対馬丸“追体験”の研修 小学生が受け取った平和への思い

太平洋戦争末期に撃沈され、800人近くの子どもを含む1484人が犠牲になった「対馬丸」。当時の子どもたちの身に起きたことを、いまの子どもたちが追体験する研修に参加した1人の気持ちの変化を見つめます。2か月にわたる学びの中で何を感じたのでしょうか。

(NHK沖縄放送局記者 上地依理子)


【対馬丸追体験 参加した理由は】

「この船は沈んだんだよな。どうして沈んだ」

問いかけるのは、対馬丸体験者の高良政勝さん(83)。話を聞いているのは、対馬丸に乗った子どもたちの身に何が起きたのか、2か月間にわたって追体験する研修に参加した県内10人の子どもたちです。

参加者の1人、那覇市の小学6年生の高橋永(はるか)さん。学校では沖縄戦や平和について学んできたほか、琉球舞踊を習い、沖縄の歴史や文化に関心を持っています。対馬丸についてより深く知りたいと考え、研修に参加することにしました。

(高橋永さん)
「沖縄戦のことはいっぱい聞いていたけど、沖縄から出て県外で勉強するのは初めてだしやってみたいと思いました。『1回やってみるか』みたいな気持ちでした」

【疎開先だった宮崎への旅】

太平洋戦争末期の1944年。「対馬丸」は九州へ向かう途中、アメリカ軍の魚雷で撃沈。800人近くの子どもを含む1484人が犠牲になり、助かった子どもたちは疎開して暮らすことになりました。

永さんたちは、疎開先のひとつだった宮崎県へ向かいます。出発した去年12月27日、那覇空港には見送りに来た母親の姿もありました。永さんは、家族と離れて県外へ行くのは初めてです。

宮崎県に入ってまず最初に向かったのは、疎開した子どもたちのことが記録されているえびの市にある資料館です。「冬は寒くて着るものも貧しく暮らしが大変な時代だった。食べ物がなかなかない時代だった」と話す地元のガイドの男性の話をメモをとりながら聞き、当時の様子について学びました。

疎開中の暮らしも体験します。滞在期間中に食べるのは、当時の質素な食事をイメージした“やーさん飯”。初日のメニューはご飯にみそ汁、そして梅干しなど。「みそ汁の中にイモしかないからあまり食べ応えがない」と話す永さん。慣れない食事に、思わず表情をゆがめます。

日向市では“ひーさん”“しからーさん”とも呼ばれた厳しい暮らしをした宿舎の跡地も訪問。ここでも、当時を語りついでいる地元の人から話を聞きました。

そして、撃沈されたときの状況も。対馬丸から投げ出され漂流した時と同じ夜の海です。

「暗い」
「周りが見えない」
「揺れが強くなってきた」
「怖い、怖い」

2泊3日の旅で子どもたちは何を感じたのか…。

【宮崎で学んだことは】

沖縄へ戻ってきた永さんたちは、学んだことを壁新聞にまとめることになりました。

疎開とはいえ、県外での暮らしに期待も抱いていたという当時の子どもたち。永さんは、自分の宮崎での体験を重ね合わせて、子どもたちに思いをはせました。

(高橋永さん)
「対馬丸の当時の子どもたちが思っていた気持ち。乗るのが楽しみとか、宮崎とか県外に行けるのが楽しみみたいな。自分もそう思っていたから、実際に体験することによって当時の子どもたちの気持ちとかが分かったし、ここで生活を自分がしていたらと思うと、つらくなるし苦しかっただろうなと思います」

(高橋永さん)
「沖縄に帰って家族が迎えてくれなかったりしたら、さみしいだろうしつらいしそれはもう耐えられないかな」

【“つらいことの重なり”忘れずに持って行きたい】

まとめた壁新聞を対馬丸の体験者や保護者に発表する日。永さんは、疎開先での心細さと、戦争で家族に会えなくなるかもしれない苦しさを知り、その思いを発表しました。

そして、研修の始まりに子どもたちに声をかけていた高良政勝さんが、改めて自身の体験を語りました。高良さんは対馬丸に乗り、両親ときょうだい9人を亡くしました。そして、疎開先では目の前で家族を失った悲しみを抱えながら暮らしました。

(高良政勝さん)
「皆さんも疎開体験で、いろいろな体験をしたと思います。体験を自分だけのものにしないで友だちに話してほしい。本当に今こうしてできるのも日本が平和だからです。この平和がいつまで続くか。いつまでも続いてほしいと思います」

高良さんたちから研修を通じて託された永さん。胸に刻んだのは平和への強い思いです。

(高橋永さん)
「きょうだいも1人だけ生き残って、ほかの弟たちは全員死んでしまったみたいな方もいらっしゃったから。つらいことの重なりみたいな、ずっとつらいことがあって。なのにまたつらいことがあって。自分はそれに近い気持ちを体験できたと思うから、これを忘れないでずっと持って行きたいなと思います」