“あなたが生まれてきてくれて幸せだった”
携帯電話には、あの日、母が送ってくれたメッセージが残されています。母は自宅のクローゼットに隠れながらこのメッセージを送信。その直後、襲ってきたイスラム組織ハマスのメンバーに見つかり、帰らぬ人となりました。
母を殺したハマスが憎い。そんな感情が何度となくこみ上げてきます。
でも、そんな時、母がいつも語っていたことばが聞こえてくるんです。
「戦争が平和をもたらすことはないよ」って。
(現地取材班 記者 山本健人/田村銀河)
“家の中に来た” “息ができない” 母の最期の記録
ヨナタンさん
「母親を殺される光景を目の当たりにしたかのようでした。今なお10月7日を生きているような気分です」
イスラエルのテルアビブで暮らすヨナタン・ザイゲンさんは、こう言いながら、携帯電話に残されたメッセージを見せてくれました。
そこには、自宅が襲われた母親のビビアン・シルバーさんとの最後のやりとりが残されていました。
10月7日、ハマスはイスラエル側に越境し各地を襲撃しました。
母はクローゼットに隠れながらメッセージを送っていたと言います。
(以下、母親ビビアンさんとのメッセージやりとり)
(10:39・ビビアンさん)
“助けを呼ぶ声が聞こえる。殺りくが起きているのかもしれない。
ジョークを言っている場合ではなくなってきた。”
“家族のみんなのことを愛している。あなたが生まれてきてくれて、私は幸せだった”
(10:40・ヨナタンさん)
“僕もお母さんを愛してるよ”
(10:41・ビビアンさん)
“ハマスが家の中に入ってきたみたい”
(10:45・ヨナタンさん)
“お母さん”
(10:54・ビビアンさん)
“私はここにいる。ハマスが家の奥にまで来ているようだ。息をするのが怖い”
(10:54・ヨナタンさん)
“なんて言ったらいいのか、わからないよ。心はお母さんのそばにいるから”
(10:54・ビビアンさん)
“あなたの気持ちは届いている”
これがビビアンさんが息子に送った最後のメッセージとなりました。
もともとこの日は、ヨナタンさんが3人の子どもたちを連れて、1人で暮らすビビアンさんに会いに行く予定でした。大好きな孫や息子に会うという日常が奪われた瞬間でした。
襲撃からしばらくたって、ヨナタンさんがビビアンさんの自宅を訪れると、家が完全に焼き払われていました。
地元メディアはその後、ビビアンさんが住む町ベエリでは、ハマスによる襲撃で少なくとも85人の住民が殺害され、ビビアンさんを含む20人以上の消息がわからなくなったと伝えました。
当初、ビビアンさんもハマスに人質にとられ、ガザ地区にいるのではないかと考えられていました。
子どもたちに対しいつも笑顔を絶やさない心優しい母親だったというビビアンさん。
実はこれまで平和活動家として、イスラエルとパレスチナの和平を訴え続けてきた人でした。
カナダで生まれ育ったユダヤ人のビビアンさんは、およそ50年前に学生としてイスラエルを訪れた際、イスラエルとパレスチナの人たちが互いに憎しみ合っていることに心を痛め、和平を呼びかける運動に携わるようになりました。
その後、まもなくカナダから移住し、イスラエル国籍を取得。結婚し、2人の子どもに恵まれました。
1990年代に、ガザ地区からほど近い南部の町ベエリに移住し、子育てをしながら、地域で暮らすアラブ系住民の生活や教育の支援、それにユダヤ系住民との交流を促進する取り組みに力を入れていました。
2014年には、イスラエルがガザ地区に軍事侵攻を行ったことをきっかけに、反戦を訴える女性たちによる市民団体を立ち上げていました。
「戦争はもうたくさんだ!」
2017年にヨルダン川西岸で行った大規模な行進では、イスラエルとパレスチナ双方の女性たちが手を携えて、ともに平和を願いました。当時の様子を記録した映像で、ビビアンさんは戦争に反対する思いを語っていました。
ビビアンさん(2017年当時)
「70年もの間、『平和をもたらすのは戦争だけ』と教わってきました。でも、もうそんなことは信じられません」
また近年は、治療を受けられないガザ地区のがん患者をイスラエルの病院に運ぶボランティア活動を行うなど、74歳になっても精力的に活動を続けていました。
ビビアンさんが消息を絶って以降、市民団体の仲間たちは、人質の解放を訴えて、街頭に立ち続けました。
ビビアンさんと親交が深い市民団体のメンバー
「彼女は人生をかけて、和平を訴えてきた人です。生きて、健康で戻ってきてほしいです」
しかし、その願いはかなわず、2023年11月13日、イスラエル軍からヨナタンさんに、ビビアンさんの死亡が確認されたと連絡がありました。
自宅近くで見つかっていた遺体の身元がビビアンさんだと特定されたということです。
「長い戦いから目を覚まさなければならない」
どうして、母はこのような目に遭わなければならなかったのか。母がパレスチナの人たちに何をしたというのか。
行き場のない憤りと憎しみの感情が、こみ上げてくるというヨナタンさん。
ハマスへの報復として、イスラエル軍がガザ地区に軍事行動をとっていることについてどう思うのか、私たちはヨナタンさんに恐る恐る尋ねました。
すると、ヨナタンさんは「生前に母がいつも口にしていた『戦争が平和をもたらすことは決してない』ということばが忘れられない」と話してくれました。
いまこそ立ち止まって、自分たちが憎しみの連鎖を断ち切らないと、和平を訴えてきた母は報われない、そう私たちに強く訴えました。
ヨナタンさん
「私たちは10月7日の攻撃で、大打撃を受けました。それは非常に悲惨なものでした。しかし、軍事力では、根本的な問題は何も解決されないのです。イスラエル軍がハマスをせん滅させることができたとしても、殺された子どもやその親はどうなるのでしょうか。
そして、10年後、ガザ地区では別の武装組織が生まれ、戦争が繰り返されるのです。これをきっかけに目を覚まし、これはおかしいことだと気づくべきなのです」
ビビアンさんが残した平和への道
ビビアンさんの死亡が確認された3日後、テルアビブ近郊で追悼式が開かれていました。会場には、息子のヨナタンさんたち親族のほか、ビビアンさんの団体のメンバーなど数百人が集まっていました。友人たちがビビアンさんの死を悼んで、涙を流して抱き合う姿もみられました。
会場には、ユダヤ系とアラブ系の両方の住民の姿もみられ、ビビアンさんの死後も変わらぬ和平への思いを口にしていました。
アラブ系住民
「ハマスがやったことは恐ろしいことであり、アラブ系の私が現場にいても殺されたでしょう。彼女から学んだのは平和の道で、これからも活動を続けたい」
ユダヤ系住民
「いまのイスラエルで、私たちのような平和活動は残念ながらマジョリティーではありませんが、いつの日か、和平を達成しなければなりません。パレスチナとの対話が必要なのです」
追悼式でヨナタンさんは、お別れのメッセージを読み上げるため壇上に立ちました。そして、ひとつひとつ、言葉をしぼりだすように、最愛の母への思いを語りました。
ヨナタンさん
「あなたがいなくなり、私は母を亡くしました。
そして、平和活動もまた母を亡くしました。
しかし、残された私たちは悲しみから立ち上がり、
あなたが語っていた未来の実現のために努力し続けます」
取材後記
イスラエルでは、かつてパレスチナとの和平の機運が高まった時期もありました。
ちょうどいまから30年前の1993年、当時のラビン首相がパレスチナ解放機構のアラファト議長との間でオスロ合意を結び、2国家共存への道を開いたときです。
しかしその後ラビン首相も和平に反対する過激なユダヤ教徒のイスラエル人に暗殺されました。
暴力の応酬も再び始まり交渉は停滞。和平への期待は急速にしぼみ、現地では「オスロ合意は死んだ」という声も聞かれます。
ビビアンさんの追悼式への取材に行く途中、平和活動のシンボルでもあったビビアンさんが殺害されたことで、今後の和平の行く末を絶望する声が大半を占めるのではないかと考えていました。
しかし、会場にはアラブ系の住民も多く見られ、「この土地は、イスラエルとパレスチナの両方のもので、共存しか道はない」という声が聞かれました。ユダヤ系とアラブ系の参加者が手を取り合って慰め合う光景を目の当たりにして、今回の衝突でどれだけこの瞬間が遠いものになってしまったのか感じました。
イスラエルとパレスチナの一連の衝突から2か月、おびただしい数の犠牲者が出ています。
ヨルダン川西岸地区でも、イスラエルの入植者によるパレスチナ人への暴力が急増するなど、人々の間で憎しみの連鎖がさらに増幅しているようにも感じます。
家族を殺した相手への憎しみを捨てることは簡単なことではありません。
ヨナタンさんへと受け継がれた、母ビビアンさんの平和への思いが、長く続いてきた争いに終止符を打つ希望となることを願ってやみません。
(11月14日 BS国際報道2023で放送)