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特集 知ってました?「アスリート」という言葉は平成から!! スポーツ平成史・五輪 第2回

その他のスポーツ 2020年8月7日(金) 午後1:18

まもなく幕を閉じる、「平成」という時代。サンデースポーツ2020では、2月から4週にわたってスポーツの平成史を振り返りました。
2月10日放送回のテーマは「オリンピック」。平成の30年でスポーツはどう進化をし、そして次の時代、どこへ向かってゆくのか。平和の祭典から探ります。

今回注目するのは「アスリート」という言葉。実は平成になってから使われるようになった言葉なんです。この「アスリート」という言葉が使われるようになった背景を副島萌生キャスターと畠山愛理リポーターが取材。すると、スポーツを取り巻く環境や選手自身の意識の変化が見えてきました。

「アスリート」は平成になってから

オリンピックを戦った選手たちが語るアスリートという言葉。今では一般的に広く認知されています。しかし、昭和63年、ソウルオリンピック直前の「サンデースポーツ」の放送を振り返ってみると、番組内のコメントでは。

 

「ソウル入りした“選手”たちも最後の調整に励んでいます。」


「選手」という言葉は使われているものの、「アスリート」という言葉は一度も使われていませんでした。実は、日本で「アスリート」という言葉が一般的になったのは平成に入ってから。そう結論づけた研究もあります。北海道大学大学院の石井克さんの研究では、新聞記事に出てくる言葉の使用頻度を調査。新聞によっては「アスリート」の使用頻度が、昭和から平成で50倍に増えたケースもあったといいます。

 

平成になると「アスリート」の使用頻度が激増

北海道大学大学院 石井克さん

平成に入ってから突然「アスリート」という言葉が新聞記事の中に見られるようになりました。おそらく、スポーツ界の中で何か大きな変化ですとか、そういったものが起こったのではないかと考えています。

自己実現、自己表現するアスリートたち

アスリートという言葉が広まった背景には、何があるのか。副島萌生キャスターが訪ねたのは、オリンピックの歴史に詳しい早稲田大学の友添秀則教授。友添教授はスポーツ選手の社会における位置づけ、更には選手自身の意識の変化が表れているといいます。

 

早稲田大学 友添秀則教授

「選手」すなわちプレーヤーというのは文字の示す通り「選ばれた人たち」。つまり自分が主体的にそこに関わるというよりも、例えば競技の団体だとか、選手権大会で選ばれていた人たちということを表しています。
一方「アスリート」という言葉の中には、競技を目指し、自分が一生懸命献身的に努力をして、その中で自分自身を磨いていくという意味を含めた、そのような言葉の意味があるわけですね。「アスリート」と呼ばれる人たちの新しいスポーツとの関わり方は、自己実現としてもスポーツをやっていくっていう意識、それを意味していたと考えていいのではないかと思います。

 

昭和のオリンピック。選手たちの多くは、国を背負うという意識で戦っていました。

 

ソウル大会、柔道金メダルの斉藤仁選手が涙

 

例えば昭和63年ソウル大会、柔道男子の金メダリストの斉藤仁選手。この大会、柔道の他の日本選手が金メダルを逃していく重圧の中、金メダルを獲得した斉藤選手は、競技後のインタビューでこう語りました。

「これでやっと日本に帰れます。」

しかし平成に入ると。選手たちの言葉に変化が見え始めます。

アトランタ大会の女子マラソンで銅メダルを獲得した有森裕子選手。
「初めて自分で自分をほめたいと思います。」

シドニー大会の女子マラソン金メダリストの高橋尚子選手は。
「すごく楽しい42キロでした。どうもありがとうございました。」

アテネ大会の女子レスリングで金メダルを獲得した吉田沙保里選手は。
「オリンピックの金メダルだけが家になかったので、これで全部揃いました!」

そして、アテネ大会、男子平泳ぎの金メダリスト、北島康介選手。
「超気持ちいい!!」

 

北島康介選手は金メダルを決め絶叫!

 

自分の個性を大舞台で思いきりアピールする姿。自らの思いを大切にして、自然体でオリンピックを戦う平成の「アスリート」たちの姿がそこにありました。

社会との関わりの中で

そしてアスリートたちは、社会にメッセージを投げかけるようになります。女子柔道でバルセロナとアトランタで銀メダル、そしてシドニーとアテネではオリンピック2連覇を達成した谷亮子さん

 

妊娠発表後の会見 大きな注目を集めた

 

平成17年、妊娠が分かった時の記者会見。当時の常識を打ち破る発言で驚かせました。

「田村で金、谷で金、そしてママになって金。」

あの時「ママでも金」と宣言した思いはどこにあったのか。畠山愛理リポーターが谷さんに話を聞きました。

 

 

畠山 谷さんは出産されてもアスリートを続けるという決断をされました。それは「自分への挑戦」なのか、それとも「日本のスポーツの女性アスリートの形を変えていきたい」、どちらが強い気持ちでしたか?

 

谷 やっぱり「後者」の方ですかね。日本の女子アスリートの環境というのは、結婚して出産してからもアスリートを続けていきたいとなったときに、そこまで整っていなかった。そこが、私が大きくチャレンジした一つの理由でした。

 

 

30歳で出産したあと、5回目のオリンピックを目指した谷さん。女性アスリートとして新たに切り開いた道は苦難の連続だったと振り返ります。

 

谷 子供を連れて合宿に行くっていう事自体が、やっぱり「認められていない」というか、子供連れてきちゃいけない雰囲気が、当時あったんですね。自分自身はまだ授乳中でしたので、合宿で近くに自分の母に来てもらって、練習の合間に授乳しに行ったり夜寝かしつけに行ったりしていました。もちろん監督の許可を取ってですけれど。そうしたことを含めて、大会に帯同させたりするときも全てを自分でコントロールするというか、自分で全部やらなければいけなかったんです。

 

 

谷 ひとつひとつ試行錯誤していきましたね。ある意味教科書がないわけですからね。自分自身がいいと思うことをチャレンジしたり、頑張り抜いたというか。だから5回目のオリンピック、北京の時は本当に言葉にならないような思いが、いくつもありました。

 

平成20年北京大会 谷選手は銅メダルを獲得した

 

谷さんは「ママでも金」を目指した平成20年の北京大会では銅メダル。しかし、前年の世界選手権では優勝しており「ママでも世界一」となることは見事に達成したのです。

 

取材にあたった畠山リポーター。自身も元・女性アスリートとして活躍した立場としての取材を終えて。

 

畠山 スポーツ界はもちろんなんですけれども、少しずつですが働く女性が挑戦を続ける今の「日本社会の形」も、谷さんの思いやその挑戦が大きく影響しているな、と改めて感じました。

 

副島 平成はスポーツで結果を残すだけではなくて、どんな社会を求めるのか、アスリートが社会に向かって発言したり行動するようになった時代なんだな。逆に言うとそういう事が行われるようになったのは「平成になってから」ということなんだなと改めて知りましたね。

 


 

平成30年間の時代の変化と共に、「選手」から「アスリート」の活躍の場となったスポーツ界。来年の東京大会から始まる「平成の次の時代」のオリンピックでは、アスリートたちがどのような姿を見せるのか、楽しみが膨らんでいきます。

 

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