ストーリー野球

追悼:野村克也さん 江夏豊が語るふたりの「革命」

2020-02-25 午後 07:41

2月11日、日本のプロ野球に大きな足跡を残した、野村克也さんが84歳で亡くなりました。「野村再生工場」と呼ばれ、ピークを越えたと言われた選手を再び活躍の場へと導いた指導者でした。

阪神、広島などで一時代を築いた名投手・江夏豊さんも、野村さんとの出会いによって新たな輝きを放った一人です。

江夏さんが語る、野球人・野村克也。サンデースポーツ2020では放送されなかった未公開インタビューを含む特別版です。
(インタビュー中敬称略)

大恩人 野村克也

野村克也さん

江夏豊は13歳年上の野村克也を、親しみを込めて「おっさん」と呼ぶ。

 

「寂しいですね。あの元気なおっさんが…。」

突然の訃報から4日後の2月15日、急遽インタビューの時間を設けてくれた江夏の口からは、何度も寂寥の言葉がこぼれる。ふたりが共にプレーしたのは昭和51年と52年、南海での2シーズンのみ。だが、その期間の長さでは測れない濃密な関係が、二人の間にはあった。

 

江夏豊さん

「一言で言えば恩人、大恩人ですね、僕にとっては。自分の野球人生を大きく変えてくれた。リリーフという仕事を与えてくれたのがあの人でしたからね。」


――あなたが見た、野球人・野村克也の姿を聞きたい。

 

そう尋ねると、江夏はふたりの「革命」の日々を克明に語り始めた。時計の針を、ふたりの人生が重なり合った昭和50年、そのシーズンオフに戻す。

昭和50年オフ 食事会でのひと言

27歳の江夏豊は怒っていた。

高校卒業後に入団した阪神タイガースで、押しも押されもせぬエースとして活躍。巨人のV9時代、王貞治と長嶋茂雄にも真っ向勝負を挑み続け、最多奪三振など数々のタイトルを獲得してきた。しかし20代後半に差し掛かり徐々に成績が下降。その実力に陰りが見え始め、ついにはトレード話が持ち上がる。その行き先の球団が、40歳の野村克也が選手兼任監督を務める南海ホークスだった。

 

当時野村は南海で監督・捕手・4番バッターを務めていた

江夏は当初、このトレード話に全く乗り気ではなかった。

 

「自分の腹の中では、『なんで俺が阪神を出されるんだ、阪神が俺を出せるわけがないだろ』と思っていましたよ。自分は『阪神の江夏』で終わるんだという気持ちが強かったですね。」

首脳陣との対立にうんざりしていたとはいえ、縦縞のユニフォームへの愛着は揺らいでいない。その自分がまさかトレードとは。球界屈指の人気球団・阪神のエースとしてのプライドがそれを許さなかったのだ。だが、最終的に江夏は彼いわく「野村の戦術」によって翻意することになる。その場所は、共通の知人を介してセッティングされた食事会だった。

 

「振り返ってみるとね、野村監督の戦術にきれいに引っかかったんですよ。ある新聞記者の方から『南海に行くか行かないかは別にして、野村監督と食事でもしようや』って言われてね、大阪で会ったんですよ。その時の自分は野球の話には飢えていたんですけど、余分な話はしたくないなという気持ちが強くて。『多分一緒に飯食ったら、南海こいや、一緒に野球やろうや』と言われるんやないかと、それが嫌で嫌で仕方なかったです。」


しぶしぶ参加した食事会。そこで野村が発した第一声が、江夏の心を大きく揺さぶった。

「おい江夏、お前あのボール、意識して放ったやろ。」

 

「え?って思って。その第一声で入ってこられた時、顔面をバーンと殴られた気がしました。」

 

あのボールとは、昭和50年10月の阪神対広島戦、江夏が阪神で最後に勝利投手になった試合での一球のことだった。ピンチの場面で迎えたバッターは、「鉄人」と呼ばれた強打者・衣笠祥雄。カウントはスリーボールツーストライク。ここでピッチャー江夏は、「あえて」ボール球を投じたと言う。

 

 

「当時はカープ赤ヘル軍団絶頂の時ですよ。バッターは衣笠。ツースリーからインハイに放ったボール球に彼はものの見事に空振り三振。それが意識して放ったボール球だったんです。これこそ自分がプロで10年やって来て覚えた技術だったんです。まさかそんなシーン、見ていると思わないじゃないですか。『あれ、こんな所も見ているのか、さすが野村監督だな』と。僕にとって、あの一言はすごくうれしかった。自分のタイガース最後の勝ち星のシーンを、野村監督が見ておられた。もうそれからは野村監督の言葉一つ一つが、僕にとってはすごく新鮮で刺激的でね。自分が失いかけているものを引き戻してくれるように思いました。そうして、僕はきれいに野村監督の“戦術”に引っかかったわけです。」


野村の深い洞察力に心動かされ、江夏は南海移籍を受け入れた。

 

江夏のトレード会見。野村監督は笑顔

ドン底の江夏へ 野村の打診

とはいえ、江夏の南海1年目は彼曰く「投手としてドン底の時代」だった。

 

「前年まで阪神で2年連続12勝していたのに、半分の6勝でしたからね。先発完投していたころは100球でも120球でも放れたんですけど、その時はもう本当に球数にして30球、それ以上はほとんど生きたボールが投げられない。期待されて南海でお世話になったのにね。野村監督は僕の球を受けながら、『これがかつての江夏か』って、寂しい思いをしたんじゃないですかね。」

 

 

監督兼捕手の野村は、江夏のボールを受けながら頭を巡らせた。江夏に長いイニングは任せられない。しかし30球なら投げられる。ならばリリーフではどうか。投げられる30球で終盤の1イニング、ないし2イニングを任せるピッチャーになってはどうか。しかしこの打診にも、江夏はなかなか首を縦に触らなかった。エースとしてマウンドに上がり続けてきたプライドを、ここでも消し去ることができなかった。

 

「いかんせん僕は、ピッチャーとはやっぱり先発完投して“なんぼ”や、という考えでしたからね。リリーフは先発ができない、まあ悪い言葉でいうと“落ちこぼれ”。当時は力のあるピッチャーはみんな先発という時代でした。まあ、自分がこれから野球界でメシを食うためにはそれしかないということは、自分ではわかっているんですよ。ただ自分じゃわかっていても、人間というのはワガママで頑固でね。自分の弱点をつかれるとすごく悔しいんですよね。自分はリリーフに転向するんだと、自分で自分を騙せないといいますか。だから『お前は30球しか投げられないんだから、その30球を何とか生かそう』という言葉を聞いても、『はい、そうですね』と素直に聞けなかった。」


それでも、野村はあきらめなかった。

「革命を起こしてみろ」

当時、野村と江夏は同じマンションに住み、家族ぐるみの付き合いをしていた。大阪球場での試合を終えて家に帰ると、ふたりは野村の部屋に集まり毎日のように語り合っていた。その日の試合、江夏の投げたボール、野村のリードの根拠。なぜ打たれたのか、なぜ抑えられたのか。明け方まで続くふたりだけの野球談議。野球について語る事が大好きだという江夏にとって、何よりの楽しい時間だった。この場所で、野村は江夏を根気強く説得し続けた。

 

「いやあ、監督とはよく話しましたね。チームが勝った時は機嫌がいいから根気よくしゃべりますけど、機嫌が悪いときは一言もしゃべらん、こっちも一言もしゃべらん。どちらかといえば不愛想でぶっきらぼう、そういう性格していますから。2時間3時間たってもお互いに一言もしゃべらんで、ただ灰皿のたばこだけが山ほど積まれていく、そういう日々が何日か続きましたね。」

 

 

そして、説得を初めて3カ月ほどたったある日の明け方。江夏に再生のきっかけを与え、のちに日本のプロ野球の歴史を動かすことになる、野村の言葉が生まれる。

「おい豊、この野球界に何かひとつ、新しい革命を起こしてみろ。」

 

 

「『監督、革命って何?』って言ったら、『野球界に新しい自分のルール作ってみぃ』って。男にとって“革命”という言葉は大変魅力のある言葉ですよね。野村監督は『豊、これからの野球は変わるんだぞ。1人のピッチャーが1試合投げ抜くのは大変な時代だ。これからの強いチームは、先発・中継ぎ・抑えというものが確立されたチーム。そうすれば優勝できる確率は高くなる』と言っていました。」


先発完投を目指すのが当たり前の球界に、リリーフ専門職として革命を起こそうという提案。江夏は、首を縦に振った。

江夏の再生とリリーフ革命

昭和52年、南海2年目の江夏は抑えとして新たに輝き始める。本格的にリリーフに転向し、投げられる30球を最大限に生かした。参考になる前例が日本にはほとんどいないため、友人やマスコミなどあらゆる手を使ってアメリカ・大リーグの情報を入手。調整法や心構えなど江夏なりのリリーフピッチャー像を自ら作り上げていった。

 

 

この年、江夏は最優秀救援投手のタイトルを獲得。リリーフは落ちこぼれがやるものではない、力ある専門職がやるものだ。江夏はそのパイオニアとなり、のちに「野村再生工場」といわれる手法の第1号となった。

だが、この話には後日談がある。のちに野村は、「革命」の言葉を発したときにどんなことを考えていたのか、正直に江夏に明かしたという。

 

「その日は夜12時半から話し始めて、もう5時半か6時くらいでしたね。野村監督にしてみたらボチボチ眠たくなってきたし『こいつ、はよ帰って寝やへんかな』と思いながらポッと出た、『革命を起こしてみろ』って。本当に偶然に出た言葉らしいんですよ(笑)。まあでも先見の明といいますかね、事実その通りになっているわけですし、やっぱり素晴らしいものを持っておられる方でしたね。」

野球に捧げた人生 野村克也へ

昭和52年オフ。野村と江夏、南海での二人のバッテリーは2年で終わりを迎えた。
まず野村が監督の任を解かれ退団。現役にこだわってロッテ、1年後には西武へと移籍し「生涯一捕手」として45歳までプレーした。江夏も野村と時を同じくして南海を去り、広島に新天地を求めた。その後も江夏はリリーフ専門のピッチャーとしてキャリアを重ね、最優秀救援投手のタイトル獲得数は史上最多タイの5度。日本ハム、西武と渡り歩き、最後は大リーグ挑戦を目指してキャンプにも参加。36歳でユニフォームを脱いだ。

 

野村の言葉が、のちの「江夏の21球」を生んだ

そのハイライトは、やはり昭和54年の日本シリーズ・広島対近鉄の第7戦。1点リードの9回にノーアウト満塁のピンチを抑え日本一に輝いた、「江夏の21球」だろう。リリーフエース・江夏の偉業、その秘話はスポーツライター山際淳司のノンフィクションとしても世の注目を集め、のちに山際らとNHKが特集番組を制作。その番組の進行役は野村が務めている。

野球人生の底にいた江夏を球史に残るピッチャーへと再生させたのは、まぎれもなく野村克也だった。彼が江夏にかけた、ふたつの言葉だった。

「おい江夏、お前あのボール、意識して放ったやろ。」

「おい豊、この野球界に何かひとつ、新しい革命を起こしてみろ。」

 

ふたりの「革命」は、現代の野球界の礎となっている。

その後も卓越した野球理論と言葉の力で、次々と選手の才能を開花させた野村克也。84歳で、野球にささげた生涯を終えた。

 

 

野村を「おっさん」と呼ぶ江夏も71歳となった。2年前には広島時代からの盟友・衣笠祥雄を亡くした。そして今年、野村も。

 

「俺が死んだら、誰がこういうインタビュー受けるのかな…。もう用意しとかんといかんな。やっぱり田淵(幸一)君かな。もう一人のライバル、鈴木啓示かな…。」


寂しげに遠くを見つめる江夏。インタビューも終わりに近づいた時、自らが憧れた男たち、共に戦ったプロ野球界のレジェンドたちに思いを馳せる。

 

 

「僕の野球人生を振り返ってみて、野村克也という人は外すことができないです。投げる方では金田正一さん、打つ方では野村克也さん、そして巨人の王・長嶋。そういう人たちを見て僕らはグラウンドで野球をやってきたんです。去年金田さんもいなくなった、おっさんもいなくなった。本当に寂しくなりますね。」


そして、改めて繰り返した。インタビューのひと言目で語った野村への思いを。

 

「僕にとりましては、やっぱりあの人は大恩人です。」

 


(終)

 

サンデースポーツ/サタデースポーツ

この記事を書いた人

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大越 健介 キャスター

昭和60年NHK入局、初任地は岡山局。政治部の記者、NW9キャスターなどを経てサンデースポーツ2020キャスター。
"スポーツをこよなく愛する親父"の代表として自ら楽しみながら伝える。

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