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時代に翻弄された"幻のオリンピック"と選手たち

2020-08-19 午後 0:22

1940年(昭和15年)、東京で開かれる予定だったオリンピックを知っていますか?アジア、太平洋で繰り広げられた戦争のために中止となった、”幻のオリンピック”。活躍を期待されていた日本選手たちの多くは、戦時下において活躍の舞台を奪われ、命を落としていきました。そんな悲運をたどった選手たちの足跡を追いました。

(この記事は、2019年8月18日に放送されたNHKスペシャル「戦争と“幻のオリンピック” アスリート 知られざる闘い」を再編集してテキスト化したものです。)

1940年、歴史に翻弄された“幻のオリンピック”

 

1936年、ナチス政権下のドイツで開催されたベルリンオリンピック。日本は、金メダル6個、銀メダル4個、銅メダル8個と計18個のメダルを獲得。欧米と肩を並べる輝かしい記録を残しました。

 

 

その4年後の1940年に開催地として予定されていたのは、東京でした。

 

しかし、1937年に日中戦争が勃発。この戦争によって日本の国際的な孤立が深まり、開催予定だった東京オリンピックは中止を余儀なくされました。

 

出場するはずだった選手たちは、時代のうねりに大きく翻弄されていきます。

希望を奪われた選手たち

陸上短距離界のホープ・鈴木聞太(ぶんた)

 

 

慶應大学陸上部に所属していた鈴木聞太選手。100m走の自己ベストは10秒6。成長著しい鈴木選手は短距離界のホープでした。初出場のベルリンオリンピックでは400mリレーのメンバーとして抜擢されます。「日本民族の力を世界に示す」という国の大きな期待を背負っての出場でしたが、バトンミスでまさかの失格。レース後、鈴木選手は「惨めな敗者として終わってしまいました。何をもって御詫び致すべきか」と書き残し、深い自責の念に駆られたといいます。

 

ベルリンオリンピック時に鈴木が着用していたユニフォーム

 

そして、東京オリンピックの中止が濃厚となる中、失敗を挽回する機会を失っていった鈴木選手が選んだ道は、陸軍への入隊でした。

 

鈴木選手は、中国の激戦地でもあった山岳地帯に送られました。俊足を買われた鈴木選手は先頭に立って戦い、夜も偵察に駆り出されるなど、過酷な日々を送っていたといいます。

 

 

1939年7月、鈴木選手は立てこもった敵と戦闘になり、手榴弾を受けて戦死。その後、元オリンピック選手の戦死は、軍によって戦意高揚に利用されました。

 
戦地で生涯最後のプレーを見せたサッカー選手・松永行(あきら)

 

 

1941年12月。太平洋戦争に突入すると、アメリカやイギリスが発祥のスポーツは日本にとって「敵性競技」とみなされ、抑圧されていきます。そのひとつがサッカーでした。日本のサッカーは、戦争によって競技そのものが存続の危機に瀕しました。

 

ベルリンオリンピックに初出場した日本代表

 

ベルリンオリンピックでのサッカー日本代表は、優勝候補のスウェーデン代表を3-2で撃破。“ベルリンの奇跡”と称賛を浴びました。しかし、戦争が始まると代表選手は次々と戦場へ行くことになります。

 

その一人が、当時のエースストライカー・松永行(まつなが あきら)選手です。ベルリンで逆転ゴールを決めた松永選手は、日本サッカーの将来を担う人材として期待されていました。将来はサッカーの指導者を目指していましたが、その願いは叶わず、陸軍に入隊。1942年、松永選手の所属部隊はインドネシアでオランダ軍との戦いに駆り出されました。

 

キャンプ地だったスマトラ島。オランダ軍が残していったサッカーボールを部下が偶然見つけたことをきっかけに、松永選手は、部下にサッカーを教えていたといいます。ここでのプレーを最期に、松永選手は激戦地で戦死しました。

戦時中に4回開催 ”もうひとつのオリンピック”

 

1941年、日本は大規模なスポーツ競技会をすべて中止。その2年後にはあらゆる大会が原則禁止になります。特に大きな痛手を受けたのは、常に世界と記録を争っていた水泳の日本代表でした。

 

 

そんな状況の中、ひとりの人物が立ち上がりました。水泳日本代表の監督を務めたこともある、大日本体育協会の幹部・松澤一鶴(いっかく)さんです。

 

記録会の様子。世界的レベルの花形選手を一目見ようと、多くのギャラリーが集まっている。

 

松澤さんは、国や軍の方針に抗うかのように、東京オリンピックに代わる記録会を開催していました。その回数は少なくとも4回。出場していたのは東京オリンピックでメダルが有力視されていた松澤さんの教え子たちでした。

 

 

戦線の拡大によって、有力な選手たちは兵士に水泳の泳ぎを教えるため、各地を回っていました。そのため、選手自身は練習がほとんどできない状況にありました。そこで、松澤さんは選手が自らの記録に挑戦するための場として記録会を開催したのです。

 

 

記録会に参加した選手のなかには、ベルリンオリンピックの背泳ぎで6位入賞を果たした児島泰彦選手がいました。2回目の記録会で自己ベストを上回る1分9秒2を記録。自身の記録を1秒以上も上回る快挙です。

 

しかし、1944年、日本を代表する選手となるはずだった小島選手は海軍士官として沖縄で戦死。この記録会が、生涯最後の泳ぎとなりました。

「この悲劇を繰り返してはならない」“平和の行進”の誕生

 

1964年、戦災からの復興を成し遂げ、ようやく実現した東京オリンピック。閉会式の総責任者を務めたのは、戦時中に記録会を行った松澤さんでした。松澤さんは戦争で14人もの教え子だけでなく、先輩や同僚なども失い、その訃報を聞くたびに涙を流したといいます。

 

 

その松澤さんが発案し、閉会式で実現させたのが、「平和の行進」でした。それまでオリンピックは各国の選手が国ごとに整列して行進するのが通例でしたが、東京オリンピックでは、世界の選手たちが手を取り合い、自由に行進。そこには「数々の仲間を失う戦争を繰り返してはならない」という思いが込められていたのです。

 

 

アスリートも一般人もスポーツを楽しめる現代。そんな当たり前のことが当たり前ではなかった時代を乗り越え、今がある。次の東京オリンピックでも、そんな幸せを再確認できる大会になることを願わずにはいられません。

 

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