東日本大震災と福島第一原発事故から13年 追悼の一日

東日本大震災と、東京電力福島第一原子力発電所の事故の発生から11日で13年です。「震災関連死」を含めた死者と行方不明者は、あわせて2万2222人にのぼります。

被災地では道路や防潮堤といったハード面の整備がおおむね完了した一方で、被災者の心のケアなど国によるソフト面の支援が継続しています。住民の高齢化や人口の流出が進む中、長期的な視点で被災者の暮らしをどう支えていくのかが引き続き大きな課題となっています。

19:00 岩手 釜石“鎮魂の花火” 能登への祈りも

花火は東日本大震災の犠牲者の鎮魂と復興への祈りを込めて、釜石市鵜住居町の有志でつくるグループが、4年前から行っています。

地元の「根浜海岸」の沖合に船を浮かべ、午後7時になると「白菊」と名付けられた白い菊のように広がる大玉の花火3発を打ち上げたあと、色とりどりの数十発の花火を打ち上げました。

グループによりますと、ことしは資金難から当初は規模の縮小も検討しましたが、能登半島地震で犠牲になった人の鎮魂や復興への祈りも込めようとクラウドファンディングで寄付を募るなどして、例年通りの規模で開催したということです。

打ち上げた花火玉には「震災から13年がたったいま、復興が進んでいます。能登半島地震で被害を受けた人たちも頑張ってください」などと書かれた地元の小中学生のメッセージが貼られたほか、海岸には北陸の人たちに寄り添おうと、灯ろうを並べて「ともに」という文字が描かれました。

会場を訪れた66歳の女性は「いろいろな所で地震が起きていますがみんなで応援すればまた立ち直れると思います」と話していました。

震災が起きた年に生まれたという小学6年生の男の子は「震災は覚えていませんがここに津波が来たことを忘れてはいけないと思います」と話していました。

18:00 宮城 石巻 震災遺構の小学校 夜間公開

石巻市の門脇小学校は、13年前の東日本大震災で津波の被害により校舎の1階部分が浸水し、その後の火災でも校舎が焼ける被害を受けましたが、学校にいた児童や教職員は裏山に避難して無事でした。

校舎は震災遺構としておととしから公開されていて、11日は開館時間を延長して午後8時まで開館されました。

その中でみずからも石巻市で被災したリチャード・ハルバーシュタット館長が館内を案内し、被災状況や避難行動の大切さについて伝えていました。

リチャード館長は「津波や地震が起きた際には避難することを頭に入れて、無事でいてほしいということを伝えたくて話しました。この日は毎年命の大切さについて考えさせられます」と話していました。

埼玉県から訪れた41歳の女性は「東日本大震災の後にボランティアに参加した縁で、3年ほど前から毎年この日は石巻に来ています。自分がどうしないといけないかを考えるようになりました」と話していました。

18:00 福島 双葉町 追悼するキャンドルに火

東京電力福島第一原子力発電所が立地する双葉町は、おととし8月にようやく住民の帰還が始まり現在は100人余りが町内で暮らしています。

JR常磐線双葉駅前には11日、住民などが集まり、用意したおよそ1000個のキャンドルに火をともしました。

すべてのキャンドルに火がともされると、「福島が笑顔であふれますように」「みんなに希望の光がさしますように」などのメッセージが一つ一つのキャンドルから浮かび上がり、集まった人たちが炎をじっと見つめながら震災で犠牲になった人たちを追悼していました。

双葉町の谷津田陽一さん(72)は「残された人生を考えると長かったと思います。イベントはうれしいですが、やはり生活環境は戻らず復興はまだまだだと感じます」と話していました。

17:00 宮城 石巻 大川小学校で竹の灯籠にあかり

多くの児童などが犠牲になった宮城県石巻市の大川小学校では、遺族などが手作りした竹の灯籠にあかりがともされ、祈りがささげられました。石巻市の大川小学校では、13年前の震災で児童と教職員あわせて84人が犠牲になりました。

11日は、校舎近くの広場に当時学校に在籍していた児童の数と同じ、108本の竹の灯籠が円形状に並べられ、午後5時45分ごろ、灯籠の中に通されたLEDが点灯されると、竹にあけられた穴から光が漏れて幻想的な雰囲気に包まれました。

今回のプロジェクトの共同代表を務め、大川小学校で当時6年生だった3男を亡くした佐藤和隆さんは、「13年がたち、息子が帰ってこないという現実を考えることが多くなります。元日の能登半島地震は13年前の自分たちの体験と重なって苦しいです。竹あかりを通して必ず起きる自然災害にたくさんの人が向き合うきっかけになればと思います」と話していました。

15:00 福島 いわき “復興の桜”

いわき市沿岸部の豊間地区では、浸水しなかった内陸側の場所には災害公営住宅が整備されていて、その敷地で、「タイリョウザクラ」と呼ばれる早咲きの桜の木が花を咲かせています。

豊間地区の「復興さくらの会」の橋本和彦さんは、「震災復興のシンボルとして植樹したので、魚の桜だいのようにきれいな色の花が満開になることを楽しみにしています。最近は地区の人も桜の管理を手伝ってくれているので思いを引き継いでいってくれたらうれしいです」と話していました。

《地震発生時刻「14:46」被災地で祈り》

●岩手

釜石 津波で亡くなった祖母にかなえた夢を報告

岩手県釜石市鵜住居町の根浜海岸には午前中から多くの人が訪れ、地震が発生した午後2時46分には海に向かって祈りをささげていました。

仙台市内から訪れたという阿部彩加さん(23)は、津波で亡くなった祖母に祈りをささげました。阿部さんは次第に復興していく町を見る中で建設関係の仕事に就きたいと考え、去年その夢をかなえました。11日はその事を報告するためにも、震災のあと初めて祖母が住んでいた鵜住居町や震災前に祖母とよく訪れた海岸に来たということです。

阿部さんは「祖母も天国から見てくれていると思うので大人になった自分を見せられてよかった。夢をかなえてすごいねと言ってくれていると思う。みんなが安心・安全に暮らせる町を作りたいと思う。世の中の役に立っているかまだ分からないけれど、もっともっと夢をかなえられるように頑張るから祖母には空から見ててほしい」と話していました。

宮古 祈りと「絆」のたこ揚げ

岩手県宮古市の田老地区では犠牲者に祈りをささげるとともに、能登半島地震の被災地の復興を願って「絆」や「笑顔」などと書かれたたこを揚げました。

また、地震が発生した午後2時46分にあわせて防潮堤の上におよそ200人が集まり、海に向かって全員で黙とうをささげました。

陸前高田 復興祈念公園で黙とう

岩手県陸前高田市にある「高田松原津波復興祈念公園」では、防潮堤や海岸沿いに多くの人が集まり、地震が発生した午後2時46分にあわせて黙とうをささげました。

かつて7万本の松が生い茂っていた、陸前高田市の高田松原は震災による津波で「奇跡の一本松」を残して流され、その後、防潮堤の整備や松の植林などが行われて復興祈念公園として開放されています。

防潮堤や海岸沿いに100人以上が集まり、午後2時46分に防災行政無線からサイレンが流れると、それぞれに思いをはせながら、祈っていました。

夫の両親を亡くしたという陸前高田市の嶋村明子さん(60)は「あまり海に来ることはできなかったけれどきょう改めてすごくいい環境の地に住んでいたんだと思いました。13年は本当に無我夢中で当時はこの先どうなるか想像できませんでしたが、少しずつ心の自立ができてきました」と話していました。

●宮城

石巻 亡き同級生に決意を伝える

宮城県石巻市の20歳の大学生が、津波で亡くなった小学校の同級生に向けて母校で新たな決意を伝えました。

石巻市に住む大学生の高橋輝良々さん(20)は東日本大震災が起きたとき、小学1年生で、校内で放課後を過ごしていましたが、学校からの指示で避難して津波から逃れました。しかし、先に下校していた同じクラスの女子児童が津波で亡くなりました。

亡くなったのは、同じ幼稚園に通い毎日、遊んでいた親友で、「将来は先生になりたいね」と約束した仲だったといい、高橋さんは現在、教員資格を取得するため大学で勉強しています。

高橋さんは、母校の門脇小学校の校庭を訪ね、地震の発生時刻の午後2時46分に手を合わせて、命を守ることができる教員になる決意を親友に伝えました。語り部の活動をする前までは3月11日に学校に近づくことを避けてきたという高橋さんは、「繰り返し親友の名前を呼んで、ありがとうという気持ちと、これからも頑張るねと伝えました。ずっと来たいという気持ちにふたをしていたけれど、母校に帰ってきた感覚がうれしかったし、切ないけど大好きな場所だと思います」と話していました。

東松島 青いこいのぼりがたなびく

宮城県東松島市では、当時、5歳の弟を亡くした男性などが、たくさんの青いこいのぼりを掲げて亡くなった人たちに祈りをささげました。

掲げられた219匹のこいのぼりが風を受けて群れで泳ぐようにたなびく中、地震の発生時刻の午後2時46分になると1分間の黙とうが行われました。集まった人たちは静かに祈りをささげていました。

石巻 幼稚園の送迎バスで亡くなった娘を思う

当時、幼稚園の送迎バスで津波と火災に巻き込まれた6歳の長女を亡くした宮城県石巻市の女性は、バスが見つかった場所の近くの慰霊碑の前で祈りをささげました。

石巻市の佐藤美香さん(49)は、13年前、地震による津波と火災で、長女の愛梨さん(当時6)を亡くしました。愛梨さんは、乗っていた幼稚園の送迎バスが高台から海の方向に向かった際にほかの4人の子どもとともに津波とその後の火災に巻き込まれて亡くなりました。

佐藤さんは、亡くなったほかの子どもの家族といっしょに、5年前、石巻市門脇町のバスが見つかった場所の近くに慰霊碑を建てていて、きょう、次女の珠莉さん(16)とともに訪れ、午後2時46分にサイレンが鳴ると、静かに祈りをささげていました。そのあと、バスが見つかった場所で地面に手をあてて愛莉さんに語りかけていました。

佐藤さんは、「この日、娘が最後に過ごした場所に来ると、あの日、どんな思いでここにいたのだろうといつも以上に考えます。生きていればことしで二十歳になる年なので、できることがたくさんあっただろうなと考えてしまいます」と話していました。

石巻 高台の日和山公園で黙とう

宮城県石巻市では、震災発生の当日、多くの市民が津波から逃れるために避難した高台の日和山公園に多くの人が訪れました。

地震が発生した午後2時46分には追悼のサイレンが1分間鳴り響き、訪れた人たちは海に向かって目を閉じて祈りをささげていました。

市内の28歳の男性は「この日だけは亡くなった方々にお祈りしようと思ってここに来ました。あの日のことだけは忘れないようにと思っていますし、今後のもしもの時にどう行動するかなど、考えることがいろいろあります」と話していました。

名取 閖上地区 追悼の風船を空に

宮城県名取市の閖上地区では、地震の発生時刻に合わせて遺族や地域の人たちなどが黙とうをささげ、追悼のメッセージを書いた風船を空に向けて一斉に飛ばしました。

遺族や地域に住む人たち、それに県外からの参加者など400人余りが集まり、地震が起きた午後2時46分に黙とうをささげたあと「ずっと忘れません」や「犠牲となった魂も生きている人の心も穏やかに」などとそれぞれの思いを書いた風船を一斉に飛ばしました。

群馬県から訪れた50代の女性は「亡くなられた方のためにもいま自分ができることは何かを考えながら風船を飛ばしました。毎日に感謝しながら過ごしていきたいと思います」と話していました。

南三陸町 「旧防災対策庁舎」で祈り

津波で町の職員など43人が犠牲になった宮城県南三陸町の「旧防災対策庁舎」では、訪れた遺族などが祈りをささげました。南三陸町の防災対策庁舎では、震災の津波で町の職員など43人が犠牲になりました。11日は遺族などが訪れ、地震が発生した午後2時46分になると、サイレンにあわせて黙とうし、祈りをささげていました。

この庁舎で当時、町の職員だった義理の息子の三浦洋さん(当時40)を亡くした千葉みよ子さん(77)は、洋さんの最期を想像するとつらくなるため今も庁舎の前に立つことができないと言います。

千葉さんは11日、町の総合体育館に設けられた献花台で祈りをささげ「私が行くことはできませんが、震災を語り継いでいくため庁舎を残す意義はあると思います。義理の息子は子どもが好きだったので、子どもたちが長く暮らせるような魅力的なまちになってほしいです」と話していました。

14:46 仙台の海岸で祈り

仙台市の海岸では、地震が発生した午後2時46分に海に向かって祈る人たちの姿が見られました。

200人近くが犠牲となった仙台市若林区の荒浜地区の堤防には、午後2時46分にあわせて多くの人が訪れ、じっと海を見つめたり静かに手を合わせたりしていました。

●福島

富岡町 漁港で祈り

富岡町では13年前の大津波で24人が亡くなりました。さらに原発事故によって町の全域に避難指示が出されておよそ1万6000人が避難を余儀なくされ、長期の避難生活で体調を崩すなど、「震災関連死」に認定された人は456人にのぼります。

富岡漁港では、午後2時46分が近づくとおよそ20人ほどの人たちが集まり、海に向かって静かに手を合わせました。

夫と2人で避難して埼玉県や福島県郡山市など8か所を転々とし、6年前に町に戻ったという60代の女性は、「最近になってようやくこれまでのことを振り返ることができるようになってきました。まだ町に戻れない人もいます。震災と原発事故は絶対に忘れてはいけないと改めて感じます」と話していました。

大熊町 子どもたちも追悼式に 犠牲者を悼む

一時はすべての町民が避難を余儀なくされ、去年、12年ぶりに地元での教育活動が再開された福島県大熊町では、子どもたちも追悼式に臨み、犠牲者を悼みました。

住人たちが町役場前で行った追悼式には、こども園と義務教育学校をあわせた町立の教育施設「学び舎ゆめの森」に通う子どもたち22人が出席し、献花台に花を手向けました。そして地震が発生した午後2時46分に黙とうをささげました。

およそ1年前に避難先の会津若松市から家族とともに町に戻り、ことし「学び舎ゆめの森」を卒業する齋藤羽菜さん(15)は「被災当時は2歳なので記憶はありませんが、幼い自分を連れて避難した両親や応援してくれた人たちに感謝しています。たくさんの命を奪う災害が2度と起きないように祈りました」と話していました。

相馬 祈りの木の葉流し

福島県相馬市では遺族などが浜辺に集まり、追悼の思いなどを記した木の葉を海に浮かべ、祈りをささげました。

11日午後、相馬市原釜の浜辺には、遺族や地元の人たちおよそ80人が集まり、長さ30センチほどの木の葉に追悼のメッセージを記しました。

木の葉は、全国の小中学生がメッセージを記して寄せてくれたものも多く、「忘れていません。3.11」「早く町が復興しますように」など優しい言葉がつづられています。集まった人たちは地震が発生した午後2時46分にあわせて黙とうし、木の葉を海に浮かべて祈りをささげていました。

郡山 災害公営住宅で犠牲者を悼む

東京電力福島第一原子力発電所の事故で、避難を余儀なくされた人たちが暮らす福島県郡山市の災害公営住宅で、住民たちが地震の発生時刻にあわせて黙とうし、震災の犠牲者を悼みました。

正午すぎから災害公営住宅の集会所前の広場に20人ほどが集まり、およそ300本のろうそくを「3.11」の文字になるように並べて火をともしました。そして、地震が発生した午後2時46分になると、1分間の黙とうをして犠牲者を悼みました。

この団地では現在、3つの棟にあわせて78世帯、140人が暮らしていて、その半数近くが65歳以上の高齢者だということです。

東原団地自治会の渡邊光一会長(73)は「津波で亡くなった友人を思って祈りました。この団地では、チャイムを鳴らして訪ねても出てこない人もいるので、住民どうしがつながりを持てる機会をつくっていきたい」と話していました。

《各地でも祈り》

石川 輪島でも黙とう

ことし1月の能登半島地震で大きな被害を受けた石川県輪島市でも市役所の職員らが黙とうして犠牲者を悼みました。

輪島市役所では11日、庁舎の掲揚台に半旗が掲げられました。そして、「犠牲となられたすべてのかたがたに心からご冥福をお祈りします」などとアナウンスが流れ、東北沖で巨大地震が起きたのと同じ午後2時46分にあわせて職員らが黙とうをささげ、犠牲者を悼んでいました。

また能登町では、震災後に東北の被災地に派遣された町の職員も黙とうして犠牲者を悼みました。

千葉 旭 追悼の祈り

東日本大震災で大津波が押し寄せ16人が犠牲となった千葉県旭市では、大きな被害が出た飯岡地区にある慰霊碑に住民らが集まり、追悼の祈りをささげました。

11日は、特に被害が大きかった飯岡地区にある慰霊碑に住民らが訪れ献花台に花を手向けて手を合わせました。そして、地震が発生した午後2時46分にサイレンが鳴り響くと、黙とうして犠牲者に追悼の祈りをささげました。

東京 銀座の時計塔で鎮魂の鐘

東京 銀座では発生時刻の午後2時46分に合わせて鎮魂の鐘が鳴り、多くの人が黙とうして震災の犠牲者に祈りをささげました。

震災の風化を防ごうと大手時計メーカーは毎年、東京の銀座4丁目の交差点にある時計塔で、震災の発生時刻に合わせて鎮魂の鐘を鳴らしています。11日午後2時46分には1分間にわたって鐘が鳴らされ、街を行き交う多くの人が足を止めて黙とうし、震災の犠牲者に祈りをささげました。

岸田総理大臣「教訓生かし 災害に強い国づくり進める」

岸田総理大臣は福島県での追悼式で、地震発生時刻の午後2時46分に黙とうをささげました。このあと追悼のことばで「巨大地震と大津波、福島第一原発の事故は、多くの県民から日々の暮らしを奪った。最愛の家族や親族、友人を失われた方々の気持ちを思うと、今なお哀惜の念に堪えない」と述べました。

そして「原子力災害からの復興には中長期的な対応が必要で、引き続き国が前面に立って安全かつ着実な廃炉とともに、帰還に向けた生活環境の整備や産業・なりわいの再生支援に取り組む」と述べました。

その上で「能登半島地震では福島からも東日本大震災の経験、知見を踏まえた温かく、心強い支援をいただいている。大きな犠牲の上に得られた教訓を風化させることなく自然災害への対応に生かし、災害に強い国づくりを進めていくことを改めて固く誓う」と述べました。

11:00 宮城 山元町 震災遺構の中浜小学校

津波で被災し、震災遺構として整備された宮城県山元町の中浜小学校は11日、訪れた人たちが誰でも入れるように無料で開放されていて、語り部による当時の記憶も聞くことができます。

山元町の中浜小学校は、高さ10メートルを超える津波に襲われ、2階建ての校舎の天井近くまで浸水しましたが、児童や住民など90人は屋上にある屋根裏の倉庫に避難して全員が助かりました。

校舎の屋根裏の倉庫では、語り部が震災直後に児童や地域の住民が避難した際の緊迫した状況を説明し、訪れた人たちは真剣な表情で聞いていました。

春から小学校の教員として働く神奈川県の20代の男性は「13年前は小学生で津波の被害を詳しく知らなかったので、今後、起こりうる災害のために子どもに経験を伝えていきたいです」と話していました。

10:45 楽天の選手たちが黙とう

プロ野球、楽天の選手たちが遠征先の静岡市で黙とうして震災で亡くなった人たちを悼みました。

田中将大投手や仙台市出身の岸孝之投手など8人のピッチャーが練習を行うため午前10時半ごろに球場に姿を見せました。球場では半旗が掲げられ、電光掲示板に「がんばろう東北」のメッセージも映し出されました。

選手たちは練習前、半旗が掲げられたスコアボードに向き直って並ぶとコーチやスタッフとともにおよそ1分間黙とうし、東日本大震災で亡くなった人たちを悼みました。

震災のあとの2013年に球団初のリーグ優勝と日本一に貢献した田中投手は「何年たってもあのときのことを思い出し、追悼の意を持ってきょうを迎えました。チーム内でも当時を経験した人が減ってきているので下の代の人たちにどういうことがあってどんな思いを持ってやっているかを伝えていくことが大事だと思う。今シーズンは1つでも多く勝ってよい姿をたくさんの方々に届けられるよう頑張りたい」と話していました。

10:00 岩手 陸前高田 行方不明者を捜索

岩手県陸前高田市の海岸では、いまも行方が分かっていない人の捜索が行われました。201人の行方が分かっていない陸前高田市では、午前10時から警察官20人が脇之沢漁港近くの砂浜や海上で捜索を行いました。

先月、大船渡警察署に配属された、盛岡市出身の藤村琉月 巡査(19)は「震災が起きたときは保育園児でしたが、テレビで警察の人たちが懸命に活動しているのを見て警察官になりました。震災から13年がたち、厳しい捜索になるとは思いますが、1つでも多く手がかりを見つけて家族のもとへ返したいです」と話していました。

09:30 宮城 亘理町 高齢化進む災害公営住宅でラジオ体操

200人以上が犠牲になった宮城県亘理町では、高齢化が進む災害公営住宅に入居する住民たちや地域のお年寄りが集まって、11日も7年前から毎日続けてきた朝のラジオ体操で交流しました。

入居する住民や近くに住むお年寄りなどあわせて13人が笑顔を見せながら元気に体を動かていました。この災害公営住宅では被災して入居している住民たちの高齢化が進むなか、新型コロナの影響もあって交流の場への参加が難しい人が出てきているということです。

震災で被災し災害公営住宅に入居する渡辺紀美子さん(79)は「みなさんとお話するのが楽しみでラジオ体操に参加することが生きがいになっています。高齢なのでいつどうなるかわかりませんが、できる限り継続してやっていきたいです」と話していました。

09:00 処理水の放出反対も復興へ新たな決意

東京電力福島第一原子力発電所で処理水の放出が始まってから初めての3月11日となり、福島県相馬市の漁業者は一日も早い廃炉の前進を願うとともに、低迷した漁業の復興に向けた決意を新たにしていました。

相馬市の漁業者で相馬双葉漁協の青壮年部長を務める石橋正裕さん(44)は、一貫して放出に反対の姿勢を示してきました。これまで放出では目立ったトラブルはありませんが、汚染水を処理する過程では、浄化装置から放射性物質を含む水が漏れるなどのトラブルが起きていて、石橋さんは東京電力の作業管理のあり方に厳しい目を向けています。

石橋さんは「理解の醸成がなされないまま放出が始まったことには今も納得できませんが、事故の収束のためにやむを得ないとも思っています。漁業復興のためにも廃炉が一日でも早く進むことを願っていますが、トラブルが続くと復興が加速していないと感じます」と複雑な思いを語りました。

08:40 岩手 陸前高田 追悼施設に遺族

岩手県陸前高田市の「東日本大震災追悼施設」には、震災で家族を亡くした人たちが相次いで訪れています。

市内に住む佐藤利一さん(80)と君子さん(77)の娘のミホさん(当時37)は、当時、市役所の職員として避難所の対応にあたっていたということですが、13年たったいまも行方が分かっていません。

佐藤さん夫婦は11日朝、追悼施設を訪れて、ミホさんの名前が刻まれた「刻銘碑」の前にサクラの枝を供え、ミホさんの一人息子が大学に合格したことを報告しました。

佐藤利一さんは「娘はいまだに見つかりませんが、見守ってもらいたいです」と話していました。

08:30 宮城 気仙沼 震災経験の教員が命守る大切さ訴え

宮城県気仙沼市の小学校では、当時、小学生で、震災を経験した教員が、子どもたちに命を守る大切さを訴えました。

津波で大きな被害を受けた気仙沼市大谷地区にある小学校では、毎年3月に震災を語り継ぐ集会を開き、子どもたちに震災の記憶と教訓を伝えています。

3年前から教員としてこの学校で働く三浦美咲さん(25)は、小学6年生で震災を経験し、みずからは津波を逃れましたがいつも優しく見守ってくれていた祖父の敏勝さんを亡くしました。

祖父のような犠牲を二度と繰り返さないために、命を守る大切さを伝えようと教員になった三浦さんは11日、初めて全校児童およそ120人の前で震災の記憶を話しました。

三浦さんは、津波で流されてしまった家や大切な服などは新しく手に入れられても、大好きな祖父の命だけはかけがえがないとした上で、「自分の命は自分で守ってください。周りにその意識が広がることで未来の誰かの命を守ることにつながっていきます」と訴えました。

児童たちは全員、震災後に生まれた世代ですが、三浦さんの話に真剣な表情で耳を傾け、時折、うなずいていました。

6年生の女子児童は、「災害のことを家族で話したことはそれほどありませんでしたが、命をどう守るか家族と話していきたい」と話していました。

三浦さんは「震災のあとに、自分の命の大切さを伝えられる教員になりたいと思ってここまでやってきたのできょう、子どもたちに伝えられてよかったです。『命の大切さ』を伝え続けられる教員になりたいです」と話していました。

08:20 岩手 釜石 「芳名板」設置施設で献花

岩手県釜石市の鵜住居地区にある震災の追悼施設「釜石祈りのパーク」には、市内の犠牲者のうち遺族が公開を了承した1003人の名前が記された「芳名板」が設置されています。

施設には11日朝8時ごろから献花に訪れたり、手を静かに合わせたりする人の姿が見られました。

震災で兄を亡くしたという、釜石市出身で現在は埼玉県で暮らす70代の女性は「兄は視力が低下していたので、津波から逃げ遅れてしまったのではないかと考えています。震災から13年、長いようであっという間だったようにも感じます。兄には『家族みんな元気に過ごしているので、見守っていてね』と伝えました」と話していました。

08:00 宮城 女川町 復興願い「黄色いハンカチ」

東日本大震災で800人以上が犠牲になった宮城県女川町では、復興への願いなどが書かれた黄色いハンカチおよそ1000枚が駅前の広場に掲げられました。震災の風化を防ごうと女川町の有志は、映画「幸福の黄色いハンカチ」にちなんで6年前からこの取り組みを行っています。

ことしは能登半島地震の被災地への思いを書いてもらう大きなハンカチも用意され「必ず明るい未来が来ます」などのことばが見られました。

発起人の加納純一郎さん(73)は「女川もがんばっているので能登の皆さんもがんばってほしいという思いを込めました。いつかは町全体を黄色いハンカチでいっぱいにしたいです」と話していました。

08:00 福島 浪江町 避難先から戻った男性

東京電力福島第一原子力発電所の事故による避難指示が去年(R5)解除された福島県浪江町の室原地区では、避難先から戻った男性が地元で初めての3月11日を過ごしています。

町の内陸部に位置する室原地区に住む金澤政喜さん(75)は、原発事故のあと家族とともに福島県白河市に避難しました。その後、生まれ育った地区に必ず戻ると決心し、自宅を取り壊して同じ場所に家を建て直して去年10月に戻りました。戻ることを待ち望んでいた母親のイチさん(98)さんは、戻った時に大いに喜んでいたということですが、そのおよそ1か月後に亡くなりました。

金澤さんは「母を生前に連れて戻ることができたのが、せめてもの親孝行だったと思うようにしています」と話していました。また「まだ帰れない人もいるから私だけがもろ手を挙げては喜べない。でも、生まれ育った地区に戻ってきたのだから、前を向いて頑張っていくしかない」と話していました。

08:00 宮城 南三陸町 家業を継ぎ漁師に

宮城県南三陸町の漁師の小野具大さん(45)は、震災の津波で母の美和子さん(当時60歳)と兄の雄大さん(当時35歳)を亡くしました。小野さんは震災から13年となった11日もいつも通り朝から海に出てワカメの水揚げを行い、船着き場でめかぶを切り落とす作業を行っていました。

当時、小野さんは宮城県塩釜市内で飲料メーカーに勤めていましたが、家業の漁業を継いだ兄が亡くなったことから自分が引き継ぐことを決意し、震災の7か月後に南三陸町に戻ってきました。

震災直後は海を見ることさえつらかったと言いますが、父親や周りの漁師仲間に漁を教えてもらううちに漁業の楽しさを感じるようになったということです。

小野さんは「最初は家族を奪った海が好きではありませんでしたが、漁師をしているうちに海から受ける恵みを知り、いまは自然の大切さを感じています。ただ、13年たっても亡くなった人たちへの思いは変わりません。母と兄にはこっちのことは気にせず天国で安らかに過ごしていてほしい」と話していました。

07:00ごろ 「帰還困難区域」は

東京電力福島第一原子力発電所の事故の影響で、「帰還困難区域」がいまもなお7つの市町村に残されています。この区域に一部が含まれている福島県大熊町夫沢地区では、原発事故の発生から13年となる11日も区域内の道路や住宅の前にバリケードが設置され、立ち入りが厳しく制限されています。

06:30 岩手 宮古 能登半島地震の被災者気遣う声も

津波が押し寄せ、181人が犠牲になった岩手県宮古市の田老地区では、亡くなった人たちを悼むとともに能登半島地震で被災した人たちを気遣う声が聞かれました。

宮古市の田老地区では13年前、国内最大級と言われた防潮堤を乗り越えて津波が押し寄せ、震災後に新たな防潮堤が整備されました。

地区全体を見渡すことができる高台の「三王眺望公園」には、朝早くから地元の人たちが集まり、まちを見渡しながら手を合わせるなどしていました。

自宅が全壊したという加藤敏男さん(75)は海に向かって手を合わせ「いまでも亡くなった人たちのことを思い出すことがあります。亡くなった人たちが思い残したことを引き継いで、災害のない住みやすい田老をつくっていこうと思います」と話していました。

津波で自宅が流された大棒レオ子さん(76)は当時について「避難している途中に後ろを振り返ると海が上がってくるように津波が迫っていて本当に怖かったです。自宅が流されていくのは見ていられませんでした」と振り返りました。

そして「ニュースで能登半島地震の被災地を見ると、胸が詰まる思いです。早く仮設住宅ができてほしいです」と、涙ぐみながら被災した人たちを気遣っていました。

06:00 岩手 陸前高田 「奇跡の一本松」と献花台

岩手県陸前高田市では午前6時前に山のりょう線から朝日が昇り「奇跡の一本松」とともに静かな海の水面を照らしました。「高田松原津波復興祈念公園」では、11日朝早くから震災の犠牲者を悼む人の姿が見られました。

公園内にある「奇跡の一本松」はかつておよそ7万本の松が生い茂っていた陸前高田市の高田松原で、津波に耐えてただ1本残った松で、震災後はモニュメントとして保存・復元されています。

茨城県常陸大宮市から訪れ、近くの橋の上から朝日と一本松の写真撮影をしていた橋本義昭さん(72)は、震災後から被災地に通い、一本松の保存事業にも携わってきたということです。

また被災地の写真を撮影し続けて写真集を発行したり、展示会を開いたりしているということで「もう10年以上がたち、風化しつつあると感じるので、記録を残すことを続けるのが使命だと思っています」と話していました。

宮城県亘理町から夫婦で「奇跡の一本松」を見に訪れた岡田良郎さん(65)は「やっぱり一本松はすごいな、頑張ってほしいなと思いました。日本は災害が多いので、自分も地震や津波が来たらすぐに逃げるようにしたいです」と話していました。

公園内にある献花台には朝から静かに手を合わせる人の姿がありました。

7年前から陸前高田市役所で働く農林課の菅原剛治さんは、地震発生時の午後2時46分は勤務中で庁舎を離れられないため、11日朝に献花台を訪れました。

震災で知人を亡くしたという菅原さんは「『皆さん安らかに休んでください』と伝えました。住民がゆったりとした気持ちで暮らせるような街になればいいなと思っています」と話していました。

06:00 岩手 宮古 宿泊施設で災害対応訓練

岩手県宮古市田老では、市の職員や消防などが早朝から災害時の対応を確認する訓練を行いました。

訓練は宮古市田老の宿泊施設「グリーンピア三陸みやこ」で午前6時から行われました。

岩手県沿岸北部で震度6強の揺れを観測し、大津波警報が発表されたという想定で、市の職員や消防などが参加しました。

まず午前6時、防災行政無線などで、緊急地震速報が出たことが伝えられると参加した人たちは、施設のロビーで頭を守って低い姿勢をとり、安全を確保していました。

施設内には臨時の救護所が設けられ、地震で骨折や打撲などのけがをしたという想定で医師や消防隊員が症状を確認したりガーゼを巻いたりしていました。

そして担当者が連絡を取り合いながら重症の患者を救急車で県の防災ヘリコプターが待機している場所まで運び、受け渡して搬送していました。

また、岩手県立大学がドローンを飛ばし、▽搭載しているスピーカーで上空から避難を呼びかけたり、▽避難状況を確認したりする実証実験も行っていました。

宮古市の山本正徳市長は「13年はあっという間という気もしますが、たくさんの方々が復旧や復興に携わって苦しい思いをしながら過ごした期間としては長かったような気もします。今後の災害に備えるため、地域それぞれにあった避難の方法を考えながら、人の命を絶対に失わないように防災への取り組みを続けていきたいです」と話していました。

05:30すぎ 福島 南相馬 「かしまの一本松」再び

福島県南相馬市鹿島区の南右田地区は、東日本大震災の津波ですべての住宅が流され、54人が犠牲になるなど壊滅的な被害を受けました。

地区にあった松林も流されましたが、高さ25メートルの1本のクロマツが津波に耐え、「かしまの一本松」、または「奇跡の一本松」と呼ばれ、被災した人たちを勇気づけてきました。

しかし徐々に枯れていき、震災の6年後に、かさ上げ工事などに伴って伐採されました。

震災前までこの地区に住み、市内の内陸部に移り住んだ五賀和雄さん(83)は、震災の記憶として伝え続けようと仲間とともにこのクロマツの松ぼっくり30個ほどから種をとって苗木にし、4年前に一本松のあった場所に植えました。

住民などの協力もあってこれまでに96本を植え、今では大きいもので、高さ1.6メートルほどにまで成長しました。

あの日から13年の11日、五賀さんは近くの防潮堤から海を眺め、朝日が昇ると静かに手を合わせ、祈りをささげていました。

五賀さんは「13年たっても同じ地区で暮らしていた17人が行方不明のままです。ここにあった松林が子どものころの遊び場で、力強く生きた一本松から受け継がれた木々を後世に残し、地区があったことを伝え続けていきたい」と話していました。

05:30すぎ 宮城 気仙沼 高台の公園で祈り

宮城県気仙沼市では津波で1万5000棟を超える住宅が被災し、市によりますと、関連死を含めて1220人が亡くなり、214人の行方がいまも分かっていません。

海や中心部の町並みを見渡せる高台に作られた「気仙沼市復興祈念公園」では、11日朝早くから海や町並みを写真におさめたり深々と頭を下げたりする人の姿が見られました。

新潟県から訪れた60代の男性は「震災の犠牲者に祈りをささげるとともに気仙沼市の復興が進んでほしいという思いで訪れました。全国で相次ぐ自然災害の被害が少なくなるよう祈っています」と話していました。

05:30ごろ 仙台 祈りささげる遺族

仙台市の海岸では犠牲になった家族へ朝早くから祈りをささげる男性の姿がありました。

津波でおよそ200人が犠牲となった仙台市若林区の荒浜地区です。

地区の海沿いは災害危険区域となったため住宅を建てることはできません。

荒浜地区で生まれ育った大学敏彦さん(69)です。

震災発生の当日、仕事で自宅を離れていて無事でしたが、津波で自宅と実家を流され妻と両親、兄とおい、合わせて5人を亡くしました。

妻の眞知子さん(当時60)はいつも笑顔で、けんかすることはほとんどなく大学さんに寄り添ってくれたといいます。

この13年、毎月11日の月命日には欠かさずここで祈りをささげてきた大学さん。

11日朝も、家族の名前が刻まれた慰霊碑に線香を手向けたあと、亡くなった妻を思い手を合わせ、慰霊の鐘を鳴らしました。

大学さんは「あっという間の13年でした。亡くなった妻には、残された家族をこれからも見守ってほしいという思いで手を合わせました。定年後は、夫婦で第二の人生としていろいろなところに行きたかったけれど、夫婦の時間がなくなり、寂しい思いです」と話していました。

また、能登半島地震で被災した人への思いについて聞くと「生きてさえいれば、私自身がそうであったように、周りの人が手を差し伸べてくれて前に進めると思います。地震が起きたら、とにかく逃げること、身を守ることにつきます」と話していました。

03:00 岩手 釜石 店舗流され、その後再建したパン屋

岩手県釜石市片岸町の小笠原辰雄さんと三智子さん夫妻は長年、パン屋を営んでいましたが、13年前の東日本大震災の津波で店と自宅を流されました。

それでも「自分たちのパンを楽しみにしている地元の人たちのためにパンを焼きたい」と、震災から7か月後には仮設店舗での営業を再開しました。

その後7年かけて、かつて店と自宅があった場所の近くでパン屋を再建しました。

震災から13年となる11日も小笠原さん夫婦は午前3時からパン作りを始めました。

震災後、初めてパンの生地をこねたときに感じた生地のぬくもり、焼き上げたパンのおいしさはいまも忘れられず、毎年、3月11日は当時を思い出しながらパンを焼いてきたということです。

11日に作った菓子パンやサンドイッチはスーパーや道の駅のほか、震災の法要が行われる寺などにも届けられるということです。

小笠原辰雄さんは「地域の皆さんのおかげでここまでやってこられたので、感謝の気持ちを忘れることはありません。これからも口にしたときに『おいしいね』と言ってもらえるようなパンを作り続けたいと思います」と話していました。

「震災関連死」含む死者と行方不明者 あわせて2万2222人に

2011年3月11日の午後2時46分ごろ、東北沖でマグニチュード9.0の巨大地震が発生し、東北の沿岸を高さ10メートルを超える津波が襲ったほか、関東などにも大津波が押し寄せました。

福島第一原発では、巨大地震と津波の影響で電源が喪失し、3基の原子炉で核燃料が溶け落ちる「メルトダウン」が発生、大量の放射性物質が放出されました。

警察庁によりますと、今月1日の時点で、
▽地震や津波の被害などで亡くなった人は1万5900人、
▽行方不明者は2520人となっています。

また多くの人が長期の避難生活を余儀なくされ、復興庁や各都県によりますと、体調が悪化して死亡するいわゆる「震災関連死」に認定された人は、これまでに3802人と、この1年で10人増えました。

「震災関連死」を含めた東日本大震災による死者と行方不明者は、あわせて2万2222人にのぼります。

避難生活を余儀なくされている人は減少が続いているものの、復興庁の先月1日時点のまとめで、2万9328人となっています。

被災地アンケート 交流の減少や孤立の深刻化も

被害の大きかった岩手・宮城・福島の3県では、この13年で道路や防潮堤といったハード面の整備がおおむね完了した一方で、人口減少が進んでいます。

住民基本台帳によりますと、3県の沿岸と原発事故で避難指示が出ていたあわせて43自治体のうち、震災前と比べて人口が10%以上減った自治体は全体の8割にあたる35自治体にのぼっています。

こうした中NHKが岩手・宮城・福島の被災地の1000人にWEBで行ったアンケートで被災者どうしの交流や地域のコミュニティー作りの活動状況について聞いたところ、▽「変わらない」が56%と最も多くなった一方、▽「やや減った」が18%、「減った」が16%となり、3割を超える人が減ったと回答しました。

住民の高齢化や人口の流出で活動ができなくなったなどの声が多く、交流が減った影響について複数回答で聞いたところ、▽「町に暮らす魅力が減った」が50%となったほか、▽「地域防災の体制が弱くなった」が26%、▽「精神的な孤立を感じている」が26%などとなりました。

被災地では住まいやインフラなどの復興は進んだ一方、いまも心に大きな傷を抱えて苦しみ、元の生活を取り戻せず前に進むことが難しい人たちもいます。

また、13年前の震災と原発事故で自宅を失った人などが暮らす災害公営住宅では、入居者の高齢化が進み、当初開かれていた住民どうしの交流イベントも減少するなどして、住民の孤立が深刻化しています。

国は震災から10年が過ぎた2021年度からの5年間を「第2期復興・創生期間」と位置づけて被災者の心のケアやコミュニティー作りなどソフト面の支援を継続していますが、長期的な視点で被災者の暮らしをどう支えていくのかが引き続き大きな課題となっています。

福島県 今も避難指示続くところも

一方、福島県では原発事故による帰還困難区域が7つの市町村にまたがり、今も避難指示が続いています。

帰還困難区域では国の新たな枠組みの中で避難指示解除へ向けた動きが進められていますが、一部にとどまり、除染廃棄物の県外での最終処分をめぐる問題の先行きも不透明なままです。

また、福島第一原発で行われている処理水を薄めて海へ放出する作業は、これまでに目立ったトラブルはなく、福島県産の海産物の市場価格に影響はみられていませんが、汚染水を処理する過程で放射性物質を含む水が漏れ出すなどのトラブルが相次いでいて、東京電力の作業の管理のあり方に厳しい目が向けられています。

福島県では山積している難しい課題に向き合い、復興の歩みを着実に前進させていくことが求められています。

台湾 蔡英文総統「友情はいまでも続いている」

台湾の蔡英文総統は旧ツイッターのXに日本語でメッセージを投稿しました。

この中で「震災による痛みは少しずつ薄れていくかもしれませんが、惜しみなく助け合うという私たちの精神と強く結ばれた友情はいまでも続いています」と投稿しました。そして「これからも私たちは手を携えて友好という名の花を世界のすみずみに咲かせていきましょう」とつづっています。

台湾からは、2011年の東日本大震災のあと200億円を超える義援金が寄せられています。

林官房長官「被災地に寄り添いながら復興に」

林官房長官は午前の記者会見で「改めて犠牲になられた方々のご冥福を、謹んでお祈り申し上げるとともに、ご遺族や今なお避難生活を送っている方々に心よりお見舞いを申し上げる」と述べました。

その上で「復興は着実に進展しているが、被災地域で状況が大きく異なり、きめ細やかな対応が必要だ。引き続き『東北の復興なくして日本の再生なし』という強い決意のもと、被災地の方々に寄り添いながら政府一丸となって復興に取り組んでいきたい」と述べました。

土屋復興相 “必要な財政支援に万全期す”

土屋復興大臣は、東日本大震災から13年となるのにあわせて報道各社のインタビューに応じ、被災地の復興に向けて必要な財政支援に万全を期していく考えを示しました。

この中で土屋大臣は、被災地の現状に関し、東京電力福島第一原発の廃炉に向けた処理水の海洋放出が引き続き課題になるとした上で「正確な根拠に基づく情報を出し続けていくことが大事だ。水産業者だけでなく、農業者などのためにも、処理水による風評が払拭(ふっしょく)できるよう頑張っていきたい」と述べました。

また福島県内になお残る「帰還困難区域」への対応をめぐり「希望する住民が1日でも早く帰還できるよう、除染やインフラ整備などをしっかり進めていきたい。将来的に『帰還困難区域』すべての避難指示を解除し、復興に責任を持つ決意には揺らぎがない」と強調しました。

さらに宮城、岩手両県の現状について「ハード面に関してはおおむね完了したとの意識はあるが、心のケアをはじめとしたソフト面は課題が残る。そうした状況を受け止め、支援していく」と述べました。

そして被災地の復興について「息の長い取り組みをしっかりと支援できるよう財源を確保する。必要な事業の実施に支障をきたさぬよう、万全を期していきたい」と述べました。

能登半島地震の被災地でも震災の教訓を

元日に起きた能登半島地震の被災地では、東北からも東日本大震災を経験した多くの人たちが支援活動に向かい、13年前の経験や教訓がさまざまな形で生かされました。

これからはインフラの復旧やなりわいの再生など能登の復興に向けても、東日本大震災の教訓を伝えていくことが求められています。