軍事侵攻に翻弄されるスポーツ界

ロシアによるウクライナへの軍事侵攻が始まった1年前。私がそのニュースの一報を知ったのは、北京パラリンピックの取材のため、現地に向かう準備に追われているさなかでした。にわかには信じられないような映像が次々とニュースで流れる現実に、パラリンピックはどうなってしまうのか、スポーツ界のこれからはと、さまざまな思いが頭をよぎりました。

あの日から1年。

侵攻の終わりが見えないなかで、スポーツ界もまた翻弄される日々が続いています。
(※2023年3月6日スポーツオンライン掲載)


侵攻直後に開催された北京パラリンピック


去年(2022年)の3月、パラリンピックが開催された中国で私を待っていたのは、本来予定していた競技の取材とは、かけ離れたものでした。
軍事侵攻を始めたロシアとそれに協力するベラルーシに対して、IOC=国際オリンピック委員会が国際大会から除外することを表明。これを受けて、パラリンピックの開幕を直前に控えていた、IPC=国際パラリンピック委員会も、急きょ、両国の選手に対し中立的な立場の個人としてのみ出場を認めると決めたのです。

IPCパーソンズ会長のオンラインインタビュー取材(北京パラリンピック開催中)

これに対して世界的に反対の声が上がりました。

「侵攻が続く中で、両国の選手を出場させるのか?」

IPCの対応は素早いものでした。当初の「中立であれば出場を認める」という方針を翌日すぐに撤回し、両国の選手たちの出場を認めない決定をしたのです。すでに両国の選手たちは会場入りし、本番に備えた練習をしていました。

中立の立場で出場を目指していたRPCの選手(左) 開幕前に選手村に掲げられていたRPC旗(右)

国旗などを隠すことを求められ、ユニフォームにテープを貼って練習していたベラルーシやロシアの選手たち。彼らは4年間かけて目指してきた舞台を、突然失うことになったのです。それでも、当時の世論を考えればしかたがない対応だったのかもしれません。あのままスポーツ界だけが、両国の選手の出場を認めて、大会で競い合うというのは、とても無理だという空気感がありました。


出会ったウクライナの選手たち


クロスカントリースキーとバイアスロンを担当していた私は、両種目の強豪ロシアとベラルーシが出場しなくなったことで、競技の取材にも大きな影響がありました。そしてその2種目ではウクライナも世界的な強豪です。

祖国への侵攻が続く中、パラリンピックでウクライナの選手たちは躍進しました。メダルを獲得した選手たちは、自身の成果よりも「平和」や「戦争をやめてほしい」と口々に訴えていました。

その会場で、私は、ある選手との出会いが印象に残りました。

ユリア・バテンコワ バウマン選手

ユリア・バテンコワ バウマン選手。パラリンピックで過去に14のメダルを獲得しているトップ選手です。ロシアによるクリミア半島への侵攻に関連した事故で右腕を失った彼女が、インタビューで語ったことばが耳から離れませんでした。

<ユリア・バテンコワ バウマン選手>
「祖国にいる家族との電話の向こうで銃撃や戦闘機の音が聞こえる。毎日悪夢を見て眠れず競技どころではない」

娘と夫との写真

当時、激しい攻撃を受けていたキーウには娘のズラータちゃん(8歳)と足が不自由な夫のミコラさん(43歳)を残していました。

ズラータちゃんが描いた絵

大会中にズラータちゃんから届いたのは、中心が真っ黒に塗りつぶされた爆弾の絵でした。私は、生まれたばかりの息子と妻を残してきた日本が、もし同じ状況に陥ったら、と、話しを聞きながら背筋が凍る思いがしたのを覚えています。バテンコワ バウマン選手はレースに出続けたものの本来の力を出し切れず、最後まで暗い表情が晴れることはありませんでした。


「メダルよりも家族の命」


北京パラリンピックのあと、キーウの自宅に戻り家族との再会を果たしたバテンコワ バウマン選手でしたが、そこにあったのは、すっかり変わってしまった世界でした。

ロシア軍のミサイルが自宅近くのショッピングモールを破壊し、流れ弾が自宅マンションの壁やテラスの一部にも当たりました。命が脅かされるような状況が続く中で、もはや「スポーツを続ける」ということは考えられず、競技から身を引くことを考えるようになったといいます。

<ユリア・バテンコワ バウマン選手>
「メダルよりも家族の安全と健康が最も大切なものでスポーツやそれ以外のすべてのものは背景に薄れ重要ではなくなってしまいました。想像を絶する状況で、当時のことを話すだけでもショックが大きく涙が出てきます。そこにあったのは絶望だけでした」


「すべてが崩壊した」


北京パラリンピックの後 フィンランドにて

その後、ウクライナのパラリンピック委員会などの支援を受け、家族でフィンランドに避難することができたため、環境は変わったものの平穏な日常は戻ってきました。しかし、祖国では激しい戦闘が続き、スポーツ選手や関連施設の被害も拡大していきました。

軍事侵攻から1年でウクライナでは、これまでに少なくとも220人の選手や指導者が死亡し、340以上のスポーツ関連施設が被害を受けました。

<ユリア・バテンコワ バウマン選手>
「本来なら生きていてスポーツで結果をだしているはずの若いアスリートたちが平和を守るために祖国を守るために死んでいったことがとても辛く悲しい。スポーツにすべてをかけてきましたが、軍事侵攻が始まり目の前で世界がひっくり返ってすべてが崩壊しました。スポーツをする上で平和というものはなくてはならないものです」


スポーツ選手としてできることは


競技を再開したバテンコワ バウマン選手

「祖国のために何かしたい」

避難先での生活に慣れるにつれて、バテンコワ バウマン選手は、その思いを強くしていきました。スポーツ選手として、自分が祖国に対してできることは、スポーツの世界で活躍する姿を見せ続けること。それが、祖国の人々の勇気につながるのではないかと考えたといいます。

<ユリア・バテンコワ バウマン選手>
「生活が安定すると、スポーツが自分の中でまだ生きている、諦めるわけにはいかない、という思いがわいてきました。何の力になれるかはまだ分からないですが、自分に出来ることを諦めずに前に進み続けることが祖国のためになると信じています。スポーツを通して自分が平和を支持し、この戦争を望んでいないという模範として示していくしかないと思っています」


理想と現実の間で


軍事侵攻をきっかけに、国際大会から除外されたロシアとベラルーシの選手たち。いま、スポーツ界では両国の選手を国際大会に復帰させることが検討されています。

IOCのバッハ会長は「誰が大会に参加するかを決めるのは政治ではない」と訴えています。

こうした動きにバテンコワ バウマン選手は、もどかしい思いを抱えています。

<ユリア・バテンコワ バウマン選手>
「ウクライナでは常に危険な状態が続き、恐ろしいことに罪のない人々の命が失われ続けています。ロシアの選手の中にも戦争に反対する人もいるかもしれませんが、何も発言しない人や戦争を誇らしく思っている人までいます。復帰を決めるのは他国の関係のない人たちですが彼らと競争することは私たちにとってはとても辛いことなのです」

軍事侵攻に終わりが見えない中で、スポーツ界だけが、かつて競い合っていた時のように戻ることができるのか。
そうした思いは、将来にわたって残る可能性もあります。
それでもバテンコワ バウマン選手は、あくまでスポーツ選手として、その現実に向き合う覚悟を話してくれました。

<ユリア・バテンコワ バウマン選手>
「平和になったからといってかつてのように純粋な気持ちで彼らと競い合うことは難しいと思いますが、私は恐れません。彼らがパラリンピックに出場することになれば私たちは競うしかないのです。ロシアに対する憎しみはもうありません。ただこの戦争が1日も早く終わることだけを願っています」

国と国の戦いを前にして、スポーツは、平和があって初めて成り立つものだということを強く考えさせられました。いまも人々の命が奪われ続けるような状況の中で、スポーツがどのような役割を果たせるかはわかりません。ただ、絶望するような現実を前にしても、スポーツの力を信じ、前を向いて生きる、バテンコワ バウマン選手の言葉は、私の心に響きました。

いつか、わだかまりを超えて、選手たちが競い合える日が訪れること。

その日まで、彼女が滑り続けられること。今はただ、それを願うことしかできません。


この記事を書いた人

細井 拓 記者 平成24年 NHK入局

北見局、釧路局、札幌局を経て、スポーツニュース部。
陸上、バレーボールなどの競技のほか、IOCなどオリンピック・パラリンピック関連の取材を担当。素潜りや山登りなど北海道勤務時代に覚えた自然遊びが趣味。