妻よ 息子よ どこに… 鳴らし続けた妻の笛【被災地の声 31日】

笛は妻が残していたものでした。

その笛を何度も鳴らしました。

自宅の前で何度も。

けれど、反応はありませんでした。

「助けてあげられなくて、ごめんなさい」

輪島市の男性は涙を流しながら、家族への思いを語ってくれました。

輪島市渋田町 家族4人で集まろうと

話を聞かせてくれたのは輪島市渋田町の出口彌祐(やすけ)さん(77)です。

出口彌祐さん

出口さんは妻・正子さん(74)と一緒に、毎年の正月、2人の息子が帰ってくるのを楽しみにしていました。

長男の博文さん(49)は年に2回、次男は年1回、お正月のときだけ。

それが家族4人の時間でした。

「妻もなんかかんか文句言いながら、何しようかとか言って、いろいろ楽しみにしていつも待っていました」

地震があった日、正子さんは夕食の準備をしていたといいます。

出口さん
「もう田舎料理ですよ。子どもらが小さい時から食べていたようなものばっかりですけど、素朴なものですけれども、やっぱり“おふくろの味”と言うんですか、それを楽しみにしながらくるんだろうと思いますけどね」

出口さんは妻と長男を自宅に残し、市内のバス停まで帰省してきた次男を車で迎えに行きました。

そこから戻る時でした。

大きな揺れに襲われました。

出口さんは自宅にいた正子さんと博文さんの無事を確認しようとしましたが、連絡が取れません。

道路は土砂で寸断。次男と歩いて自宅に向かったということです。

妻が残した笛が

倒壊する建物の間や田んぼを通り抜けてようやくたどりついた自宅。

その姿は裏山の土砂崩れによって、原形をとどめないほどに押しつぶされていました。

出口さんは2人が生きていることを信じ、手に持っていた笛を吹き鳴らしたといいます。それは妻の正子さんが「何かあったときに、助けを求めるために使う」と言って、車の中に備えていたものでした。

緊急時に鳴らすため正子さんが残した笛

何度鳴らしても反応はありません。

それでも諦められず、笛を鳴らしては手がかりを見つけるため、付近を歩き回るしかなかったということです。

「ぼう然とするばかりで、何もできなくて悔しかった」

出口さんは当時の状況を振り返ります。

誕生日が過ぎても…

その後も道路の寸断で重機が使えずに捜索は難航。

1月16日になって、妻と長男とみられる2人が遺体で発見されました。

身元はなかなかわからず、1月29日に取材した際、出口さんはこう話していました。

出口さん
「もうそろそろ2週間ぐらいになるので、もうすぐかなぁとは思っていて、今週中にはあるんじゃないかなと思ってるんですけど…私はわかんないんで、もっと長引くのか、どうなのか、待ってるところです」

しかし、その後、遺体は2人であることが確認されたということです(※2月1日追記)。

妻の正子さん

妻の正子さんは1月11日が75歳になる誕生日でした。

「お正月は妻の作る料理を楽しみに毎年必ず、家族4人で集まっていた。おいしいものを食べさせてもらったおかげでいままで健康でいられた。50年つきあってきてけんかもしたことないし幸せでした」

ごめんねと言うしかないね…助けられなくてごめんなさい。だけど、今までありがとう、と言うしかない

出口さんは目元を何度も拭っていました。

「そろそろ田舎に帰ってこないか」

長男の博文さんのことも話してくれました。

「おとなしく優しい子で、よく顔が私とそっくりだと言われていました」

長男の博文さん

長男の博文さんは“団塊の世代”の子どもの世代。

大みそかの日には一緒にお酒を飲みながら、これからのことについて話していました。

出口さん
「私はもう歳なんで『そろそろ田舎に帰ってこいよ』『帰ってきたら仕事いっぱいあるから』と冗談半分に言ってたんだけれども、『いやーまだなぁ』といって、本人は今の仕事はやりがい持ってやっているような雰囲気でした。『父ちゃん、1000万円くれたら俺も帰ってきてもいいよ』なんて、冗談言っていましたね」

インタビューの途中から、出口さんは涙を流したままでした。

博文さんのことを聞くと、途中で言葉を詰まらせながら、こう答えてくれました。

「人生100年ですから、長男もこれからだもんね。能登に帰ってきて一緒に何かやれればよかったかなぁとは思いますね。会社に定年もあるんだから、いずれは帰ってくるもんだと思ってますからね。一緒に人生を楽しめればよかったんだけどね…仕方ないですね…」

珠洲市蛸島町 15分前まで一緒にいた義理の兄が

一方、石川県珠洲市で、地震が発生する15分ほど前まで一緒にいた義理の兄を家屋の倒壊で亡くした男性は、当時の状況とつらい胸のうちを話してくれました。

珠洲市蛸島町の漁師、山崎伸次さん(65)は1月1日の午後1時ごろ、新年のあいさつ回りで近所に住む妻の兄、安宅一男(あたか・かずお)さん(69)の自宅を訪れました。

訪れた住宅には当時、義理の兄の安宅さんのほか、安宅さんの母親、それに山崎さんの孫など親族およそ10人がいたということです。

山崎さんが安宅さんの家を出た約15分後、地震が発生。

山崎さんにけがはなく、家族を避難させたり船の安全を確保したりして、翌朝の7時半ごろ、安宅さんの家を再び訪れたところ、1階部分がつぶれて倒壊していたということです。

安宅一男さん “気遣いを欠かさない人”

取り残されている人がいないか声をかけたところ、倒壊した住宅の中にいた安宅さんの母親から返事があり、その後、駆けつけた消防などに救出されました。

しかし、安宅さんは意識がない状態で見つかり、その後、死亡が確認されました。

安宅さんは気遣いを欠かさない人で、山崎さんが去年、新しい漁船を購入した際には大漁旗をプレゼントしてくれたということです。

山崎さん
「物静かでおとなしく、気のいい人だった。本当に紙一重で、あと少し家を出るのが遅れていたら、その場にいた親族は全員死んでいたかもしれない。義兄が守ってくれたと思うしかない」

山崎さんはいま、自宅近くの小学校で家族とともに避難生活を送っています。

「いつ仕事ができるようになるかわからないが、漁が再開すれば町の活気も変わると思うし、残った人たちでがんばるしかない。それまではこの生活を我慢するしかない」

被災された方や支援にあたる方々など、「被災地の声」をまとめた記事はこちらです。