ストーリーバスケットボール

コービー・ブライアントの真実 ~ある元チームメイトの回想~

2020-03-06 午後 06:42

1月26日、コービー・ブライアントが亡くなった。ヘリコプターの墜落事故により、41歳の若さでこの世を去ったNBAのレジェンド。その死を悼む声は世界中で止まない。バラク・オバマ前アメリカ大統領、ゴルフのタイガー・ウッズ、サッカーのアンドレス・イニエスタ…。
世界中を魅了したコービーとは、どんな人間だったのか。当記事では、ある元チームメイトの言葉からたどっていく。現在Bリーグ・サンロッカーズ渋谷でプレーするライアン・ケリー、28歳。コービー現役最後の3シーズンをともにプレーし、その姿を間近で見てきた男だ。

当時ルーキーだったケリーの言葉から、コービー・ブライアントの素顔に迫る。

深夜のNBA中継で

 

コービーの訃報が世界に伝えられた後、アメリカのNBAなど世界各地のバスケットボールの試合では、彼の背番号にちなみ「24秒バイオレーション」、「8秒バイオレーション」の反則が意図的に行われた。それは日本のBリーグでも。コートには追悼のブザーが鳴り響いた。


「僕が最初にコービーのプレーを見たのは、いつだったろう。僕の家は東海岸だったから彼の試合を見るのはいつも深夜だったけど、毎晩親に隠れてテレビを見ていました。最初に頭に浮かぶのは、いつも勝つためにプレーする彼の姿。どんな時も手を抜くことなくハードに戦っていた。彼が相手に立ち向かっていく姿を見た日々を、僕はずっと忘れないでしょう。」

 

コービーは高卒でNBA入り。一躍スターへ駆け上がった

 

およそ20年前の記憶を語る彼の名前は、ライアン・ケリー。サンロッカーズ渋谷のフォワードで元NBA選手。コービーに憧れ、コービーと共にコートに立ち、そして私たちと同じように突然の訃報に涙した男だ。


「彼の訃報を聞いた時、その朝はハッと目が覚めて携帯を手に取ったんです。画面の真ん中にヘリコプター事故のニュース速報が出ていました。ただただ大声で叫んでいたように思います。ショックで何が起こったのか理解できていませんでした。僕だけでなく、彼と一度も会ったことのない世界中の人々ですら悲しみに打ちひしがれている。そんな偉大な男とチームメイトだったということは、どれほど幸運なことだったのか。」

 

元レイカーズ ライアン・ケリー選手

 

ケリーは1991年生まれの28歳。ニューヨーク州にある小さな街で生まれ育ち、その後名門・デューク大でプレー。2013年のドラフトでレイカーズに入団、3シーズンをロサンゼルスの地で過ごした。この3シーズンはコービー現役最後の日々と重なる。かつての強さを失い低迷期にあったレイカーズ。コービー自身ケガを繰り返し、コートに立つ回数は決して多くはなかった。しかし、ルーキーだったケリーは間近で見た。コービー・ブライアントがレジェンドたる所以を。

「自己中心的」なレジェンドの素顔

コービーの偉業、記録をあげると枚挙にいとまがない。レイカーズで優勝5回、シーズンMVP1回、ファイナルMVP2回、得点王2回、オールスターMVP4回。何より高校卒業後に入ったレイカーズのユニフォームを20年に渡って着続けることだけで、賞賛に値するだろう。

 

 

ドリブル、パス、シュートどれをとっても一級品。超攻撃的なプレーでチームを勝利に導く。一方でそのプレーは時に「自己中心的」と批判の的にされ、チームメイトとの不和が報じられることもしばしば。結果は出すが付き合いづらいスター。そうしたイメージで語られることが多かった。

2013年。レイカーズへやってきたルーキー、ライアン・ケリーは興奮していた。幼いころから憧れてきた偉大なコービーとプレーできる。そして彼と直接会って感じた印象が、世間で言われているネガティブなものと全く異なっていたのだ。


「彼は確かにアメイジングなバスケットボール選手でしたが、その前に彼は僕にとって“ひとりのチームメイト”でした。とても親切で、いつも僕に話しかけてくれた。バスケに関することもそれ以外のこともね。当時の僕は実家から遠く離れたロサンゼルスにやってきて独り立ちしたばかり。その最初の3年間、コービーと共に過ごしました。コート上、ロッカールーム、ベンチ、どんなところでもね。今でも忘れられません。」

 

レイカーズ時代のケリーとコービー

 

「例えばこんなことがありました。ある日僕がチームメイトと夕食に行こうとしていた時、宿舎から出るとコービーに声をかけられました。『なあ、アイスホッケーのチケットがあるんだけど、これからみんなで一緒に見に行かないかい?』ってね。彼はチームの一員であり続けたかったんだと思います。あれだけ偉大な、どんな試合でも思い通りにプレーした彼でもね。当時のレイカーズは再建期で成績はパッとしませんでした。コービーも大きなケガをしていましたが、いつもチームがひとつになることを考えていたんです。」


そしてケリーは、大きな壁にぶつかった自分に、コービーが手を差し伸べてくれた思い出を語った。

 

コービーの引退試合

 

「コービーは、僕がケガをした時に真っ先に助けてくれたんです。僕は2年目のシーズン、ハムストリングスを肉離れして断裂する大けがを負いました。もちろんレイカーズの医療スタッフもサポートしてくれましたが、コービーは僕が早く治るようにと、個人的に治療を受けている専門家を紹介してくれたんです。本当に親切な人だと思いました。おかげで僕はカムバックすることができ、以来ハムストリングスのけがはしていません。」


孤高の天才というイメージとは全く異なる、チームの一員であろうとする素顔のコービー・ブライアント。ただ、ケリーは付け加える。コート上でのコービーの姿にこそ、彼がレジェンドたる本質があると。


「コービーはコートに入れば、ただ勝つことだけを見ていました。」

自分を信じる力

コービーのプレースタイル。それは常に自ら得点を狙い、たとえ周りにフリーの選手がいても、強引ともいえるドリブルやシュートを狙っていくもの。数々のスーパープレーで世界中に熱狂的なファンを生んだが、同時に「アンチ」も多い選手だった。

 

 

そのプレースタイルを、コービーはキャリアの晩年でも変えることはなかった。ケガでかつてのような華々しいプレーができなくなっても、批判をはねのけるだけのメンタルを持っていた。その理由を、彼のそばにいたケリーはこう考えている。


“自分を信じる力”ではないでしょうか。信じがたいほどの自信を彼は持っていました。彼だってシュートをミスすることはありました。でも次のシュートは入るといつも信じていた。どんなプレーヤーでも頭の中ではそう考えますけど、彼は本気でそう信じていたのだと思います。だからフリーの味方にパスするより自分がシュートを打った。」

 

 

「それは自分勝手ということではなくて、純粋に彼がベストプレーヤーであったからです。彼は『俺は勝つために必要なことは何でもしている』と言っていました。勝って、勝って、チームを優勝させてきた。そして彼はどんなにたくさん得点しても、試合に負けたら全く喜びませんでした。勝つことが全てだった。私が思うに、周りが何と言おうが『試合に勝てば誰も文句を言えないだろう』と考えていたのだと思います。」

 

チームの勝利こそ全て。そのために自分はコートに立っている。試合に出てシュートを決めるために必要なことは何だってやるという意欲。ケリーいわく、そうしたコービーの姿勢は引退のその日まで決して変わらなかったという。その真髄を、若きライアン・ケリーは間近で体感していた。

伝説の1試合81得点

“ブラックマンバ”。ヒーローというよりヒール(悪役)のようなこの異名は、コービー・ブライアント自らがつけたといわれている。狙いを定めたら確実に獲物をしとめる毒ヘビ。時に嫌われ者になりながらも多くの獲物、つまりタイトルを獲得してきた彼を体現する姿かもしれない。コービーが引退まで貫いた信念は、その異名にちなんでこう呼ばれている。

 

“マンバメンタリティ”。

 

引退後にNBA公式インタビューでコービー自身が語ったところによると、その意味は「最高の自分を見せるために、前に進み続ける」ということ。この信念が強く表れたのが、今も語り継がれる2006年1月のトロント・ラプターズ戦。NBA歴代2位となる1試合81得点の偉業だ。

 

 

当時コービーは27歳。後に手術をすることになる右ひざの負傷を抱え、サポーターを巻きながらプレーしていた。常にリードを許す展開の中で、仲間を鼓舞するようにシュートを決め続け、レイカーズは逆転勝利をあげた。

ケリーがこの試合を目撃したのは14歳の時。その後彼と共にプレーする中で、ケリーはマンバメンタリティとは何たるかを理解したという。


「彼はただ得点し続けた。それがマンバメンタリティなのだと思います。ほとんどの選手は1試合で30点とか40点取れば満足するものでしょう?自分に満足せず発破をかけ続けなければ、81得点なんてできないですよ。彼は限界を受け入れることをしなかった。あの試合こそ彼のキャリアを物語る縮図のようなものだと思います。」


――彼と共にプレーしたあなたにも、マンバメンタリティは息づいていますか?
わたしたちはケリーに尋ねた。

 

引退したコービーが来日した際、久々に再会したふたり

 

「もちろん。絶対に意識し続けます。もしハーフタイム前に大量得点していても『まだまだ、進み続けろ』と言うようにしていますよ。それをマンバメンタリティと言ってしまっていいのかはわかりませんけど。でもそれはコービーが僕に少しずつ身に着けさせてくれたものですから。」

常に最高の自分を

常に最高の自分を見せ続けることにこだわったコービー。その陰には、たゆまぬ努力があった。現役時代のコービーは圧倒的な練習量を誇ったことで知られている。ケリーが目撃した印象的な姿がある。


「僕が一番乗りでロッカールームについて照明を点けようと思ったら、もうそこにコービーがいた。そんなことが何回もありました。僕は新人でしたから、自分が一番に練習場に入るようにしていたんですけどね。」

 

 

「彼はほんの少しだけ、天から授かった原動力のようなものを持って生まれてきたのだと思います。コートに一歩足を踏み入れたら、どんな時もギアが上がった。NBAは82試合もありますからシーズン中の練習時間は短いんです。でもいつも手を抜かなかった。シュート練習でもゲーム形式でも、みんな嫌いなフットワークの反復練習でも。もちろんプロのバスケ選手はみんな一生懸命に練習していますけど、コービーはもう一段上のレベルにいましたね。彼はキャリアの晩年ケガを抱えていましたが、その間も体のケアをしながら動画でプレーの研究をしていましたから。いわば彼は“練習の虫”、世界中を探しても彼ほどの選手はいませんよ。様々な犠牲を払いながら、彼は自分が最高の姿であり続けたのです。」

 

コービーはいつもコービーだった

コービーの訃報に際して、世界中の人々がSNSなどで哀悼の言葉をつづった。そこにアメリカという国や、NBAという競技の枠はなかった。コービー・ブライアントはただのバスケットボール界のスターではない。唯一無二の存在感を持つ男だった。ケリーはそう考えている。

 

 

「時代という点で見ても、彼は完ぺきなタイミングで現れましたよね。インターネットの普及と共に、世界中の人々が彼を知りましたから。彼は純粋で全く妥協しないビッグスター。才気にあふれてスマートで、多くの言語を操ることができた。人々に好かれる多くの要素を持っていました。同時に嫌われる要素もね。偉大な選手というのは、世界の半分に愛され半分に憎まれるもの。つまり世界中が彼を気にしている。NBAのレイカーズという巨大なブランドの中にいながら、コービー・ブライアントはその枠を超える存在でした。そこまで上り詰めたプレーヤーはほとんどいない。コービーは、どんな時もコービーだったのです。

NBAという枠を超えた存在、コービー。彼と過ごした3年間がケリーの今を形作っている。このインタビューの間、ケリーは何度も同じ言葉を繰り返した。

 

 

“I'll never forget him. ”

「僕は決して彼を忘れることはないでしょう。」

マンバメンタリティとは生き方である

 

2月24日。コービー・ブライアントの追悼式典が行われたこの日、アメリカ・ロサンゼルスの街はレイカーズのチームカラー、黄色と紫のファッションを身に着けた人々の姿であふれていた。彼らの傍らには「24」と「8」の数字。
式典ではレブロン・ジェームズやマイケル・ジョーダンらがスピーチ。今は亡きNBAのレジェンドへ、メッセージを送った。

コービーの信念は、確かに受け継がれている。彼は引退後、ロサンゼルスに「マンバスポーツアカデミー」を開校した。エリートからアマチュア、子どもたちまで、バスケットだけでなく幅広い競技のアスリートたちが日々汗を流している。アカデミーの公式SNSに残されている数多くの画像は、若い選手と交流するコービーの、笑顔の中でも真剣な彼のまなざしを映し出していた。

生前、コービーはこんな言葉を残した。
 

「マンバメンタリティとは旅であり、生き方そのものである」。

彼が示した「マンバメンタリティ」は、今も未来へ進み続けている。

 

 


(終)

 

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