ストーリー野球

戦争とプロ野球 景浦将と若林忠志

2019-08-13 午後 09:32

8月15日は終戦の日です。

先の戦争ではプロ野球経験者73人が命を落としました。その中の一人、景浦将。阪神の前身、大阪タイガースのスター選手でしたが昭和20年に戦死しました。その死を深く悼んだのが盟友の若林忠志です。景浦の死は若林の戦後の生き方に大きな影響を与えました。戦争に翻弄された、ふたりの名選手の物語です。

タイガース黎明期の投打の柱

大学時代の景浦

昭和11年に始まった日本のプロ野球。
景浦将は当時のプロ野球を代表するバッターでした。愛媛県に生まれ、立教大から21歳でタイガースに入団。「打球の速さにカモメもびっくりした」と評された豪快なスイングで、数々の打撃タイトルを獲得しました。

 

タイガース時代の若林

 

そして当時のタイガースを支えたもう一人のスターが、投手の若林忠志です。七色の魔球と呼ばれた多彩な変化球と、抜群のコントロールで打者を翻弄。シーズン28勝をあげるなどエースとして活躍しました。ハワイに生まれ学生時代に来日。プロ野球設立前にはレコード会社でビジネスマンとして働いていた経歴を持ち、現在「六甲おろし」として愛されているタイガースの応援歌の作成にも携わるなど、グラウンド内外でチームを支えました。戦後、中日のエースとして活躍した杉下茂さんはふたりのプレーを間近で目撃していました。

 

杉下茂さん

「(景浦は)とにかく体がすごくて、スイングが速かったでしょ。それで体の回転もものすごかった。あの広い甲子園でスタンドにぼんぼん放り込んでましたからね。とにかく言葉で表せないようなね、すごいバッターでしたよ。(若林は)キャッチャーがミットをつければ、間違いなくそこに放り込むという人。これは真似できない。はっきり言ってピッチングの神様ですよ。」

景浦と若林 二人の出会い

初期のタイガースで投打の柱だったふたり。実は大学生だった景浦をタイガースに誘ったのは、若林でした。その日は昭和11年2月26日。二・二六事件の当日。若林は、その日のことを次のように記しています。

 

 

(若林の回想)

「雪降りの中、東京市内騒然とする中、銀座で景浦くんと会った。私は自分のプロ入りまでの心境を話し、いかに日本野球界発展向上のためにプロ野球が必要であり、重要であるかを述べた。」

 

若林の熱心な誘いに、景浦は大学を中退してタイガースへの入団を決意。その後も親しくつきあい、すき焼きの大食い競争をしたというエピソードも伝わっています。景浦・若林の活躍でタイガースは昭和12年秋、昭和13年春と連覇。巨人と並ぶ人気球団になりました。

景浦 兵士として語った言葉

しかし、戦争がプロ野球に暗い影を落としていきます。

 

 

昭和12年に日中戦争がはじまり、戦火は年々拡大していきました。試合前のグラウンドでは「手榴弾投げ競争」が実施され、甲子園球場では戦車の展示も行われました。
そして、選手たちも徴兵されるようになります。景浦は昭和14年に1度目の召集を受けます。スター選手だった景浦に対し、軍は広告塔の役割を担わせます。当時、景浦が雑誌に寄稿した文章には次のように書かれていました。

 

「野球も確かに人間を鍛えてはくれる。しかし、軍隊の人間の鍛え方はまた別であり、野球生活によって得る程度のものではない。私の力説強調したいのは、欣然として軍隊へ行け、という事である。」

 

この言葉を、景浦は本心から書いたのか。それとも軍に強制されたのか。景浦の甥の隆男さんは、日本中が軍国主義に染まった時代、やむをえなかったのではないかと考えています。

 

景浦の甥・隆男さん

「やっぱり本人は野球がしたかったと思いますね。戦争で肩とか体力を使うんじゃなくて、自分の体を生かして野球に打ち込めていたらな、という風に思います。」

景浦の戦死と若林の決意

選手が次々と召集され、昭和19年にプロ野球は中断に追い込まれました。そして、1度目の出兵から戻りプロ野球に復帰していた景浦に、2度目の召集がかかります。

翌昭和20年5月。景浦は激戦地フィリピンで戦死。29歳でした。

 

 

甥・隆男さん

「遺骨はないですよね。石ころが3つぐらい、コロコロっていう感じなんですけど。最後は銃弾に撃たれたんではなくて、病気で倒れたんだと聞いてます。やっぱり無念だったと思いますね。」

 

異国の地で無念の死を遂げた景浦。一方、召集を免れていた若林は、疎開先の宮城県で終戦を迎えました。当時38歳。既に別の仕事についていましたが、再開したプロ野球への復帰を決めます。若林はその決意を新聞に寄せていました。

 

 

「今日日本が一番望んでいることは、如何に国をあげてデモクラシーになるかと云う事である。私は野球人だから、野球を以てデモクラシーを普及したい。」

 

若林はタイガースの監督兼選手としてプレーするかたわら、全国で野球教室を開催するようになります。野球でチームワークの大切さや、フェアプレーの尊さを教える事で、平和な社会を実現したいと考えたのです。

若林について調査してきたスポーツ新聞編集委員の内田雅也さんは、盟友の景浦を戦争で失った事が、戦後の若林の生き方に大きな影響を与えたと見ています。

 

 

内田雅也さん

「自分の生涯を野球にささげた人間ですので、その野球の「球友」ですよね。彼を亡くすというのは痛恨であった事は、間違いありませんね。」

子供たちに野球と平和を

若林は、不遇にある子どもにこそ手を差し伸べたいと考えていました。昭和24年、若林は奈良少年刑務所を訪れました。そこで「野球を通じ、更生してください」と語り、少年たちに「優勝盾」を贈りました。

 

 

少年刑務所では翌年から、この盾を掲げた野球大会が開かれるようになり、刑務所が閉鎖されるまで70年近く続けられました。

 

内田雅也さん

「若林は、子供を宝だとよく書き残しています。少年の輝く瞳を見て、この子たちの将来に日本の再建を託したいと。それこそ青少年の善導に野球が役立つんじゃないかと思っていたんですね。」

 

昭和28年、通算237勝をあげた若林は45歳で引退。昭和39年、がんにより57歳で亡くなりました。

 

 

若林の思いは現在も受け継がれています。平成23年、阪神は優れた社会貢献をする選手に贈る、「若林忠志賞」を設立。昨年は障害児入所施設などの訪問を行っている、北條史也選手が受賞。「この賞にふさわしい人間となれるよう頑張っていきます」とコメントしました。

そして、景浦、若林の現役時代を知る杉下茂さん、93歳。「多くの命と可能性を奪う戦争は、2度と起こしてはならない」と力強く語りました。

 

杉下茂さん

「戦争さえなかったらね、(景浦のような人が)戦死したというのは、もったいないね。今はどこの球場でも満員でしょう。その満員の中で野球をやれる、こんな幸せなことないですよ。だからお客さんがあきれないような野球を、大いにやってほしいですね。」

 

関連キーワード

関連トピックス

最新トピックス

RANKING人気のトピックス

アクセス数の多いコンテンツをランキング形式でお届け!