特集 李承信選手 「ラグビー日本代表に憧れて・・・」

今年9月、フランスで開幕するラグビーワールドカップ。活躍が期待される若き司令塔がいる。在日コリアンの李承信選手だ。去年には朝鮮学校出身者として初めて日本代表デビューした。
「ワールドカップに出場できれば、在日の子どもたちに新しい景色を見せられるはず」
自らのルーツを誇りに世界の舞台に挑む。
典型的な末っ子
幼少の頃の李承信選手
在日コリアン3世の李選手。2001年、神戸市で3人兄弟の末っ子として生まれた。ラグビーを始めたのは4歳から。父はラグビー経験者で、2人の兄も幼い頃から地元のラグビースクールに通っていた。
母の永福さん
典型的な末っ子で、すぐに調子に乗るタイプだったという李選手。そんなとき、厳しく接してくれたのが母・永福さんだった。
李選手
小学4年の時にラグビースクールの県大会があってそこで初めて3位になって、喜んでいたら、すぐにお母さんに『何で1位じゃないのに喜んでいるの』と鼻を折られました。小柄でしたが、本当に強くて厳しい、そして優しいお母さんでした。
母からの言葉 “ワールドカップに出て欲しい”
李選手と母の永福さん
しかし、母との別れはあまりに早かった。
乳がんの闘病を続けていた永福さん。李選手が小学6年生の時、成長を見届けられないまま44歳という若さでこの世を去った。
李選手
小学6年生って、やっぱりまだお母さんに頼るじゃないですか。だから当時は寂しくてつらいというより3、4か月は現実を受け入れられない状況でした。その後、だんだんと月日がたつにつれて悲しみやつらさが襲ってきました。母親という自分の人生の中で大きな存在を失い、心にぽっかりと穴が空いた感じでした。
大きな喪失感を抱えながらも、続けたラグビー。かつて母から繰り返し言われてきた言葉があった。
「日本代表としてワールドカップに出てほしい」
この言葉をずっと心の支えにしながら、ラグビーに打ち込み、大阪朝鮮高級学校時代には高校日本代表に選出され主将を任された。
李選手の高校日本代表主将時代
李選手
悲しさやつらさを埋めるためにもラグビーに全力を注いできました。自分が成長した姿を天国のお母さんに見せたいという思いをモチベーションにずっとこれまで頑張ってきました。日本代表は自分の夢でもあり、そのわたしの夢を100%応援したいお母さんの希望だったのかもしれませんね。
“在日コリアン”というルーツ
ラグビーの代表資格には国籍にとらわれない独自の選考基準がある。一定の居住歴などを満たせば、代表の国の国籍が無くてもその国の代表選手になることができる。
そのため日本代表にはさまざまな国籍やルーツを持った選手たちが名を連ねている。李選手も在日韓国人というルーツがあるが、日本代表を目指すことはごく自然なことだったという。
李選手
長く在日コリアンというコミュニティーの中で育ってきましたが、自分がラグビーを始めたのは日本のラグビースクールですし、ラグビーの技術や魅力を教えてくれたのも日本の方たちが多かったです。だから、日本代表のために、代表でプレーしたいって思いをごく自然に持っていました。
高校全国大会出場時 父の東慶さんと
父の東慶さんも、李選手の夢を後押ししてきた。しかし、韓国籍である李選手が、日本ラグビーを背負おうとすることについては、周囲からさまざまな意見があったと言う。
父・東慶さん
韓国籍なのに日本代表ってどうなのでしょうか、と言われることもありました。日韓をめぐる歴史は複雑で、文化的にもいろいろな問題があるかもしれませんが、そこを乗り越えられるのがスポーツだと思います。だから承信には在日コリアンの学校に行っている子どもたちの目標となる存在になってほしいと伝えてきました。
“心の底からこの舞台に立ちたい”
順調に見えた日本代表への道のり。しかし、強豪・帝京大学に進学した2019年は、李選手にとって大きな転換点となった。
帝京大学時代 試合後に父と兄と
その年の秋、日本での開催となったラグビーワールドカップ。「ONE TEAM」をスローガンに、日本は欧州の強豪のアイルランドやスコットランドを相手に勝利した。ベスト8に入る快進撃に国内は歓喜にわき、多くの人がラグビーに関心を持った。当時、大学の寮のテレビで試合を見ていた李選手は、感動と同時にワールドカップへの思いをより一層強くしたという。
李選手
これだけラグビーは人の心を動かせるんだっていうのは思いました。そして、心の底から自分もこの舞台に立ちたいって思ったんです。しかし、同時に海外との差も大きいと感じました。そのときの自分は高校時代からの成長を感じられていませんでした。このまま大学4年間を過ごすよりも、もっと難しい環境の中に自分を置く必要があるという思いが強くなっていきました。
ラグビー留学が一転・・・
そして決断したのは、ラグビー大国・ニュージーランドへのラグビー留学だった。周囲からは強い反対にあった。大学の監督と何度も話し合い、父の東慶さんとは激しく意見が対立した。それでも李選手の意志は固く、思いを必死に伝えた。最後は納得してもらい背中を押してくれたという。
父・東慶さんは当時を振り返る。
父の東慶さん
父・東慶さん
親のエゴかもしれませんが、大学は出てほしいというのは思いました。帝京大学には高校時代から有名な選手が集まっていましたから、このままラグビー人生をおう歌するんだろうなと思っていました。だから、その環境をみずから断ち切るというのは私には理解できなかったんです。ただ承信らしいなと言えば承信らしい。自分が『これや!』と言ったらブレることなく突っ走っていきますので。
しかし、留学への道を阻んだのが新型コロナウイルスの世界規模による感染拡大だった。すべてが白紙となった。半年以上もプレーする場所を失い、ラグビーから離れて引っ越しのアルバイトをした時期もあったという。
李選手
先が真っ暗になったというか、何を目指したら良いのか分からなくなりましたが、いつかチャンスが訪れると思いながら公園で走り込みをしたりジムでトレーニングしたりしていました。自分にはラグビーしか無いと思ったので、歯を食いしばって耐えるしかなかったんです。
地元の神戸で
しかし、転機が訪れる。
コベルコ神戸スティーラーズのクラブハウス外観
地元神戸で地道にトレーニングを重ねるも、失意の日々が続いていた李選手に、地元神戸の名門クラブ「コベルコ神戸スティーラーズ」(旧・神戸製鋼コベルコスティーラーズ)の福本正幸チームディレクターから声をかけられる。李選手がかつて通っていたラグビースクールのコーチでもあった。教え子の現状を知り、チームの練習後のグラウンドの使用を許可してくれたのだ。
李選手の練習風景
最初は1人で自主練習をしていたが、しだいにクラブの選手がトレーニング付き合ってくれたり、今後のキャリアについて相談に乗ってくれたりするようになった。その後、クラブの上層部から実力と将来性を認められた李選手。2020年9月にクラブとの正式契約をつかみ取った。
こうして、ラグビーを始めた原点の神戸でプロとしてのキャリアがスタートした。
コベルコ神戸スティーラーズでのプレー (2023年4月)
李選手
子どもの頃からの憧れの名門チームに加入できたことはうれしかった一方で、少し前まで学生としてプレーしていた選手が突然プロとしてやっていけるか不安でした。毎日、自分の成長と課題をノートに書きとめて、どうやってこのチームで成長していくか、どうすれば試合に定着できるかを考えていました。
ワールドカップの舞台へ
李選手の一番の持ち味は正確なキックだ。チームで世界レベルの選手と日々練習する中で技術は一気に成長した。そして、首脳陣の信頼も得て、攻撃の起点となる司令塔、スタンドオフのポジションを獲得した。
ウルグアイ代表とのテストマッチ (2022年6月)
去年6月のウルグアイとの代表戦。朝鮮学校出身者として初めて日本代表デビューした。そして3か月後のフランスとの代表戦ではスタメンで攻守に活躍し、強豪を相手に高い決定力を見せつけた。
身長176センチ、体重85キロと決して大柄ではない。いま、特に力を入れているのが海外選手のタックルに耐えうるフィジカルの強化だ。
ワールドカップ開幕まで2か月を切った。前回大会のベスト8を上回る成績を目指す日本代表の最終メンバー33人は8月に発表される見通しだ。自身のルーツを誇りに、ワールドカップのピッチを目指す李選手。その挑戦への道は、いまラストスパートを迎えている。
李選手
あと一歩のところではありますが、焦らず目の前の練習に集中しています。ワールドカップの舞台には、自分の夢だけでなくさまざまな人の夢が詰まっていると思っています。在日コリアンである自分がワールドカップに日本代表として出場し、活躍することで、朝鮮学校の後輩たちや在日コミュニティーの人たちなど多くの人に夢と希望を与えられる存在になりたいです。それはこれまで私を育ててくれた人たちへの恩返しでもあるんです。
この記事を書いた人

西川 龍朗 記者
神戸局記者 2022年入局
元ラガーマンで得意プレーは「ジャッカル」
培った脚力で警察からスポーツまで幅広く取材中
W杯推しチームは日本代表と豪代表「ワラビーズ」