特集 中日 福留孝介選手を支えたシンプルな思い

鮮やかなブルーで「Dragons」と胸に描かれたユニフォームを着た背番号9が会見場に入ってきた。海を渡った球界最年長の45歳、日米で積み重ねたヒットの数は2450本に達する。引退会見もひょうひょうと質問に答えた。プロ生活24年、福留孝介を支えたのは“シンプルな思い”だった。
後輩思う優しさあふれるレジェンド
去年のシーズンオフの11月、私はスーツを着た大柄なひとりの選手を前に少し震えていたのを思い出す。決して好成績とは言えないシーズンを終えた契約更改の会見の場。ピリッとした空気のなか、テレビ各社の代表として福留に質問をしなければならなかった。
「下手な質問でもしようものなら怒られるのでは・・・」
阪神時代、後輩の投手を叱咤激励する姿をテレビで見た。その表情がまだ脳裏から離れなかったからだ。恐る恐る1つ目の質問をしたあと、その感覚が一気に変わった。日米通算で2400本を超えるヒットを打っているレジェンドは、目尻を下げながらニコニコと話してくれた。
福留 選手
この年になって、来年も野球をやらせてもらえることに感謝したい。ひと回りもふた回りも下の若い選手たちと同じグラウンドに立って競争ができるのが楽しみだ。個人的な目標はない。チームとして優勝争いができるシーズンにしたいし、そのなかで少しでも自分が手助けできればいい。
出てくるのは、後輩やチームを思いやることばばかり。時には優しく、時には厳しく。24年の現役生活、中日、大リーグ、阪神、そして中日と球団を渡り歩いた。優勝もMVPも経験した。逆に辛酸をなめたこともある。その経験を後輩たちに伝えてきた福留は、きっと父親のような人なのだろうと、容易に想像できた契約更改の会見だった。
後輩にとっての福留孝介は
福留は後輩が話しやすい空気を作り出すため、練習中も積極的に話しかけていた。中日で今シーズン、ブレークした選手の1人、3年目の岡林勇希も福留から守備、打撃、走塁、多くを学んだ。
岡林 選手
初めは気軽に話すことができなかったが、一緒に野球をやっていくうちに福留さんから話してくれて自分がわからないことがあれば、聞きに行ける雰囲気を作ってくれた。後輩が接しやすい先輩で尊敬している。
まさにその場面を目にしたのは、ことし5月1日の試合前だった。前のカードでバントミスがあった岡林につきっきりでバントを教える福留の姿があった。まずみずからやってみせる。そして繰り返しやらせてみる。あたかも父親が自転車の乗り方を息子に教えるように、ひとつひとつ丁寧に教えていた姿が忘れられない。
立浪監督が語る「福留孝介」
新たな若手が出てくるなか、福留の今シーズンは厳しいものになった。巨人との開幕戦は先発出場。その後も代打での出場が続くがヒットが出ない。6月には2軍に落ちた。もう気持ちがついてこなかった。そして引退を決めた。PL学園の先輩で中日に1999年に入団した福留とチームメートでもあったのが立浪和義監督だ。福留の引退について質問を受けると、肩を落としながらも「福留孝介」という選手を語った。
立浪 監督
なんとか代打で生かしてやりたいという気持ちはあったが、自分もなかなか力になれなかった。福留選手は人にない体力、練習する体力があった。野球に対して真面目で性格はいい意味で鈍感な感じ。だからこそ長くできたのかなと思う。
笑顔で穏やかな雰囲気で進んでいた引退会見で、福留が悔しさを表に出した場面は、くしくも立浪監督についてだった。
福留 選手
立浪監督の力になれなかったのが悔しい。
福留の本心が聞けた瞬間だったと思う。
24年間を支えたのは“野球が好き”という思い
9月8日に行われた引退会見。冒頭、サプライズでキャプテンの大島洋平やエース・大野雄大などが花束を渡しにやってきた。後輩の演出に福留からは笑みがこぼれた。
福留 選手
24年間ありがとうございました。
福留はすがすがしい表情で話し始めた。
福留 選手
ユニフォームを脱ぐと決めたのであまりやり残したと思うことはない。うまくいったから楽しいのではなく、うまくなりたいというその気持ちを持って野球をやれているときが一番楽しかった。
そして後輩へは…。
福留 選手
もっともっと、もっと、と思っている。ユニフォームを脱いでから後悔するよりは、あの時やっておけばよかったと思うことのないようにやってくれたらいい。
会見も終盤にさしかかり、私は「24年のプロ野球生活を支えた原動力はなにか」と問うてみた。返ってきたのは、至極シンプルなものだった。
福留 選手
単純に野球が好きだったということですね。
父親としてしばらくゆっくりしたいという福留。いつかまた球場で、ユニフォーム姿で、大好きな野球に関わる福留が見られる日を心待ちにしている。