大谷翔平が語る2023 伝説と代償 そして新たな章へ

大谷翔平が語る2023 伝説と代償 そして新たな章へ
2023年12月、大谷翔平選手がロングインタビューに応じた。

投打の二刀流で数々の記録を打ち立て、人々の記憶にその名を深く刻み込んだ今シーズン。伝説的な活躍の一方で2回目の右ひじの手術を経験し、オフには6年間を過ごしたエンジェルスから離れることを決断した。そして、プロスポーツ史上最高額でドジャースと契約を結ぶ。

まさに激動の1年ー。

そのすべてを追いかけ見届けたNHKスペシャルの担当者が、大谷選手と向き合った約1時間のインタビューの一部始終を公開する。
(アメリカ総局 記者 山本脩太)

現在の生活とドジャース移籍 そして、愛犬

シーズン中、試合を終えて球場を後にするときはTシャツに短パンなどラフな姿が多いが、この日、約束の場所に現れた大谷選手は黒いレザーを羽織っていた。
座る際には、小さな声で「失礼します」とひと言。

そして、いつもどおり冷静に淡々と語り始める。

手術のあとから一緒に暮らしている愛犬「デコピン」を「デコ」と呼ぶ時の表情は、いつもよりも少し穏やかに見えた。
Q.移籍も決まって、今は毎日どんな風に過ごしていますか?
大谷翔平 選手
「ちょっと前にチームが決まって発表したので、そこからはスタジアムで週に3、4回ですかね、トレーニングとランニングとかを、兼ねて使わせてもらって。たまに大学とかでやらせてもらって練習している感じですかね。素振りは50、60本振ったり、それこそ、もうちょっとでティー(バッティング)とか始まりますけど。いまは軽くリハビリのメニューと、トレーニングもふだんどおりというか」

(Q.リハビリの具合というのはどうですか?順調ですか?)
「順調ですね。トレーナーの方と週2、3回、リハビリのメニューも兼ねながらミーティングもしたりとか、回復もかなり順調にはきているかなと思います」

(Q.いま毎日はデコピンのおかげで安らか?)
「どうですかね、ふだん通りのオフって感じですかね。1人という感じでもないので、それが新鮮ではありますけど。一緒に起きて、ご飯食べて、寝るみたいな」
Q.ことし1年、長いシーズンだったと思いますが、WBCの優勝から始まって、ホームラン王、MVP、けがもありました。どんな1年だというふうに振り返っていますか?
「WBCに関しては、ずっと出たいなとは思っていたので、なかなかチャンスというかタイミングが合わなかったですけれど、今回はこうやって出させてもらって、すごくよい経験にはなりましたし、そういう意味で勝てたのが、目標にしていたところで勝てたのが、すごく自分としては特別でしたね。

全体を通してみると順調にきていたかなとは思うんですけど、ひじのケガもあって、試合に出られない、最後の何週間、1か月ちょっとはやっぱり悔しいシーズンだったかなと思います」
Q.悔しさが残っているシーズンですか?はたから見たら…。
「もう終わったことなので、今はなんとも思っていないですけど。やっぱりシーズン、フルシーズンでこう、何て言うんですかね、戦いたかったなというか。まあ勝った、負けたとかね、打てる打てなかったというのは必ずあるものだとは思うんですけど、やらないことにはそれも出てこないので。やっぱりフルシーズンで最後まで試合に出たかったなと思いますね」
Q.ドジャースの入団会見の時「理由は1つじゃなくて最後は自分の気持ちに素直に従った」と話していましたが、どんな思いに従ったのですか?
「それもいちばんの決め手みたいなものはなくて。球団名とかはもちろん言えないですけど、本当にどの球団も、ミーティングさせてもらって、直接会ってお話しさせてもらった球団は特に印象深いですし。本当に結果的に断らざるをえないというか、どこかに決めたら断らないといけない球団は出ますけど。

それでもすばらしい球団でしたし、すばらしい方々だったので、このオフシーズンを通して、まずはそういう人たちとそういう話ができたというのは個人的にはすごく大きかったですし、すごくいいミーティングができたなと思ってます」
Q.大谷さんの気持ちの中で、最後ドジャースに決めるまでにいろいろな葛藤や迷いみたいなものはあったんですか?
「もう常にありましたね、それは。野球やってきてチームをいろいろ決めてきましたけど、その中でもいちばん迷ったのかなとは思うので、もちろん。

それだけ熱意のある誘いをいただいていましたし、どの球団もそれは感じていたので。地理的な問題もありましたけれど、そこはもう関係なくというか、僕の中では本当にフラットな状態で話をさせてもらって決めましたね」
Q.エンジェルスを離れるさみしさはありますか?
「うーん、そうですね。最後の最後まで交渉ももちろんしていましたし、はい。でも今は頑張りたいなっていう気持ちが。違うチームに決まっているので、交渉中はどうなるのかなというのがもちろん分からなかったので、迷いもありましたけど」
Q.ドジャースの入団会見でも「勝つ」という思いを何度も繰り返していましたね?
「どの球団に行っても勝ちたいというのは変わらないと思うので。それはこのメジャーリーグでの6年間、ことしを含めた6年間でも変わらないですし。そこはおそらく、この先もずっと変わらないのかなと思うので、チームは変わりますけれどね、そういう気持ちはずっと変わらないかなとは思います」
Q.契約の大きさも含め、プレッシャーみたいなものは今まで以上に感じますか?それほど変わらないですか?
「どうなんですかね。実際に球場に行って、今プレーしているわけではないですし、想像でしかしゃべれないので。ファンの熱はもちろんファン層というか、人数的にもそうですけれど、多いと思うので。熱量も感じますし、やっぱり名門なので。

どこに行ってもドジャースファンはいますし、そういう熱を持っているファンの方々だと思うので、まずは僕はまだプレーしたことがないので、そういうチームのまず一員として認めてもらえるように、まず結果を出さないといけないかなとは思いますね」
Q.年俸の97%を後払いというところもすごく話題になりましたけれども、それだけ今回、大きな契約だったからこそ、ペイロール(チームの総年俸)を圧迫することは避けたかったというねらいなんでしょうか?
「そうですね。どの人(選手)たちにも、もちろんドジャースの選手もそうですけれど、大体もう(後払いは)付いているものなので、大きい契約をする人たち。そのパーセンテージに関しては選手のほうに一任されていますけど、そういう意味ではある程度大きい契約の人たちはそういうのを使うことによってチームのペイロールに柔軟性を持たせられる。

ほかの選手の契約に回すこともできますし、ほかの選手の契約の額ももちろん大きくなるというのがあるかなと思いますね」
Q.やはり10年間、チームの競争力を保ち続けたいというところが前提ですか?
「そうですね。もちろん、それを考えるのはチームのほうと言えば、そうなんですけれど、選手の側からしてできることももちろんありますし。何を目的にするかによって、どういう契約になってくるかというのは変わってくるところなので、そこは選手と代理人しだいなのかなとは思いますね」
Q.ある種、そういうことも6年間エンジェルスでプレーしてきて学んだということですか?
「んー。いや、単純に額が大きくなってしまうので、僕自身のもらう額が。エンジェルス時代は最低年俸でやってきたりとか、入団のときも25歳ルール(=ドラフト以外で入団する25歳未満の選手は契約金や年俸などが最低限になる)があったので、契約金も低かったですし、年俸調停に入る前の金額もかなり低かったので、あまりそこを気にする必要は無かったとは思いますね」

WBC決勝と魔球「スイーパー」 そしてホームラン王

実はシーズン中の囲み取材の中で、大谷選手からじっくり技術論を聞ける場面はなかなか無い。

それだけに今回のインタビューでは、多くの時間を割くことになった。
中でも、大谷選手が語った「スキルを獲得するのは一瞬」ということばは非常に興味深い。

必要なスキルを得るためには、入念な計画に基づいた強じんなフィジカルという土台を築くことが不可欠。

そして、野球がうまくなるための努力の過程を「趣味みたいなもの」とあっさり言ってのけたのも大谷選手らしさを感じさせる瞬間だった。
Q.この1年を振り返っていきます。

まず、WBCの決勝で9回のマウンドに上がりました。今回、私たちが栗山英樹さんにインタビューをした際に、栗山さんが「あのスイーパーが今後どう進化していくのかすごく楽しみだなと思った一方で、ああいう場面だから翔平が170キロぐらい投げて本当に壊れてちゃうんじゃないかって心配する気持ちもありながら見ていた」とおっしゃっていました。

大谷さんはあの場面、改めてどう振り返っていますか?
「もう最後の最後は、投げるかは分からなかったというか、数日前ぐらいですかね。当日か数日前くらいまで、チームとも相談しなければいけなかったので。ダルビッシュさんもそうでしたけど、投げたいから投げさせてくれとか、そういう問題ではもちろんないですし、そこは日本の(代表)チームとアメリカの所属チームと話しながら、どこまで投げられるのかというのを相談して決めた感じなので。

当日はいけますという感じで、いつでも、別に抑えじゃなくて9回じゃなくても『中継ぎでどの場面でもいけますよ』という感じでしたね」
Q.優勝がかかった1点差の場面で、大谷さん自身のメンタル、高揚感というのはどうでしたか?
「抑えの経験も少ないですし、点差も点差だったので、緊張もしましたね、それは。ブルペンにいた時から調整の仕方とか、もちろん慣れてはいないので、はい。そこはもう難しかったと言えば難しかったですかね」
Q.今まで日本ハムでも優勝がかかった場面、経験してきたと思いますが、それとは当然また違うという?野球人生の中でもかなり。
「全然違いましたね、それは。あの時は若かったというのもありましたし、そういう意味での違いももちろんありますけど。ずっと大きい目標の中の1つの大会だったので、僕も特別でしたし。そこまで勝ち上がってきて、その1球で全部が台無しになってしまうということもあるので、そこは変な緊張というか、レギュラーシーズンとは、またちょっとこう違う感じがありましたね」
Q.ゲッツーを取ってトラウト選手との対戦のとき、最後のスイーパーがデータ的に見ると大谷さんのふだんのスイーパーよりも曲がり幅がさらに大きかったですけど。あの最後の1球、最高のボールだったとわれわれ見ていましたが、大谷さんの中ではどういうふうに捉えていますか?最後の1球。
「最後はあんまり覚えていないですね、まあその前の(ベッツ選手の)ゲッツーがやっぱり大きかったなって。飛んだコースとそれをしっかり守備してもらって。自分の中でゲッツーだと思った打球をしっかりゲッツーに(アウトを)2つ取ってくれるというのが、まず。トップ選手なので当たり前と言えば当たり前なのかもしれないですけれど、あの場面で取れるところでしっかり取ってくれたというのがまず大きかったですね。

そこで2アウトになった時点で、ある程度、自分の中ではいけるなという気持ちはもちろんあったので。最後はもう本当に、何て言うんですかね、投げるだけというか。

本当(捕手の)中村さんも(受けてもらうのが)初めてだったので、信頼して思い切って投げるだけという感じでしたね」

(Q.もう無我夢中ですよね。投げきった次の瞬間、もう帽子とってましたもんね?)
「フフフ。まあ三振かホームランかぐらいのつもりでいたので。それで決まればいいかなというか、それぐらいの思い切りのよさでいいかなというのがあったので。何よりやっぱりゲッツーが大きかったですね、自分のメンタルとしては。トラウト選手も思いっきり振ってましたし、そのぐらいの本当におもしろい勝負だったなと思います」
Q.そのまますぐにシーズンに入っていって、シーズン序盤はすごくスイーパーで、本当に4月はすばらしいピッチングだったと思うんですけど、改めてことしの序盤のスイーパーの出来、相手バッターに投げていた感触はどうでしたか?
「スイーパーは全体的によかったですかね。去年はデータも少なかったですし、言っても160キロ投げるピッチャーには(バッターは)大体まっすぐをケアしないといけないので。そういう傾向、まっすぐ(ストレート)に張って、スイーパーに対応していくというパターン、特に右バッターはというのが多かったですけど。

ことしに関してはやっぱり割り切っているバッター(ストレートを捨ててスイーパーにヤマを張る)が多いのかなと見ていたので、状況によっては変化球をケアして、まっすぐはもう見逃していいっていう感じの雰囲気を出してくるバッターがけっこう多かったので、そこら辺の違いはありましたね」
Q.それだけに、球種の割合もあれだけスイーパーが増えていった(シーズン最初の5登板でおよそ50%)という感じですか?
「とにかくスイーパーに関しては、ねらわれていてもそこまで、特に右バッターに関してはカウントにもよるんですけど、常に強振してくる感じはなかったので。1、2か月くらいしてホームランを。それこそ強振してくるようなスイングをしてくる、思いっきり(ヤマを)張ってくるというのが目立ってきたので、まっすぐを増やしたりとか。その辺の対応は1試合1試合、様子を見ながら対応していけたのは、よかったのかなとは思いますね」
Q.シーズン中の囲み取材の時「相手のバッターが見たことないような軌道のボールというのをイメージしながら作っていった」という話もされてました。
「そうですね、もう数値で出ているので。どういう軌道で曲がってるとか、例えば平均的なスライダーの曲がりと球速、どのくらいのところで曲がり始めるているか、ある程度ホークアイとかトラックマンとかで全部(数値が)出ているので。そこはもう単純に、あとは自分の感覚ですかね。大体こういうスライダーの曲がりもバッターボックスで(バッターが)どういう感じで見えているというのが分かるので。

あとはどこを、浮力をもうちょっとこのぐらい上げてとか、その代わり横幅がちょっと狭くなったりとか、浮力を落とすから横幅をもっと広くしようとか、そういう感じですね。

ピッチングはデザインみたいな感じと言われているので。どういう形にデザインしていくかは、ピッチングをどういうふうに作っていくかもまた変わってくるのかなと思いますね」
Q.スイーパーだけでもいろいろな種類があったと思うんですけど、その「デザインしていく」という部分。今まさにトレンドというか、メジャーでは普通のことだと思うんですが、デザインしていく作業自体は好きなタイプですか?
「試すのが好きなほうではあるのかなとは思うので。あとは握り一つによって(変化が)だいぶ変わってきたりするので、原因が結果に直接つながっているのがやっぱりおもしろいというか。

バッティングもそうですけどね、そういうのがある種、趣味みたいなところもあると思うので。こうやったらどうなるんだろうなとか、それはやっていて楽しいですよね」
Q.(動画見せながら)私たちは今回、この最新のピッチングマシンを取材したんですが、これもエンジェルスで使っていたんですか?
「使ってました。(屋内のバッティング)ケージの中に。試合中は使えないんですけれどね」

(Q.どういう風な使い方をしていたんですか?)
「主にバッターとしてですね。トラッキングで入ったりするんですけど、打席の中に。僕はあまり好きじゃなかったので、単純に作動している誰かが打っているところを後ろとか横で見ているのがいちばん感覚的にはよかったので。タイミングは合わせているんですけど、本当に打ちにいっているわけではないので、タイミングが遅れやすくなっちゃうというのがあるので。僕は打席には入らずに、ちょっと離れて見るというのが、使い道としてはやってましたね」

(Q.人が打っているのを見る?)
「とか、入ってなくても単純にピッチング練習を見ているみたいな感じですかね」

(Q.ピッチャーの自分を出して見るということはあったんですか?)
「1回見ましたね」

(Q.自分がどういうボールになっているのか?という)
「はい。でも、大体平均値からどれくらいズレているのかというのが打ちづらさに関わってくるので。それさえ把握していれば、ある程度、むしろ実戦の中でどういうふうに見えているのかというのが、ほかのピッチャーの感じと照らし合わせるのが僕的には好きかなと思います」
Q.ことし44本のホームランを打った中で、高めのボールをかなり打ち返していたのが印象的でした。5月30日のホワイトソックス戦で、ジオリト投手から打ったホームランというのが、その最初の象徴的なホームランだったと思うんですが、次の日にも高めのボールを捉えてホームランを2本打ちました。あの時のこと、覚えていますか?手応えとして。
「でもその日がいちばん、変わるきっかけというか、印象には残っていますかね。技術的なコツみたいなものをつかむ時って、けっこう一瞬で変わるものだと思っているので。

そこにいくまでの積み重ねというのがすごく大事だと思うんですけど、本当にコツをつかむ瞬間というのは、そういう一瞬の時だと思うので、その日はそういう日だったと思います」
Q.そのきっかけがあったからこそ、その後の6月、7月のホームラン量産につながっていったんですか?
「だと思いますね。本当の最後の最後まで出たわけではないので、僕としてはすごくいい感覚を持っていましたけど、フルシーズンでどれくらいの成績が残せるかというのが1つ基準になるので。数か月単位でよかったですけど、もうちょっと先を見たかったとちょっと思ってますね」
Q.もう少しことばにするとしたら、どういうコツだったんでしょうか?
「距離感だったりとか、来るボールに入っていく感覚だったりとか、自分のスイングの軌道だったりとか、構えだったりとか。1番は構えがしっくり来ていないと何やってもダメだと思っているので、1番はそこですかね。

ひらめきというか、何個も何個も試していって「これだ」となることがたまにあるので。それは野球を始めてから、最初のほうが多いじゃないですか、どう考えても。これは確実に正解だなというか、こうやってやれば打てるんだなという感覚みたいなものをつかむ作業は、野球を始めてから最初の2、3年くらいの間が1番多いと思うので。

長くなればなるほど、今とかね、うまくなればなるほど、そういう感覚に出会えるチャンスは少なくなってくるんですけど。今でも、年に何回かあるんじゃないかなと思うんですけど」
Q.去年、ツーシームを投げ始めた時にも言っていましたけれど、実戦の場面でなければ試せないものですか?
「恐らくこうだろう、恐らくこれが限りなく正解なんだろうなというものを練習でつかんだとしても、本当に正解なのかどうなのかというのは、それこそ試合に出ないと分からないし、何百打席と立たないと本当に確実にそれが正解なのか分からなかったりするので。それは試合に出続けないと自信をもって、例えば野球をやっている小学校の選手に対して、これが確実にバッティングの正解ですよと言えないと思います」
Q.ことしの番組で(元チームメートで大リーグ歴代4位の通算703HRの)プーホールズさんにも話を聞いた。大谷さんは「対応力がほかの選手よりも段違いに早いところがすごいんだ」とおっしゃっていたが、ご自分ではどう感じますか?
「そこもトレーニングでできる部分だと思うので。これを実際にやってみて、ものにできるかできないかが、1日でできる子と、10日、1年、10年かかってもできない子ももちろんいるとは思うんですけど。

それはトレーニング次第で感覚のスパンを短くできるとは思っているので、それは野球だけではなくて、小さい頃からそういうトレーニングをすることで、そういうスパンをより短く、これをやりたいなと思った時にすぐスキルを獲得できるようにトレーニングしていくのは、それこそ大きくなればなるほど、そういうのを磨くのも難しくなってくると思うんですけど。なるべく早い段階で、そういうものを身につけることは出来るのかなとは思うので。そういうトレーニングはもちろん大事かなと思います」

(Q.変えることの怖さは全然無いですか?)
「よりもやってみたいなという、試してみたいなというのが上回るんじゃないですかね。それで失敗することも多くありますけど、それは間違っていたんだなと思うだけで、また数年してそれがやりたくなって正解になることももちろんあるので。それは単純に、例えばフィジカルが追いついていない場合だったりとか、やりたいスキルに対してフィジカルが足りていない場合もありますし。

なのでそこは計画性を持って、特にフィジカルに関してはスキルと違って、一瞬で獲得できるものではないので、長いスケジュールの中で自分がどういうふうにフィジカルを鍛えていって、スキルとどういう風に照らし合わせていくかというのが計画性を持たないとできないので。特にフィジカルに関しては時期によって変わってきますし、難しいかなと思います」

疲労とケガ そして右ひじの手術

大谷選手は10勝目をあげた8月9日から12月のドジャース入団会見まで、メディアの取材におよそ4か月応じていなかった。

このため、けがに至った経緯や当時の思いを今回ようやく尋ねることができた。
自身の体の状況について、答えづらいであろう質問にも一つ一つ丁寧に答えてくれた大谷選手。術式については、左手首から取ったけんを移植した上で、ブレースと呼ばれる補強材と生体組織を加えて補強したということで、一概にトミー・ジョン手術とは言えないということだった。
Q.8月3日のマリナーズ戦(投打で出場し、中指のけいれんのため4回でマウンドを降りて無失点。打っては40号ホームラン)の後の囲み取材の時に珍しく大谷さんから「疲労」というワードを聞いた。あの時期の疲労度は、経験したことがないレベルのものだっんでしょうか?
「ことしに関してはピッチクロックがあったので、ちょっとそこが慣れないなというか、出続ける上で疲労がたまりやすくなるかなと感じていたので。そこはもう少し改善する余地があったかなというか、リズムであったりとか、もうちょっとリズムを作りやすい投げ方であったりとかによって多少削れる部分はあるのかなと。それもやらなきゃ分からないことでもあるので、今後の課題の1つなのかなと思ったりしますね」
Q.けいれんが最初に出たのは7月27日のタイガース戦だったと思っているんですが、大谷さんの中ではもっと前から疲れは感じていたんですか?
「だいだい疲れがたまるのはどのシーズンもそのくらい(の時期)じゃないかなとは思うので。そこで休息をはさんで多少慣れる時期が夏場ちょっとあってという。それでまたちょっと疲労が最後、ボンッて来るイメージかなと。毎年の感じだとそういう感じだと思うんですけど」

(Q.休みを選ばずに過ごした理由は、どういう思いから?)
「(チーム内に)ケガ人も多かったですし。それでもまだチャンスがあるシーズンではあったので。みんなもちろんふんばって、補強もして、ここから連勝していけばポストシーズンをねらえる位置にはいたので。落としていい試合はなかったですし、休むという選択肢はあんまり無かったですかね、頭の中に」

(Q.タイガース戦のダブルヘッダーの前日に、チームもトレードで選手を獲得しました)
「士気は高かったともちろん思いますね。1年目からやってきて、なかなか7月終わりとかに補強する側ではなかったので、今までは。それはみんな士気が高かったんじゃないかなと思いますけど、あとはトラウト選手がどのタイミングで復帰できるのかちょっと分からない、僕らチームメイトも分からなかったので。あとはトラウト選手が戻ってきて、万全になればいけるんじゃないかなと思っていたんですけど、なかなかうまくいかなかったなという感じでしたね」

(Q.トラウト選手が帰ってくるまで、大黒柱の自分がチームを支えていかないといけないと?)
「主力ではもちろんあるので。ただできることは変わらないですし、本当に打席に集中してやれることをやるしかないですし。トラウト選手が早く戻ってこられるように(トラウト選手自身が)多少無理をしながら復帰した部分もあるので、みんながそういう感じだったのかなとは思います」
Q.そうした中で、8月23日のレッズ戦で右ひじじん帯を損傷し、2回で急きょマウンドを降りました。けがをした瞬間は?
「そうですね、激痛みたいなものではないので。前回けがしている箇所と同一の部分でもないですし、痛みの感覚が違ったので。最初は前腕の、何だろうな、例えば肉離れだったりとか、そういう感じなのかなという感覚だったので。そのときは全然、MRIを撮るまでは分からなかったですね

(Q.マウンドを降りた瞬間、そこでもう今シーズン投げられないとまでは思ってなかったという感じですか?)
「あー、でも何だろうな。100%で投げられてはいなかったので。その時、そのイニングに関しては。なので変だなと思いましたけど、本当に病院に行って検査するまではどういう感じなのかは分からなかったですね。どういう症状というか、ケースなのかは分からなかったですね」

(Q.その試合のブルペンとかでも予兆もなく?)
「無かったですね。もちろん疲労とかはね、やっていればたまってくるものなので。そういうものは感じてましたけど(予兆は)無かったですかね。

たぶん手術をしなくても感覚的には、93、4マイル(150キロ前後)くらいだったら普通に投げられる感じだったので、もちろんそれくらいは投げられる感覚でしたけど、たぶん100マイル(160.9キロ)とかね、それ以上を超える球速に耐えられるかといったら、たぶん耐えられなかったかなと思うので、手術の決断をしたという感じですかね
Q.2018年に右ひじの手術を決めた時も同じことをおっしゃってました。今回も、100%の自分に戻るために手術を決断したということですか?
「というよりまあ、何だろうな。自分が思い切りパフォーマンスを出せる感覚がないと、単純にうまくもなれないし、自分が納得しないので。ごまかしながら投げてたとしても、恐らくまあ、おもしろくないんだろうなというのはあるので。まだ時間もありますし(手術を)やってしまったほうが、もちろん後々、いいんだろうなという感じでしたね」

(Q.2018年のじん帯損傷の時は、1週間くらい引きこもっていたとおっしゃってましたが、今回はどういう風に過ごしていたんですか?)
「今回は(手術を)やるとなった時からすぐ手術だったので。前回は手術が決まってから、ちょっと間があいていたので。今回はどのタイミングで手術するというのがちょっと分からなかったというか、やるとなってからもうすぐ手術だったので。なのであんまり考える必要というか、暇が無かったというのと、あとはどういうスケジュールで進んでいくか、というのが1回目で分かっていたので。あんまり焦ることなくというか、本当に(術後)あのタイミングでかゆくなり始めて、かゆくて寝られないのは嫌だなとか(笑)。それくらいの感じしかなかったですね」

(Q.落ち込むというメンタルにはいかなかったということですか?)
「いや、落ち込むは落ち込みますけど、いつ手術するかとか、どういう手術なのかというのも分からないというか。一概にトミー・ジョン手術ではない手術なので、分かんないというのがいちばんですかね。なので、あまりチームメートに伝えることも無かったというか、できないですし。本当にやるとなってすぐに手術した感じでしたかね」
Q.いつ手術やるというのが分からなかったというのは、ひじのケガが分かった後も、脇腹を痛めるまではバッターで出続けたからですよね?
「そうですね。もちろん脇腹もケガしなかったら恐らく最後まで出る。それか、もしくは本当にチームの状況を見ながら。その時はポストシーズンの可能性がちょっとあったので、本当にダメだとなった時に初めて(手術を)やろうかなと相談していた段階だったので。なのでメディアに言えることも無かったですし、本当にケガして、じゃあいつやるんだとなって、すぐやると感じだったので。すぐ話が進んでいった感じですかね、あの時は」

(Q.バッターで出続けたことにも驚いたんですが、そこは自然な流れで決めていたんですか?)
「そうですね。まだ可能性がもちろんあったというのと、あとは来年の2024年の開幕スケジュールが決まっていて。どこまでにどれくらいのリハビリをして、どういうふうに回復していけば開幕も間に合うのかというのも、お医者さんとうちのエージェント(代理人)と逆算して決めていった時に、シーズン終了後(の手術)でも間に合うだろうという判断だったので。最後までもちろん、エンジェルスで出て、本当に(ポストシーズンの)チャンスが無くなった時に、じゃあ(出るのを)やめてある程度スケジュールに余裕を持たせて手術しますという感じでしたね」

(Q.術後に左手首にテープを貼っていた部分は、切ったんですか?)
「(今回は)左から(けんを)取ってます」
《※2018年のトミー・ジョン手術では、右手首からけんをとって移植した》

(Q.ブレース(補強材)も入れて?)
「はい、たぶん。ブレースと生体組織みたいな。よく分かんないです、僕も」
Q.大谷選手の主治医と同じく、トミー・ジョン手術の権威と呼ばれるマイスター医師にも今回取材して「スイーパーという球種自体がひじにとってはすごく負担がある」という話も聞きました。ピッチデザインをやる中では、ひじのケガは不可避、宿命みたいなものなんでしょうか?
「僕の感覚としてはいちばんは球速なので。ケガした後でも、93、94マイル(150キロ前後)くらいだったら普通に投げられるので。今までだと出ても93、4マイルという領域だったのが(現代野球では)普通に93、4マイルが平均で投げられて100マイル(160.9キロ)、101、2マイル(164キロ前後)を投げるピッチャーがどんどん増えてきたので。

スイーパーに関しても、例えば、78マイル(125キロ)くらいで投げるスイーパーと85マイル(136キロ)以上に投げるスイーパーとでは、全く感覚が違うので。それはもうケガして初めて分かりますけど。

やっぱり球速が上がることはそれだけトルク(力)がかかる、ひじにかかるトルク(力)も大きくなるので、投げ方うんぬんは多少軽減はできると思うんですけど、いちばんはやっぱりそこじゃないですかね。あとは本当に腱の強さ、筋の強さというのも、個人によってももちろん違いますし。

もちろんそこにある程度耐えられる選手もいれば、それよりも運動能力が上回ってしまってある程度すぐに切れてしまう選手もいたりすると思うので。僕の感覚ではいちばんは球速の上昇が主な原因かなとはもちろん思いますね」

『ここまで』と『これから』 そして新たな章へ

Q.29歳で10年契約。これから野球人生の後半戦になってくると思いますが、大谷選手としては細く長く続けるという思いより、とにかく1年1年を全力でやっていくという感覚が大きいですか?
「どっちもですかね。ピッチャーとしてはもちろん、2度目の手術なので、恐らくもう1度同じ症状になったら配置転換、ほかの例えば、野手、どこのポジションかわからないですけど、そういうふうになる。もちろんそうですし、もしくはさっき言った93、4マイルのピッチャーとして、対応していく。

ほかのやり方で、結果を残すすべを出していく、という方向、どういう方向になるのかいろいろあると思うんですけど、なるべく自分の最大のパフォーマンスをまずは長く10年、いちばんは10年を必ず続けることが目標でありますけど、それは誰ももちろんそれだけ長く2つやるのはいままでないので、どういうふうになっていくというのは、はっきりということではないですけど、もちろん全力を尽くすのは約束できますし。

バッターとしてはひじはあまり関係ないので、ひざであったり、腰であったりとか、ほかにもっともっと負担のかかってくる場所というのがあるので、そこをまずケアしながら、どの程度できるのか。

さっきも言いましたけど、10年間やるというのがいちばんの目標ですし、まずそこをしっかりクリアしていくためのプランを球団とともに、一緒にお医者さんもそうですけど、ドクターも一緒に考えながら作っていくということですかね」
Q.今後の10年間をどういうふうに過ごしていきたいと思い描いていますか?
「まずはことしですかね、やっぱり。まだチームの本当の一員になれたわけではないと思うので、実際にドジャースタジアムでプレーして活躍して初めてチームの一員になれるんじゃないかなと思うので。まずはことし1年、そういう1年にしたいなと思ってますし。

環境に慣れることもそうですけど、まずはチームの一員になって優勝を目指して頑張りたいなと思いますし、その先にそのあとの9年があると思うので。漠然には描いてますけど、まずはいちばんはことしかなと思ってます。まずはポストシーズンに出ること、その先で勝っていくのが、その次かなと思います」
Q.今回のドジャース移籍で、大谷さんを取り巻く周囲の状況も確実に変わっていくと思います。大谷さんは今、1人の人間としてどんな人でありたいと思ってますか?
「どんな人でありたい?どんな人でありたいかは、これまでとあんまり変わらないかなとは(笑)。

普通に。

おいしいもの食べて野球して、フフフ。

たくさん寝てそれが1番かなとは思うので。

そんなに環境が変わったりとか、変な話、もらうお金が多くなればなるほどやらなきゃいけない責任も、もちろん多くなるし、チームでの立ち位置も変わってくるので。そういう意味での責任は当然大きくなるとは思うので。

ただ、あまり変える必要がないところは無理に変える必要はないと思うので。もちろん自然にいけるところは自然にいきたいなと思ってます」
大谷選手から出た「配置転換」ということば。

もし、もう1度、ひじを手術するような事態に陥れば、今のスタイルの二刀流、つまり先発投手と指名打者で毎日試合に出続けることは難しくなるという意味だと理解した。

同時に、大谷選手が去年のインタビューで話していたことを思い出した。それは「どんな形の二刀流のスタイルがあってもいい」と話していたこと。

その時、大谷選手が挙げた具体例が2つあった。
▽「野手で出ていてクローザー(抑え)で出るタイプ」

▽「ファーストを守ったあとにリリーフで投げて、またファーストに戻るタイプ」
前者はことしのWBCの決勝で実践した。では、もしかしたら後者のタイプも、今後の野球人生で実践する日が来るのかもしれない。

少なくとも、大谷選手の頭の中には将来の選択肢の1つとしてあるのだろうと感じた。

二刀流の挑戦がいかに過酷であり、いかに偉大であるかが改めて示された2023年。

そして今、大谷翔平は、大谷翔平であり続けながら、新たな章へと踏み出していく。

(12月24日「NHKスペシャル」で放送)
アメリカ総局 記者
山本 脩太
2010年入局
スポーツニュース部でスキー、ラグビー、陸上などを担当
2020年8月から現所属