元関脇 寺尾の錣山親方死去 小結 阿炎が師匠の死を悼む

大相撲の元関脇 寺尾の錣山親方が17日夜、60歳で亡くなったことを受けて、弟子の小結 阿炎が「父親のような広い心で守ってくれた。本音を言うと、もう少し見ていて欲しかった」と尊敬する師匠の死を悼みました。
また元小結 豊真将の立田川親方が取材に応じ、錣山を襲名して部屋を継承する方針であることを明かしました。

元関脇 寺尾の錣山親方は心臓に持病を抱えて入院していましたが、17日の未明に病状が急変し、日本相撲協会によりますと、17日夜、うっ血性心不全で亡くなりました。60歳でした。

一夜明けた18日は、午前中から東京 江東区の錣山部屋に元横綱 大乃国の芝田山親方や元関脇 琴ノ若の佐渡ヶ嶽親方など同じ一門の親方衆などが弔問に訪れました。

そして、錣山親方の弟子で小結の阿炎や、部屋付きの親方の元小結 豊真将の立田川親方が弔問を終えた親方衆を玄関先で見送っていました。

報道陣の取材に応じた阿炎は、17日、巡業先の大阪から駆けつけて、最期をみとったということで「鉄人の師匠なら戻ってくるだろうと願ったがかなわなかった。泣くと怒られるので我慢したが、耐えきれなくて朝までぐずぐず泣いてしまった。本当にゆっくり休んでほしい」と話しました。

その上で「親みたいに接してくれてたくさんの愛を頂いた。迷惑ばかりかけたが、それでも父親のような広い心で僕を守ってくれた。本音を言うともう少し見ていて欲しかった」と尊敬する師匠の死を悼みました。

「阿炎」というしこ名は錣山親方が幼少の頃に呼ばれていた愛称が由来で「師匠を超えたいと言っているが、いまだに背中すら見えない。もっともっと大きくならないと。阿炎というしこ名が届くように、頑張っていきたい」と決意を話しました。

立田川親方 錣山を襲名して部屋を継承へ

大相撲の元関脇・寺尾の錣山親方が亡くなったことを受け、元小結 豊真将の立田川親方が取材に応じ、錣山を襲名して部屋を継承する方針であることを明かしました。

部屋付きの親方で元小結 豊真将の立田川親方は18日夕方、取材に応じ「今後、私が部屋を引き継いでいけるように動いている」としたうえで、錣山の年寄名跡を継ぐのかという問いかけに対しては「そういう方向で話を進めている」と答え、現在の錣山部屋を継承する方針を明らかにしました。

決断の理由について、立田川親方は「師匠の最期の顔を見たときに、自分の胸から沸き上がる思いがあった。弟子たちのことを考えると、部屋がなくなるとは思わせたくなかった。師匠の教えを引き継いで、若い弟子たちに教えていくのが僕の役目だと感じた」とひと言ずつかみしめるように話していました。

八角理事長「相撲道の継承・発展に尽力された」

日本相撲協会の八角理事長は同じ昭和38年生まれの「花のサンパチ組」として活躍した錣山親方が亡くなったことを受け、コメントを出しました。

この中で八角理事長は「突然の訃報に接し、ただただ驚いております。『花のサンパチ組』として出世を競い合ってきました。回転のよい突っ張りからの真っ向勝負で、何度か苦杯をなめたこともありました」と現役時代をしのびました。

その上で「現役を長く務められ、師匠としても、関脇 阿炎、小結 豊真将など多くの力士を育て、相撲道の継承と発展に尽力されました。まだ60歳と若く、阿炎をはじめとする部屋の力士の成長を見届けたかったかと存じます。生前の功績をしのび、謹んで御冥福をお祈り申し上げます」としています。

元横綱 大乃国の芝田山親方「早すぎる死で残念」

錣山親方と同学年で、現役時代にしのぎを削った元横綱 大乃国の芝田山親方は「調子が悪いという話は聞いていた。おかみさんから『休職してご迷惑をかけてすみません』という手紙をもらって、自分からも『1日も早い回復を祈っています』と送ったばかりだった。早すぎる死で残念だ」と悼みました。

その上で「細身で動きがよく、鋭い立ち合いからの突っ張りが彼の特徴だった。小気味のいい動きで攻められても土俵際で軽快にさばく。同年代だけに昔の懐かしい画像が目に浮かぶ」と現役当時をしのんでいました。

元大関 霧島の陸奥親方「まだ信じられない」

現役時代、錣山親方と同じ井筒部屋に所属し、兄弟子だった元大関 霧島の陸奥親方は「きのう話は聞いた。まだ信じられない。一緒に頑張ってきた仲だから」とことば少なに話していました。

元小結 豊真将の立田川親方「最高の師匠だった」

錣山親方が育てた最初の関取にあたる元小結 豊真将の立田川親方は「最高の師匠だった。きのう師匠の顔を見ながら、昔のことが思い出された。新弟子検査のころ、同期生が80人くらいいて不安だったが、師匠から『おまえはこの中でいちばん弱いかもしれない。でも、おれと2人でしっかり頑張って、みんな抜いて一番上に立とう』と話してもらったことが印象に残っている」と時折、声をつまらせながら話していました。

その上で「師匠には気迫や相撲への情熱を教えてもらった。教えてもらったことを弟子たちに伝えていきたい」と話していました。