没後50年 川端康成の手紙に迫る

没後50年 川端康成の手紙に迫る
日本で初めてノーベル文学賞を受賞した作家の川端康成。実は、小説だけでなく、多くの手紙を書いていたことが分かっています。ことしに入ってから、親友で作家の横光利一に宛てた手紙も新たに確認されています。手紙を書く時間をとても大切にしていたという川端康成が、どんな手紙を書き、どんな思いを込めていたのか。川端康成の手紙に迫ります。

川端の手紙の特徴は?

ことしで没後50年になる川端康成。
「雪国」「伊豆の踊子」「古都」などの作品で親しまれています。

その川端康成が書いたという手紙がこれまでに数多く見つかっていて、1冊の書籍にもまとめられているほどなんです。

近代文学に詳しい、早稲田大学名誉教授の中島国彦さんに、詳しく話を伺いました。
中島さん
「戦時中の話ですが、川端康成は小説を書くよりも手紙を書く時間のほうがはるかに長くて『手紙を書いて夜が明けた』ということも日記の中に書いています」
では誰に、どんな手紙を書いていたのでしょうか?
中島さんによりますと、家族や友人の文学者、それに、小説家志望の人たちへの手紙などが見つかっているそうです。
中島さん
「家族に宛てたものと、自分を慕ってくる文学者に宛てたものでは、感じが違いますが、手紙に込める心が伝わるような文字遣いや言葉遣いが、川端さんの手紙としては最大の特徴ではないかと思います」

川端が親友に宛てた手紙

その代表が、親友で作家の横光利一に宛てた手紙だといいます。
ことし新たに確認された手紙は、巻紙に記され、毛筆で1字1字、丹念に書かれています。
封筒の消印や記された日付から、1947年8月13日に書かれたもので、川端から横光に宛てた現存で最後の手紙とみられています。
そこには、こうつづられています。
血圧を低くするオゾン療法ある
一般内科医も認むるところ一つ
試みる御気持(おきもち)無く候(そうろう)や
横光を悩ませていた体の凝りに効く療法を勧めるなど、体調を崩していた親友を気遣う様子がうかがえます。
中島さん
「ずっと長い友達であっても時には親しく、時には本当に親身に相手を思っています。これが手紙の中で表れているんです」

心を込めて紡いだ弔辞

この手紙の4か月あまりあとに横光は亡くなります。
川端は親友のために、心を込めて弔辞をしたためました。
横光君

君を敬慕し哀惜する人々は、君のなきがらを前にして僕に長生きせよと言ふ。

僕は日本の山河を魂として君の後を生きてゆく。

(川端から横光への弔辞より)
深い悲しみの中、友の分も生きていこうという強い決意が表れています。
この弔辞の準備のために、体がやつれるほどだったといいます。
中島さん
この言葉を出したい、この言葉を伝えたい。川端さんはその人の作品をずっと読み返して、その人とのつながりを振り返って、数日の間の自分の思いのたけを弔辞に込めるんです」

若手文学者に宛てた手紙

さらに川端は、「自分の作品を読んでほしい」と手紙を送ってきた若手文学者に対しても、丁寧に返事を書いていました。
その1人が、川端より15歳年下の北條民雄でした。
デビュー前の北條の作品を読んだ川端は、手紙で背中を押します。
立派なものです、批評は申上げるまでもありません。

この心を成長させて行けば、第一流の文章になります。

(川端から北條への手紙より)
中島さん
「こんなふうにもし川端から手紙をもらったら、どれだけ北條民雄がうれしかったかというのをうかがわせる手紙です。そのやりとりを見ていると心が温まります」
のちに、北條民雄の代表作となる「いのちの初夜」の題名も、川端が手紙で提案したものだそうです。
23歳の若さで亡くなった北條との手紙のやりとりは90通にものぼり、若手作家の支えとなっていたといいます。

最後に、川端康成から学べる手紙のテクニックを聞いてみました。
中島さん
「自分がこうだということを一方的に書くのではなく、本当に読んでくれる人のことを思うというか、その人のために書くこと。書かれた文字、手紙の文字ひとつひとつがエネルギーを持って残り、力というものを感じさせるのではないかと思います」

問題に挑戦!

今回は、手紙に関連して、年賀状に関する入試問題です。
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