、学童疎開船「対馬丸」は沖縄から九州へ向かう途中、アメリカ軍の潜水艦からの魚雷攻撃を受けて撃沈されました。

犠牲者は1484人、その半数を超える784人が子どもでした。

対馬丸に乗った子どもたちの身にどんなことが起きていたのか。

沖縄では去年12月からおよそ2か月間かけて、“追体験”しようという研修が小学生を対象に行われました。

参加した児童の変化と成長の記録です。
(沖縄放送局 記者 上地依理子)

80年前の悲劇「対馬丸事件」当時何が?

去年12月、那覇市の対馬丸記念館に、沖縄県内各地から参加を希望した中から、作文などで選ばれた小学5年生と6年生10人が集まりました。

児童たちはまず、対馬丸に乗り合わせて両親ときょうだい合わせて9人を亡くした高良政勝さん(84)の話を聞きました。
「どうして対馬丸が沈んだか知っているかい」と静かに語りかける高良さん。

児童たちは真剣な表情で聞いていました。
対馬丸は、太平洋戦争末期の1944年、1788人を乗せて九州へ向かいました。

そして8月22日午後10時すぎ、鹿児島の悪石島周辺でアメリカ軍の攻撃を受け撃沈。
784人の子どもを含む1484人が犠牲になりました。

そして救助された子どもたちは宮崎などに疎開しました。

児童たちは研修を繰り返しながら、当時何が起きたのか学んでいきます。
部屋を暗くして、スクリーンに映る暗い海を見ながらレプリカのいかだに乗ってみたり、当時の救命胴衣のレプリカを着用してみたりしました。

参加者のひとり、高橋永(はるか)さんに話を聞きました。
高橋永さん
「泳げないから、強い揺れがあったら不安に感じると思う。助かったとしても、いかだはぎゅうぎゅう詰めで、それがずっと続くと思ったらメンタルがやられると思う。耐えられないだろうなって」

“当時の子どもたちの気持ちを知りたい”

永さんは研修に参加していたこのとき、那覇市の小学校に通う小学6年生。

琉球舞踊を習っていることもあり、沖縄の文化や歴史に興味があったといいます。
小学校では沖縄戦について学んだり、平和について考えたりしてきましたが、対馬丸についてはあまり詳しくありませんでした。

参加した動機については。
高橋永さん
「沖縄から出て勉強するのは初めてだし。無料で県外へ行けるので行ってみたいなと思って。そんな気持ちで応募してみました。私も楽しみだけど、当時の子どもたちも県外に行けるのが楽しみだったと思うし興味津々だったと思う。だから、その子たちの気持ちをしっかり感じたいと思った」
“子どもたちの気持ちを知りたい”

その思いがありました。

疎開生活を追体験する2泊3日

12月下旬、児童たちの姿は那覇空港にありました。

これから2泊3日の日程で宮崎で過ごします。
永さんが家族と離れて県外へ行くのは初めてです。

お母さんと話をしたり、チケットを確認したりしながら、数日間の別れを惜しんでいました。
「白い息が出る~」

「風が冷たい~」
鹿児島空港に到着した児童たちは、慣れない寒さに驚いている様子でした。

空港からバスに乗り換えて、宮崎県えびの市へ向かいます。

えびの市は太平洋戦争中、対馬丸で生存した児童を含め沖縄からおよそ360人が疎開した場所です。
児童たちは地元の歴史民俗資料館で疎開中の生活について話を聞きました。
地元の語り部
「冬は寒くて。着るものも貧しいし、暮らしが大変な時代で、食べ物がなかなかない時代ですよ」
当時の生活について話を聞いた後は、実際に食べて体験します。

研修では2泊3日の期間中、当時の子どもたちが「やーさん(※ひもじいという意味)飯」と呼んでいた食事をイメージした、質素な料理を食べて過ごします。
この日のメニューはごはん、みそ汁、そして梅干しなどです。

児童たちは「思ったよりおいしかった」「味が薄かった」「結構いけるなって思った」などそれぞれ感想を話します。
永さんは「すっぱい!」と言わんばかりの、いつもとは違う表情です。

感想を聞いてみると…
高橋永さん
「味付けもあんまりなくて、梅干しも本当にすっぱかった。これをずっと食べるのかと思ったら心配で… これで嫌いなものとか出てきたら、どうしようって。食べるものも少ないし、食べないと生きていけないから」

沖縄の文化が残る地区 その理由は

児童たちは宮崎市内の波島地区に移動しました。
地区を見渡してみると沖縄で“魔除け”として伝わるシーサーや石敢當(いしがんとう)が置かれ、沖縄を感じる風景がありました。

地区の公民館に到着すると三線(さんしん)の音色に出迎えられ、過去に寄付をした人の一覧には「新垣」や「金城」など沖縄になじみのある名字が記載されていました。

波島地区は沖縄から多くの人が疎開し“リトル沖縄”と呼ばれる街なのです。

児童たちは地元の語り部の常盤泰代さんから、沖縄と波島地区とのつながりの歴史について聞きました。
常盤泰代さん
「ここ波島地区には一般疎開で全国のいろいろなところから移り住んで来ました。沖縄からは家族単位で来られたそうで、特に多かった。でも差別や偏見で仕事につけなかったりして、生活は大変だった」
戦後の苦労について常盤さんは。
「沖縄に帰ることができた人もいました。でもね、帰ってみたら出発したときと全然違う沖縄になっていた。焼け野原になっていて、居たはずの家族も見つからない。なかには家族全員が死んでしまった人もいた。沖縄に帰っても迎えに来る家族がいなくて、ひとりぼっちになってしまった人もいた」
永さんも、メモを取りながら真剣な表情で聞きました。
高橋永さん
「もし自分が沖縄に帰ってお母さんたちがいなくなっていたらって思ったらすごく悲しいし、寂しくなるし、自分だけ生き残ったら罪悪感が残ると思う」
研修では実際に疎開した子どもたちが暮らした場所もたどりました。

日向市の人里離れた場所で訪れたのは子どもたちが生活した宿舎の跡地です。
自分たちで野菜を育てて生活していたことなどを学び、沖縄に住む家族に会えずに悲しい思いをしていた当時の子どもたちの姿を具体的に想像していました。

“撃沈された時と同じ夜の海”を体験

宮崎での研修の最後の夜、児童たちは港に向かいました。

対馬丸が撃沈された時と同じ夜の海を体験するのです。
沖縄の研修ではモニター越しに学んだ暗い海。

小型の船に乗っていると…
「あ、暗い」
「周りが見えない」
「なんか揺れが強くなってきたよ」
「あー、怖い怖い」
児童たちは、夜の海で当時の様子を想像していました。
高橋永さん
「なんか怖かったし、すごく寒かったから、もしここに投げ出されていたら、私死んでしまっているんじゃないかなって。これを生きた人たちってすごい人たちだなと思いました」
「生きた人たち」

児童たちは研修で宮崎に来る前に、その当事者の話を沖縄で聞いていました。

両親ときょうだい合わせて9人を亡くした高良政勝さんです。
語り部も務める対馬丸記念会代表理事 高良政勝さん
「当時僕は4歳でした。ちょうど戦争が激しくなって、沖縄に敵が来るということで、女性や子どもたちは疎開することになりました。私はきょうだい9人と両親で対馬丸に乗りました。船がドカンとやられて、私は3日間、海に浮いていたのです。波が荒かったから波が目や鼻に入って非常に痛かった。そんな状況でも3日間よく耐えたなって、4歳ながら非常に辛抱強いなって思っていたのです。ところが実際のところ、3日間の荒波を耐えられたのは、お父さんが僕を抱きかかえていたからだったんです。お父さんは僕を救命に駆けつけてきた人に預けると沈んでしまった。今こうして命があるのも、お父さんが生かしてくれたからだと思っています」

“平和への思い” 強く

1月。沖縄に戻った永さんたちは学んだことを壁新聞にまとめました。
高橋永さん
「九州に行くのを楽しみにしていた子もいると思うから、つらい。生きようとしたけど、生きられなかった子どもたちがたくさんいる。自分の年よりも下の子とか、たくさん写真に写っている。将来の夢とか、たくさんやりたいこともあったはず。そして生き残った子たちも疎開先で寂しい思いをしたり、沖縄に戻っても家族が亡くなっていたりしてつらいことの重なりみたいに感じた」
そしてこの体験で考えさせられたことを振り返りました。
「絶対忘れられない体験になると思う。当時の子どもたちの気持ちを考えていたけれども、もっとつらいものだっただろうから。私は宮崎に行ったのは3日間だったけれども、1年とか続いていたら、すごくつらくなっていくだろうし、自分がもしこうなっていたら耐えられなかったと思う。自分はそれに近い気持ちを体験できたと思っているから、この気持ちをずっと持っていたい」
永さんたちは壁新聞にまとめたことを保護者などに向けて発表しました。
家族と離れ離れになって心細く感じたことや、2泊3日の研修期間で「やーさん飯」を食べてお母さんが作ったごはんが恋しくなったことなどを伝えていました。

同級生に伝えたい “平和への思い”

2月。すべての研修を終えた永さんは学んだことを学校でも発表しました。
夜の海で船に乗る体験をした際に風が冷たくて、この海に投げ出されたらと考え怖く感じたこと。

宮崎から沖縄の家族に手紙を書いた際、家族に会えない当時の子どもたちの気持ちを考えたこと。

そして最後に同級生に平和への思いを伝えました。
高橋永さん
「戦争って怖いしつらいから、もう二度と繰り返さないようにしたい。今も残っているいじめや差別偏見。それだって小さな戦争だ。ダメと言い切れる勇気を持たないと行けない。どんなに小さなことでも今自分のできる最大限のことをしたい。そのために私は次の世代にも戦争について伝えていけるような人になりたい」
同級生は「対馬丸については詳しく知らなかったけど、発表を聞いてどんなことが起きたのか、知ることができました」とか「夜の海で乗船体験したことはびっくりしました」といった感想を永さんに伝えていました。
高橋永さん
「みんなが自分の気持ちをくみ取ってくれて感想を言ってくれてうれしかったです。私たちの世代は戦争についてあまり深く知らないから、宮崎に行って経験したことを今の世代に、もっとたくさんの世代の人に聞いてもらって、忘れないようにすることが一番大切だと思う」

2か月密着して見えた 子どもたちの“成長”

2か月間に及んだ取材の中で、参加した児童10人それぞれが学び、考え、成長していく姿が印象的でした。

また追体験する児童たちの様子をみることで、私(記者)も当時のことをより具体的に考えることができたのではないかと思います。

ことしの8月22日で対馬丸の撃沈から80年。

また対馬丸記念館も開館から20年となります。

遺族などでつくる対馬丸記念会は、この節目により多くの人に知ってもらおうと、シンポジウムを開くほか、多くの犠牲者が出た那覇市の小学校に平和のモニュメントを建てることも予定しています。

多くの子どもたちの命が失われた悲劇を決して風化させてはならない。

継承に向けた動きを改めて進めようとしています。
沖縄放送局 記者
上地依理子
2021年入局
沖縄局は初任地
県民の4人に1人が命を落とした沖縄戦や学童疎開についての取材を続けています