自分を貫けたことを誇りに思いながらやめたい

大久保嘉人

サッカー

サッカー元日本代表のフォワード、大久保嘉人(39)がユニフォームを脱ぐ決断をした。2021年11月22日に行われた引退の記者会見。
大久保は、みずからが“速攻”と表現したように、席に着くやいなや、あふれ出した涙を、妻から手渡されていたピンク色のハンカチで拭いながら、20年の現役生活を振り返った。

「本当に最高のサッカー人生だった」

大久保は2001年に長崎県の国見高校からセレッソ大阪に加入。1年目から頭角を現し、3年目には日本選手最多の16得点をあげ、日本代表にも選出された。

その後、海外でのプレーなども経て、研さんを重ね、Jリーグ復帰後は、川崎フロンターレで3年連続の得点王に輝くなど、J1で積み上げたゴールの数は歴代最多の191を数える。

“ゴールへの嗅覚が優れている”などと形容されることもあったが、引退会見では 「緻密な計算をしていた」とゴール量産の秘密を明かした。

「常に逆算しながらプレーをしていた。フォワードのポジションから下がってプレーもしたが、ただボールに触りたいからではなく、自分にディフェンスがついてくれば、スペースが空き、ほかの選手に得点をするチャンスが増えると思いながらやっていた。野性的とも言われていたけど、実は考えていたと今だから言います」

その一方で、褒められるプレーばかりではなかったという点も、大久保を語るうえで忘れてはならない。
ピッチでは、感情を前面に出し、納得がいかないことに対しては、時に声を荒げ、手が出てしまうこともあった。もらったイエローカードは、J1で歴代最多となる通算104枚。退場処分も12回受けた。

そのやり方では長くサッカーはできないと周りから批判されたこともあったというが、大久保は自分のスタイルを曲げず、20年間戦い続けた。

「自分のために言っているのではなく、相手のため、チームのために、のちのち響くと思っていた。伝えないとわからないこともある。そういう気持ちがあって言葉にしていた。感情を出して、自分にもエネルギーを出すことができていたので、やってよかったと今になっても悔いはない。そういう選手もいなかったので、自分ではそういう選手でありたいと思っていた。やんちゃと言われたことに関しては、それが自分らしいと思っていた。いろいろ言われたけど、何と言われても自分を貫けたことを誇りに思いながらやめたい」

自分のスタイルを貫き通すことは年を重ねれば重ねるほど難しくなる。
それをやり遂げた“やんちゃなストライカー”大久保嘉人。
引退会見で、みずからその歩みを確かめたとき、涙は消え、晴れやかな表情へと変わっていた。

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