特集 母へ送る感謝のラブレター ~もうひとつのF・マリノス~

「“居場所”をくれたお母さんには感謝しかない」
知的障害者サッカーチーム、横浜F・マリノスフトゥーロに所属する18歳の選手は、母への思いをこう語りました。“母の日”を前に、障害があってもサッカーを通して前向きに社会とつながる息子から感謝の思いをつづったラブレターが母へ手渡されました。
障害者にもサッカーという“居場所”を
去年のJリーグ王者、横浜F・マリノス。このクラブには、J1で唯一の知的障害者サッカーチーム「横浜F・マリノスフトゥーロ」があります。
横浜F・マリノスフトゥーロの練習グラウンド
フトゥーロは、Jリーグ開幕(1993年5月15日)から11年後の2004年に創設されました。当初20人ほどの選手でスタートしたチームには、いま中学生から社会人までの選手およそ100人が在籍しています。チームが目指す理念は「障害の有無に関わらずサッカーを身近な存在として楽しむこと」。日々サッカーを楽しむとともに社会とのつながりを持つ、いわばそれぞれの”居場所”になっています。
小学1年生でわかった知的障害
小学1年生の頃の高松将吏選手
フトゥーロに所属する横浜市の高松将吏選手(18)は、小学1年生のときに知的障害とわかりました。母親の直子さんによりますと、将吏選手が通っていた保育園側から、集中すると突発的な行動に出たり、先生の話を落ち着いて聞いていられなかったりするといった指摘を受けたことがあったということです。
小学校の入学式では、大泣きして直子さんと離れることができず、会場に入れませんでした。小学校の低学年では、気分が変わりやすかったり、機嫌が悪くなって学校の外に飛び出してしまったりしたこともありました。直子さんは学校から呼び出され、そのたびに、悩み続けて精神的に追い詰められたこともあったと言います。
将吏選手の母・高松直子さん
母の直子さん
小学校から2年生から4年生にかけてずっと、このまま成長したらどうなってしまうんだろうとか、家庭内暴力も起きてしまうのではないかと悩んだこともありました。
サッカーとの出会い、そして受け入れの壁
将吏選手がサッカーと出会ったのは小学1年生のときでした。保育園からの友だちに誘われて、小学校の校庭ではじめてサッカーボールを蹴りました。
将吏選手
ちょうどそのときにワールドカップがあって、本田圭佑さんのプレーがすごい印象的でサッカーをやってみたいと思って始めました。
保育園からの友だちがいる横浜市内のサッカークラブで一緒にプレーしたいと思い、入団を申し込みました。ところがそこで”健常者と一緒にサッカーをする”という壁が立ちはだかりました。そのクラブからは、「障害のある子を受け入れたことがないため入団させることはできない」と拒否されてしまいました。親子2人で別のチームを見つけて入団を申し込みましたが、また拒否されました。
直子さん
『こういった子は扱ったことがない』と言われて、息子がだめな子なのかなとか、何も悪いことはないのになんでだめなんだろうと思いました。
やっと入団できるチームが見つかったのはそれから半年後、小学2年生のときでした。
入団後も抱えた困難
サッカーを始めた小学生時代の将吏選手
入団したあとも、コミュニケーションやプレーで困難を抱えていました。直子さんによると、自分からコーチやチームメイトにあいさつするのが苦手で、グラウンドで下を向いて砂をいじっていたと言います。また、ポジションはゴールキーパーでしたが、ゴールエリアの外で手を使ってボールを触ってしまうなどルールを十分に理解できないことや、試合中に観戦する母親を見つけて近寄ってきてしまうこともありました。
直子さん
本当にあいさつができなくて、『コーチにあいさつするのは今だよ』って言ってもコーチのところに行けませんでした。練習が終わってからも、『早く帰ろう』と言ってくることがありました。
人生を変えた“サッカーチーム”
フトゥーロで周りの選手とコミュニケーションを取る将吏選手(左)
困難を抱えながらもプレーを続けていた将吏選手に転機が訪れました。チームへの受け入れを断られたことを聞いて気にかけてくれたサッカーチームのコーチが、中学生以上から入団できるフトゥーロの存在を教えてくれたのです。
「周りも知的障害がある選手たち。安心してプレーできる」
コミュニケーションに不安を抱えていた将吏選手は自分にとって心強いチームだと感じ、入団することを決意しました。
それから6年後の2019年、中学2年生のときに入団しました。
フトゥーロでプレーする将吏選手
サッカーでは、選手が声をかけあってパスでボールをつないでゴールを目指しますが、あいさつが苦手だったことから、はじめの頃、声を出せずに失敗することがありました。
そんななか比較的年齢が近いチームメイトや社会人のチームメイトたちが積極的に話しかけてくれたことで、徐々にチームに溶け込んでいきました。日頃の練習や試合、チームメイトとの触れあいを通じて、苦手だったあいさつをするようになり、他人とのコミュニケーションも自分から少しずつ取れるようになりました。
いまのポジションは、ディフェンスやボランチです。入団後から見守ってきた斎藤幸宏コーチによると、持ち前の優しさや気の利くプレーが特徴だと言います。
フトゥーロの斎藤コーチ
斎藤コーチ
誰にでも優しく、サッカーを楽しもうという姿勢がいいところです。今は彼より若い子たちもいっぱい入ってきているので、コミュニケーションも自分から取ろうとしていて、『自分がチームを引っ張る』という責任感も出てきたと感じます。
インタビューを受ける将吏選手
将吏選手
同じような境遇の方やサッカーが好きな人たちが集まったチームなので、僕でもそこに入ったらコミュニケーションがうまく取れるようになるのかなと思って入りました。サッカーがうまくなったと思うときが楽しいし、サッカーをやっていてよかったと思う。チームメイトの友だちに会いたいっていう気持ちもあります。チームメイトの先輩からは、学生と社会人の違いや社会人の大変なことを教わることもできたのでよかったです。
母親の直子さんは、フトゥーロに入ってからの6年間、練習場所への送り迎えを欠かさずに行い、将吏選手を支え続けてきました。サッカーを通じて成長する姿を目の当たりにして、驚きの連続だと打ち明けてくれました。
直子さん
入団当初はあいさつが本当にできなかったのに、今はあいさつもしてます。練習が終わってもすぐに帰らずに仲間としゃべってるのを見て、仲間ができたんだなとも感じます。障害があるから、何でも適当にするのではなく、コーチたちが、片付けをきちんとすることや自分の荷物をきれいにまとめることなどのルールを教えてくれるので、フトゥーロは私にとっても安心して将吏を送り出せる場所です。
息子から母へ手渡す“1通の手紙”
母への手紙を書く将吏選手
将吏選手はこの春、地元の高校を卒業し、フトゥーロの先輩から教えてもらった会社で働き始めました。
将吏選手は母の日に直子さんに感謝の手紙を渡すことを企画しました。小学校時代のこと、中学生で入団したフトゥーロとの出会いのこと、そして、母親への感謝の思いを便せん1枚に30分ほどかけて、ゆっくりと少しずつ、丁寧に書いていきました。
~お母さんへ~
今まで育ててくれてありがとう。
小学生の頃、学校を飛び出したり、てんかんで救急車に運ばれたりして、いろいろ迷惑をかけて申し訳ないなと思っています。中学生の頃も、暴言や無視などキツい対応をしてごめんなさい。
小学1年生のときに、保育園の友だちとはじめてサッカーボールを蹴ってから12年。入団を断られたり、チームメイトとのプレーやコミュニケーションに困難を抱えたりしながらも、親子の絆でフトゥーロという居場所を見つけることができました。
手紙には、こんな夢もつづられていました。
高校生になって、今の会社に実習が行けて入れたのもお母さんのおかげです。高校で友だちも増えて親友と呼べる子もでき、サッカーも少しずつうまくなってきたと思います。社会人になって今まで苦労かけた分恩返しをします。サッカーでは知的障害の日本代表になれるよう努力します。これからも、よろしくお願いします。
将吏より
将吏選手は母の直子さんに「これ手紙を書いたんだけど、いつもありがとう」と切り出して手紙を渡しました。花束と一緒に手紙を受け取った直子さんは、手紙の封筒を開けて、1文字1文字見つめながら、将吏選手のことばをかみしめていました。
直子さん
人の気持ちとか思いをくみ取れるようになったんだなと感じました。すごく成長してくれたことが分かって、最高の母の日のプレゼントになったと思います。
将吏選手
感謝の思いは伝わったと思います。社会人になって、初めての給料も出るので、お母さんにおいしい焼き肉をごちそうしたいです。
障害があってもサッカーを通して前向きに社会とつながりを持つ息子。そして、障害を受け入れて息子の成長を見守り続けた母。
手紙に込められた息子の思いが、2人の絆をさらに深めました。
この記事を書いた人

高橋 哉至 記者
横浜放送局厚木支局 記者
2018年入局 初任地は宇都宮放送局
2021年11月からは厚木支局で地域の課題やスポーツの話題を取材
大学まで野球部に所属