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特集 伝説の打点王 小鶴 誠 ~あふれる家族愛 そして探究心~

野球 2023年4月4日(火) 午後2:00

 

WBC=ワールド・ベースボール・クラシックでは、大谷翔平選手、ダルビッシュ有投手、吉田正尚選手、村上宗隆選手といった日米で活躍する一線級のメンバーが並んだドリームチームが14年ぶりに世界一の座を奪還しました。みなさん、心躍らせ、胸を熱くしたのではないでしょうか。

大リーグに行くことが不思議ではなくなった今では考えられない時代、戦前から戦後にかけて大リーグの名選手になぞらえて「和製ディマジオ」の異名をとった「伝説の打点王」がいました。

 

伝説の打点王 ”小鶴誠”

 

松竹ロビンス時代 ジョー・ディマジオと

みなさん、小鶴誠を知っていますか?今とは比較できないほど取り巻く環境が厳しい時代に、本場アメリカの名選手の名前を冠されるような成績を残した小鶴さん。この世を去って20年がたったいま、残された貴重な資料から伝説の強打者の横顔が見えてきました。

 


小鶴誠さんは、福岡県飯塚市の出身。飯塚商業学校を卒業し、社会人野球の八幡製鉄を経て、1942年、プロ野球・名古屋軍(現・中日)に入団しました。戦争を経験した後、急映フライヤーズ、大映スターズ、松竹ロビンス、広島カープを経て、1958年に現役を引退しました。

 


プロ入りして9年目の1950年。松竹ロビンスの中心バッターとして、チームを初代セ・リーグ王者に導き、最優秀選手にも輝きました。ホームランは51本とプロ野球史上初の大台に乗せ、161打点と合わせ2冠王に輝きました。当時のプロ野球のシーズン記録を大きく塗り替え、特に「161打点」はこれまで王貞治さん、野村克也さん、それに去年、勢いがあった「村神様」村上宗隆選手ですら超えることができなかった不滅の記録です。大谷選手が「規格外」と評されますが、小鶴さんもまさに「規格外」でした。

 

小鶴に関する独自資料発掘!!

ことしは小鶴さんが亡くなって20年の節目で、私(記者)は3月上旬、ご家族のもとを訪ねました。

 

 

 

取材の申し込みを受けて整理したという遺品の中から、家族も知らなかった小鶴さん直筆の大量の手紙が発掘されました。主に妻の登美子さんに宛てたものです。

 

 

 

 

 

 

小鶴さんの手紙の文面

〈身体の方調子がいい〉

〈久方振りホームランを打った〉

〈昨日の試合、先日負けた処のチームに二回戦目をやり四-二で勝った〉

〈野球の試合をやれば審判が誤審ばかり〉

 

人一倍探究心が強かったという小鶴さんは「ゴルフスイング打法」という腕力に頼らず腰の回転を生かした独自の打法を編み出し、トレーニングを繰り返して体にしみこませていきました。今回、遺品から庭でバットを振り込む小鶴さんの写真が見つかりました。

 

 

 

当時の小鶴さんの様子について、小鶴さんの長男の昇さん、長女の由美子さん、甥にあたる高城陽三さんから話を伺いました。

高城陽三さん(小鶴さんのおい)

「今の選手はみんな高いボールをよく打ちますけど、おじさんは低い球をすくい上げてホームランにしていたんです。だからボールが高く上がっていました。試合のないときは自宅の庭でバッティングの練習をしていました。地面の土がほぐれていましたね」

八重樫由美子さん(小鶴さんの長女)

「母(登美子さん)が言うには、寝ていてもいきなり飛び起きて、雨戸バーッと開けて外に出て、ずっとバットを振っていたというような話をよく聞きました。なんだか侍みたいですよね。ひらめいたらやる感じだったそうです」

 

 

小鶴昇さん(長男) 高城陽三さん(甥) 八重樫由美子さん(長女)

 

由美子さん

「動体視力がすごいんですよね。ホームランを打っているころは、打つまで球が全部見えていたって話していました」

 

小鶴昇さん(小鶴さんの長男)

 「投手の球が打つときは止まって見えたと何回か聞いたことがあります。ノックしているみたいに・・・」

 

由美子さん

 「家で、昔はハエが部屋に入ってきますでしょう。そうすると手でぱっとつかんで、ぽんと外へ投げて。その技がすごくて」

 

 

今と違う環境による困難

手紙には当時の苦労も記されていました。

 

小鶴さんの手紙の文面
〈今後毎日ダブル(ヘッダー)だ〉

 

手紙の入った封筒には1日2試合だけではなく、3日で5試合をこなすという今では到底考えられないハードな試合のスケジュール表も同封されていました。

 

 

小鶴昇さん(小鶴さんの長男)

「遠征が多かったみたいでけっこう家を空けていたので、いろいろ心配して手紙を送ってくれていたと思いますね」

 

今のように、新幹線や高速道路はない時代です。当時の選手の移動の困難さについて専門家に聞きました。

 

 

野球殿堂博物館 関口貴広主任学芸員

「プロ野球のチームは複数で一緒に全国の少ない球場を回っていました。1日に複数の試合を戦って、SLで長距離移動していました。移動しては、また試合をしてと大変な苦労があったと思います」

 

あふれる家族への思い

2人の子どもたちに宛てた手紙も見つかりました。子どもたちが読みやすいようにひらがなでしたためられていました。

 

 

小鶴さんの手紙の文面
〈のぼる(昇)くんへ
毎日元気で学校に行っていることと思います。あんまりいたずらをしておかあちゃまの仕事をたくさんつくってはいけません。遊んだ後は必ず片づけましょう。

由美子ちゃんは赤ちゃんだからいじめてはいけません。仲良くしなさい。お土産は何だったかね。手紙を入れて大阪に出しなさい。

おとうちゃまより〉

 

〈みこちゃん(由美子さん)へ
お手紙ありがとう。お土産たくさん買って帰ります。おかあちゃまの言うことをよく聞いてお兄ちゃまと仲良くしなさい。

おとうちゃま〉

 

八重樫由美子さん(小鶴さんの長女)

「優しい父だったので、遠くから思ってくれていたのだとうれしく思います。父がこんなに筆まめとは思わなかったです。びっくりしました」

 

 

 

 

小鶴さんの手紙の文面
(小鶴さん)。
〈俺の方はもう大丈夫。元気になってずっと試合にも出場しているから安心してくれ〉。
(登美子さん)。
〈早く来い。貴方のお帰りの日 二日!それまでお元気におすごしを。お元気にお帰りを。ご気嫌よう〉。
(小鶴さん)。
〈俺は野球の事をやるから、やれるだけやるよ〉。

 

 

引退後は、プロ野球のコーチやスカウトとして球界に貢献し、「ミスタータイガース」、阪神の掛布雅之選手を発掘したことでも知られています。現役時代は独特の打法から、つい間板へルニアを患いましたが、晩年はバッティングセンター通いを楽しんだということで、80歳で亡くなるまで野球、そして家族を深く愛し続けた生涯でした。

 

 

小鶴昇さん(小鶴さんの長男)

「求道心というか、極めようとする思いはすごくあったと思います。年を取ってからもいろんなところでバッティングについて話していたみたいです。一生追い求めたんじゃないですかね。そういうことができるというのはすてきなことですし、うらやましいと思います。一生懸命野球やバッティングを追い求めた探究心を多くの人にぜひ知ってほしいと思います」

 

この記事を書いた人

中村 成吾 記者

中村 成吾 記者

令和2年NHK入局。福岡局で警察担当を経て、プロ野球・ソフトバンクを取材。趣味はクラシック音楽をきくこと。

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