証言 当事者たちの声あのとき連絡していれば~結婚記念日に妻を亡くした警察官は今

2022年11月18日事故

出会ったのは仕事の合間に立ち寄る行きつけの喫茶店。

結婚して3人の子どもにも恵まれました。

刑事として昼夜関係なく仕事に没頭していた12年前。

最愛の妻は、交通事故で亡くなりました。

その日は私たちの12年目の結婚記念日でした。

自分のような悲しい思いを誰にもしてほしくない。

きょうも私は横断歩道に立ち続けています。

(広島放送局記者 相田悠真)

妻は 横断歩道で…

平日の昼休み。

私は職場に近い場所で、ほぼ毎日立ち続けています。

妻のかおりは12年前、図書館に本を返しに行く途中、横断歩道を渡っていたときに、車にはねられて亡くなりました。

横断歩道のすぐ近くに警察官が立っていたら、ドライバーはもっと気を付けて運転してくれるのではないか。

そう考え、昼休みは短時間で食事を済ませ、横断歩道に立つようになりました。

人生を台無しにされる思いを、もう誰にもしてほしくないのです。

突然失った かけがえのない存在

かおりと出会ったのは、1995年。

警察官になって3年目のときです。

仕事の合間に立ち寄る、行きつけの喫茶店で働いていました。

おとなしく、礼儀正しい。

そんな第一印象でした。

初めて一緒に映画を見に行ったとき、不思議と「この人と結婚するんだ」と思ったんです。

3年間の交際を経て結婚。

長女、長男、次女の3人の子どもにも恵まれました。

自分のことよりも、家族のことを第一に考えて尽くしてくれる。

そんなかけがえのない存在でした。

聞き込み中にかかってきた1本の電話

12年前、2010年のあの日。

私は事件の捜査の応援で島根県浜田市に出張していました。

目撃者はいないか。

犯人逮捕につながる証拠はないか。

聞き込みを続けていたそのとき、同僚から1本の電話がかかってきました。

「奥さんが事故に遭ったらしい」

電話を受けたときは、ちょっとした接触事故か、ひどくても骨折ぐらいだろうと考え「あとにしてくれ」とだけ返事をして、少したってから電話することにしました。

警察官として数えきれないほどの事件や事故を目の当たりにするうち、交通事故が重大だと考えることができなくなってしまっていたのだと、今は思います。

しばらくすると、同僚の警察官が呼びに来ました。

危ないらしい

その瞬間、手が震え始めたのを覚えています。

最悪の結果を想像せずにはいられない一方で、それを打ち消す自分もいました。

「まさか、まさか、まさか」

震える手から、携帯電話が床にすべり落ちていきました。

それは私の誕生日、そして結婚記念日だった

島根県浜田市から広島市までは車で2時間ほど。

妻の容体がはっきりとはわからない中、同僚が運転する車に乗り込みました。

このときのことを、私はずっと後悔しています。

妻の携帯や病院に電話をかけようとしなかったのです。

仕事の経験上、病院は警察官に容体を教えてくれない。

その思いにとらわれ、家族として当然すべき行動ができていませんでした。

浜田市を出発してから1時間ほどたったあと、はっと気付いたように妻の携帯に電話をかけると、搬送先の病院の看護師が出ました。

「ようやく連絡が取れました」と言われ、意識不明の重体だと告げられました。

私の連絡が遅れたため、家族の同意がないとして手術はまだ行われていなかったのです。

病院に駆けつけると、妻は包帯で全身を巻かれた状態で手術室から出て来るところでした。

呆然と立ち尽くしながら、涙があふれて止まりませんでした。

「かおり、かおり」

そう声をかけると、妻は起き上がり声を発しようとしたように見えました。

しかし3週間後、息を引き取りました。

36歳の若さでした。

その日は私の誕生日、そして、2人の結婚記念日でした。

亡き妻との約束

取材に応じてくれた広島中央警察署地域課の田中雅史さん(49)です。

田中雅史さん

「もっと早く病院に連絡をしていれば。もっと家のことを考えていれば。もっとかおりと過ごす時間を作っていれば。考え始めると、後悔は消えません」

妻を突然失った悲しみに打ちひしがれた田中さんは、さらにその後の生活への不安にも駆られたといいます。

「家のことはかおりに任せきった状態で、ご飯も弁当も作ったことがない。そういったことがはたしてできるか、いろいろな不安がありました」

平日はほとんど家で過ごさず、休日はずっと寝ている。

そんな生活は一変しました。

田中さんは病院のベッドの脇で、亡くなる直前のかおりさんにひとつの約束をしました。

「子どもたちを立派に育て、絶対に恥をかかせない」

かおりさんには聞こえていなかったかもしれませんが、固く誓いました。

これまでほとんどやったことがなかった家事を担うことになりましたが、いちばん苦手だったのが料理です。

幼稚園に通っていた次女にはお弁当を持たせましたが、友達に「お弁当ぐちゃぐちゃ」とばかにされ、次女は全然手をつけず、泣いて帰ってきたこともありました。

子どもに恥をかかせないと約束したのに、全然約束を守ることができていない。

田中さんは覚悟を決め、刑事として10年目の脂が乗り切った時期に、勤務時間が決まっている交番勤務を選びました。

料理の勉強も、独学で始めました。

次女に喜んでもらえるよう、早いときには午前2時に起きて、“キャラ弁”をいろいろ作ったといいます。

キャラ弁もそのうち幼稚園で評判になり、先生も話題にしてくれました。

事故当時、小学3年生だった長男の尚輝さんには、男の子はしっかりしないといけないと思って、特に厳しく接しました。

長男の尚輝さんと

母親を亡くして甘えたい盛りだった尚輝さんとは心の距離が徐々に離れ、中学生になると殴り合いのけんかをしたこともありました。

1人での子育てはうまくいかないことの連続でしたが、周囲にも助けられながら、3人の子どもを育て上げました。

「とにかく子どもたちだけには恥をかかせない。いつか自分がなしえなかった幸せを、平凡でいいからつかんでもらいたいという思いで、きょうまで来ました」

父の背中を追って

そう話す田中さんにとって、思いがけない出来事もありました。

道を外さないようにと厳しく接してきたため、ギクシャクした関係が続いていた尚輝さん。

親子の会話があまりなかった高校3年生の夏に突然、こう伝えられました。

警察官になろうと思う

尚輝さんは会社に就職することも考えましたが、父親の働く姿を見て、警察官を目指すことを決めたといいます。

警察官になって2年がたった尚輝さん。

父親と同じように交番に勤務し、徐々に親子の会話も増えてきました。

尚輝さん

長男の尚輝さん
「警察官の仕事についてみると、親父はすごかったんだなと思いますね。仕事するだけで精一杯なのに、これで子育てもやるのかと思うと自分にはできないですね。同じ仕事をしているということでもつながりを感じるので、警察官になってよかったと思います」

「うれしい反面、尚輝に警察官ができるのかと思いました。厳しい仕事だとわかっているので、心配はつきないですよ」と話す田中さんは、どこかうれしそうでした。

自分だからこそ伝えられること

田中さんは今も交番勤務をしながら、交通量や人通りが増える昼休みにほぼ毎日、近くの横断歩道に立っています。

交通事故は、大切な人の命を奪ってしまうだけでない。

加害者、被害者だけでなく、その家族や関係する人たちの人生を狂わせてしまうこともある。

だからドライバーには、決して事故を起こさないように運転してほしい。

歩行者や自転車に乗った人も、細心の注意を払ってほしい。

警察官が横断歩道で目を光らせることで、そうした意識を高めてもらうのが狙いです。

「妻を亡くした自分だからこそ伝えられる」

田中さんはきょうも横断歩道に立ち続けています。

取材後記

去年4月に記者になった私は、取材で向かう広島県警察本部の前の横断歩道にほぼ毎日立っている田中さんのことが気になり、思い切って声をかけました。

以来、田中さんを見かけるたびに話しかけ、その後、横断歩道に立ち続ける理由とその思いを聞くことができました。

「交通事故の遺族の1人として何かもっとできることはないか。そう考え続けて出した“答え”です」そう田中さんは話していました。

妻のかおりさんについて話すとき、田中さんの目からは涙があふれて止まらず、時間がどれだけたっても、交通事故で家族を失った悲しみは癒えないことを痛感させられました。

全国のニュースで田中さんについて放送したあと、田中さんのもとに1通の手紙とりんごが届きました。

差出人は長野県の夫婦。

放送の半年前に、45歳の息子が横断歩道で事故に遭い大けがをしたといいます。

手紙にはニュースを2人で涙ながらに見たことや、車を運転することのおそろしさに加えて、「たった1日でいいんです。交通事故『ゼロ』という日がほしいのです」と、思いがつづられていました。

大切な人の命を奪う交通事故をなくしたい。

田中さんの願いが多くの人に伝わってほしいと思います。

  • 広島放送局 記者 相田悠真 2021年入局
    主に警察・司法を担当
    大学まで野球部に所属
    趣味は将棋