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特集 告白・貴乃花の「相撲道」完全版 前編

相撲 2019年4月24日(水) 午後5:10

まもなく幕を閉じる、「平成」という時代。サンデースポーツ2020では、2月24日放送回で「大相撲」の平成史を振り返りました。

平成の前半、相撲ファンの心に残る多くの名勝負を繰り広げた横綱・貴乃花。この連載では、番組で紹介した元横綱・貴乃花の貴乃花光司さんのインタビューに未公開部分を含めて再構成。「平成の大横綱」の相撲道とはどのようなものだったのか。そして未来に伝えたい思いとは。大越健介キャスターが迫ります。

平成の終わり 貴乃花が語った

平成31年2月17日。都内のホテルで貴乃花光司さんへのインタビューが行われたのは、平成も残り2か月余りとなった日曜の午後のことだった。

昨年秋の、突然の日本相撲協会退職後、初めてとなるNHKの単独インタビュー。昭和の終わりに入門し、平成の中盤に現役引退。そして平成の終わりに親方としても相撲界を去った貴乃花さん。平成を振り返るとき、一時代を築いた「平成の大横綱」の胸にあるものは何なのか。約1時間のインタビューで迫っていく。

 

 

大越 ではインタビューを始めさせていただきます。よろしくお願いいたします。

 

貴乃花 よろしくお願いします。

 

大越 平成が間もなく終わります。この30年、力士として指導者として歩まれてきた時代を振り返って、今頭に浮かぶことはどんなことでしょうか?

 

貴乃花 そうですね…。平成がはじまってすぐ、皇居に行った時のことを今、走馬燈のように思い浮かべていました。私が入門して少ししてから昭和天皇が崩御されました。そこで先代の師匠が「全員で皇居に手を合わせに行くぞ」って言いまして、部屋のみんなで行ったんです。そうして始まった平成が終わり、天皇陛下が上皇さまになられる。入門したてだった私も相撲界を引退しました。並べて語るのはおこがましいですが、「時代が新しくなっていくのかな」と実感深いですね。私は入門してちょうど15年で現役引退して、親方になって15年で業界を引退することになりましたから。それに相撲界としても、稀勢の里が初場所で引退となって日本人横綱も不在となった。「ああ、平成の時代もこれでひと区切りなのかな」と思いますね。

心に残る取組は

「平成の大相撲、記憶に残る名勝負はどの取組か」。

今回サンデースポーツ2020では、平成の大相撲史を振り返るにあたり相撲ファンにアンケートを募った。その結果、数ある取組の中で多くの票を集めたベスト5のうち1位と2位、そして5位が貴乃花、もしくは貴花田の取組だった。

その取組を貴乃花さん本人に当時を振り返ってもらい、秘話を語ってもらおう。そのため大越キャスターはまず、貴乃花さん自身に1位となった取組を予想してもらった。そこで彼があげたのは三番。それはまさしくファン投票でもベスト5に入っている三番であった。

 


大越 貴乃花さんご自身では、どの取組がファン投票の1位になっていると思われますか?

 

貴乃花 えーと…。「兄弟決戦」ですかね。もしくは「千代の富士関との一番」。あとは「最後の優勝」かな。そんなところでしょうか。

 

大越 実は今2番目に挙げられた、貴花田が前頭筆頭時代に横綱・千代の富士を破った一番。これが1位でした。

 

貴乃花 そうですか。

 

平成の初頭。大相撲界をけん引していたのは、千代の富士、北勝海、旭富士ら昭和から活躍する横綱たちだった。

平成3年夏場所。入門3年目の18歳、前頭筆頭の貴花田はこの場所の初日で、国民栄誉賞を受賞した昭和の大横綱・35歳の千代の富士と対戦することになった。この一番が時代を動かすことになる。取組前日、報道陣に囲まれた横綱は余裕を感じさせる表情でこう語っていた。

 

横綱・千代の富士

「まだもう少しね、邪魔をしてやろうかなという気持ちですね。」

 

迎えた夏場所初日。
貴花田は千代の富士に真っ向勝負を挑む。立ち合い、横綱にいきなり右を差されながら、低い体勢で懸命に前へ出続ける。横綱が一瞬引いたところ、一気の攻めで寄り切った。これが、大相撲史上最年少となる18歳9か月での金星だった。

 

 

貴乃花 あの時自分は前頭筆頭で、なんとなく場所前から「初日に横綱(千代の富士)と当たるんじゃないか」という記事が新聞に出てたんですよね。2日前になって割が部屋に届いた時に「あ、やっぱりそうなんだ」って。まあとにかく胸をお借りするつもりでいこうと思いました。当日の朝、稽古場でも師匠から特に何も言われることもなかったです。今考えると師匠のほうが緊張した顔されてたかな、と推察はできるんですけどね。

大越 なぜ師匠の先代貴ノ花さんは緊張されてたんでしょうね?

 

貴乃花 たぶん我が子が相撲を取るだけでもドキドキするのに、ましてや千代の富士関と初日に当たるとなって、「この子はどういう相撲を取るんだろう」とか考えていたのかなと思うんです。いつもでしたら朝稽古でその日の一番に向けての指導を受けるんですけども、その時は何も言われなかったんです。それがちょっと違和感でしたが、私としては逆にもうやるしかないなと。

大越 取組の内容ですが、あれは確か右を差されながら終始攻めて寄り切った形でしたよね。

 

貴乃花 気持ち的にはもう、ぶつかり稽古で胸を借りるようなつもりでした。とにかくそのことばかり考えていて、技のことは考えられませんでした。その結果、偶然にも勝利を収めただけなんですけれども。

千代の富士からの言葉

貴花田の金星から2日後。

「体力の限界…。」という涙ながらのひと言と共に、昭和の大横綱・千代の富士は引退を表明。その会見上、横綱は自らを倒した若者を評し、こう語った。

千代の富士

最後に貴花田と当たってね、やっぱり若い強い芽が、ずいぶん出てきなたということを思いながら。ちょうどいい潮時だな、みたいな感じがありますね。

 

この昭和の大横綱から贈られた言葉が、その後の自分を大いに奮起させることになったと、貴乃花さんは語りはじめた。

 

 

貴乃花 千代の富士関が引退される時「若い力、芽が出てきた。これで引退できると思いました」と言ってくださった。その時、我々の世代があとを引き継いで角界を盛り立てていかなきゃいけない。実力をもっとつけなければならないと感じたことは、今でも覚えています。

大越 あの金星で、まさに相撲界全体から非常に熱い注目を浴びたわけですよね。さらに「昭和の大横綱」の引退というタイミングが来る。その時ご自身に、プレッシャーや重圧は感じられませんでしたか?

 

貴乃花 いや、若いときから重圧は本当になくてですね。稽古場で汗をかけば重圧もとれるというような感覚でした。実は入門した頃、自分は関取になるのが精一杯、もしかしたら十両にも上がれないかもしれないと思っていました。「5年やってダメだったら…」という気持ちでね。だからなんとか5年で、少しでも芽が出るようにやらなければと思ってやっていたように思います。だから2年目に関取になるのを決めた時は、「ああ、十両に上がれるんだな」って嬉しかったですよ。5年間という期限を決めていたそれまでの自分を、ひとつ乗り越えられたといいますか。

 

フィーバーの中で貫く「相撲道」

貴花田の勢いはその後もとどまる事を知らない。

平成4年初場所、19歳で史上最年少優勝を達成。この年は初の年間最多勝も獲得し、翌平成5年初場所後に大関昇進。しこ名を「貴ノ花」、のちに「貴乃花」へと改めた。女性ファンも急増し、兄の若花田(後の若乃花)とともに「若貴フィーバー」と呼ばれる、空前の大相撲ブームを巻き起こした。

 

 

まだ20歳になろうかという時期に、稽古でも巡業でも常にカメラと女性ファンがついて回る。時に相撲と関係ないところで話題にのぼることに、貴乃花さん自身「フィーバー」には違和感を感じていたと率直に語る。若くして注目を集めたゆえに、アスリートが「自分を勘違いしてしまう」というエピソードはしばしば聞かれる話だ。しかし貴乃花さんは、そうした喧噪に飲まれることはなかったという。なぜならば。当時から胸の内にあり揺らぐことのない、師匠の教えがあったのだ。そう私たちに明かしてくれた。

 


貴乃花 私にとっては「フィーバー」という感じはなくてですね。勝負しにいく、勝負に向き合う、毎日稽古場で鍛錬する。本当にそれの繰り返しでした。逆にその繰り返しですらニュースにされてるということに、これもまた違和感がありましたけどね。まあ師匠の教えとして、「大相撲にはスターはいらない」って言われてましたのでね。

 

大越 おお、「スターはいらない」。

 

 

貴乃花 「職人であれ」ということです。「力士は職人であれ」と。だから技を磨くんだ。その前に心を磨くんだ。そして体力を備えるんだ。そう師匠に言われてました。

 

大越 その師匠の教えを実践することが全てだった。

 

貴乃花 はい。それができなければ力を出し切れない、そう思っていましたので。

今後も「不撓不屈」の精神で、力士として相撲道に「不惜身命」を貫く所存でございます。

 

平成6年、この口上と共に横綱に昇進した貴乃花は、この年から4年連続で年間最多勝を獲得。同世代の曙や武蔵丸の海外勢、さらに兄・若乃花らとしのぎを削りながら、優勝を重ねていった。

 


大越 お父様の師匠からいろんなことを教わってきた「相撲道」で、力士・貴乃花が最も大事にしてきたもの、ご自分が理想とされていた土俵でのあり方とはどういう姿なんでしょうか?

 

貴乃花 無言で次の世代にその後ろ姿を残すっていうことでしょうか。言葉ではなくて、行いですとか立ち居振る舞い、それを自然体で行う。そして土俵に上がれば誰を相手にしても逃げずに戦う。そういったところが私なりの「相撲道」だと考えてやってきました。

兄弟対決は「いい思い出」

大越 たくさんのアンケートを取ったところ、実は2番目に得票が多かったのも、貴乃花さんの取組でした。先程三番ほどあげた「兄弟決戦」と「最後の優勝」、どちらだと思われますか?

 

貴乃花 うーん、「兄弟決戦」じゃないかなと思うんですが・・・。

 


貴乃花さん自身が上位と予想した「兄弟決戦」。こちらはファン投票5位に入った、ファンの記憶に残る名勝負だ。貴乃花の4場所連続優勝がかかった平成7年九州場所、その千秋楽。若乃花との史上初と言われる兄弟での優勝決定戦である。結果は兄・若乃花の勝利。自身が敗れた相撲をあえて「名勝負」にあげた理由、その真意を貴乃花さんに聞くと。

 

 

貴乃花 まさか兄弟対決をするなんて考えたこともありませんでしたのでね。今となっては、ファンみなさまの記憶に残る相撲を取らせてもらったということで「いい思い出だな」とは思っていますから。でも父である師匠がやっぱり一番嫌だったのかもしれないです。今思いますとね。

 

大越 兄弟決戦、やはり忘れられない一番なんですね。ただ、ファン投票の2位は違う取組でした。

 

貴乃花 じゃあ「最後の優勝」

 

大越 その通りです。

 


15年間の現役生活で優勝すること実に22回。横綱としての「相撲道」を胸に、己の全てを土俵にささげてきた貴乃花の最後の優勝。その相撲は、まさに大相撲史に残る一番となった。

最後の優勝 あの日の秘話

平成13年夏場所千秋楽。貴乃花は前日の取組で右ひざを負傷、出場すら危ぶまれている状況だった。それでも土俵に上がるが、勝てば優勝が決まる横綱・武蔵丸との結びの一番では力なく敗戦。その武蔵丸との優勝決定戦へ臨むことになる。

 

 

いったん支度部屋に戻る貴乃花。この時国技館の花道で見せたのは、痛々しく右足をかばって歩く姿。右膝の負傷が重いものであることは誰の目にも明らかだった。それでも心にあったのは「逃げずに戦う」という横綱としての相撲道。貴乃花さんは、あの日の一番を詳細に語り始めた。

 


大越 では、ファン投票で2位だった武蔵丸関との取組、そして優勝の瞬間を振り返ります。怪我をしていた膝はどんな状態だったんでしょうか。

 

貴乃花 右膝の半月板の外側が、ちぎれてるような状態でしたね。土俵に上がって「そんきょ」をして所作に入った時なんですけど、最初ガクっと膝が外れたような感じがしたんです。そこから仕切りをする時、膝をグルグルって回しました。「これで膝がハマらなかったら、土俵を下りなければいけないな」と思ったんですけど、なんか気力といいますか気根があったのか、それで膝がスパンと入ってくれたもんですから。

 

大越 にわかには、ちょっと信じられないようなことですね。

 

貴乃花 そういうところが逆にファンの方からは、ちょっと変わってるなと思われるところなのかもしれないですが。膝が外れた時にも自分では淡々としていました。「なんとか入れなきゃいけないな」っていうような感じですかね。まあ、やっぱり若い時から稽古してやってきて、それに体もある程度大きくなって体に負担は来ていました。だからあの怪我は、自分にとっての「最終体制」に入ったところで出た怪我だと思います。

 

大越 しかし出場するのかどうかも危ぶまれていたような状態で、土俵に上がる決断をされたのは、どうしてなんでしょうか。

 

 

貴乃花 やっぱりどこかで「きちんと綺麗に終止符を打ちたい」という思いがありました。私が相撲教習所に入った時、教官の先生から「力士は、特に横綱は桜の花が散るように、いつでもやめられる気持ちで土俵に上がるものだ」と教えられました。それを実践しなければ、力士人生も終われないという気持ちでおりましたので。

 

大越 怪我をしてでも、負けてもいいから、相撲を取りきって終わりたいという。

 

貴乃花 はい。這ってでも土俵に上がるしかない、という気持ちです。それが先代の師匠の教えでしたから。「怪我をしない力士はいない。その上でどれだけ稽古ができるか。生活を全て土俵に捧げられるかで後の人生が決まってくる」という教えでしたので。痛いとか痒いとか、姿や形に見せて言葉にしているようでは、「力士の風上にも置けない」って育てられましたのでね。痛いのはまあ、力士の当たり前だっていう感覚がありました。

 


優勝決定戦。貴乃花は再び土俵上で武蔵丸と相対した。そこからはまさに多くの相撲ファンの記憶に強く刻まれた、ドラマティックな時間だ。

 


貴乃花 
最初に当たって突き放して、まわしを取ってと。少なからず私の取り口が取れたと思います。

 


本割とは一転、まともに当たった両横綱。のど輪で突き起こし貴乃花が先に左上手を取る。しかし武蔵丸の右も深く入り、がっぷり四つ。そこで間髪入れずに繰り出した右からの上手投げ。

貴乃花は武蔵丸を下した。そしてその直後。普段は常に淡々と表情を変えなかった、「平成の大横綱」が見せた表情。「鬼の形相」と評されたその視線の先にあったものとは。

 

「鬼の形相」の目に映ったのは

大越 終始淡々と冷静さを失わなかった貴乃花関があの一番の後だけは、気力がみなぎる、あらゆる熱量が放出されるような表情、忘れられない表情を見せられましたよね。その目には何を見ていらっしゃったんですか?

 

貴乃花 花道の付き人を見ていたんです。あの千秋楽は土俵まで行ってみて、足が動かなければ戻らなきゃいけないっていう状態でした。だから付き人さんたちが花道から送り出してくれる時も、まあ尋常じゃないような気持ちになっているのを背中で感じたものですから。私は逆に平静を装って土俵に向かいました。でも勝負がついてパっと花道を見た時に、普段そんな素振りを見せない付き人さんたちが、ジャンプするかのようにね、止められない感情があふれ出す姿を見まして。

大越 「鬼の形相」は、勝利への喜びよりも何よりも、支えてくれる人たちへの感謝の思いであったと。送り出してくれた付き人と、怪我をして優勝を果たした横綱との、一瞬の魂のやり取りがそこであったのかもしれないですね。

 

貴乃花 彼らはもう一年中、365日私の世話をしてくれる付き人たちです。普段から世話になっていること、それに全員が私の帰りを待っていてくれることに対する私の感謝の気持ちといいますか。それが表情に出たんだと思うんですけどね。


そして「平成の大横綱」は、最後の優勝の一番を評して、こう締めくくった。

 

 

貴乃花 私にとってあの取組は、本当に若い時からの集大成だったんだと思います。

“土俵の神様”が教えてくれた

この優勝の後、貴乃花は7場所連続の休場。そして平成15年1月、30歳で引退の道を選ぶことになった。大相撲ファンの心に残る取組を数多くとってきた15年の力士人生。では貴乃花さん本人にとって、自らの記憶に強く刻まれた取組とは何なのだろうか。その答えは、入門して間もないころ、15歳の記憶に刻まれた「力士」としての原点だった。

 


貴乃花 
最近相撲の業界を離れまして、つくづく感じることなんですけどね。昭和63年の3月場所で前相撲を取って、5月場所で序ノ口の初日の土俵。これがもうとにかく体が震えるぐらい、全身が緊張して土俵に向かったのをよく思い出します。怖いぐらいの感覚でした。本場所の土俵に向かうというのはこういうものなんだと身に染みてわかったのが、あの時だったような気がします。

 

大越 その時の怖さというのは、何に対する怖さでしょうか。

 

 

貴乃花 相撲を取ることに対してです。戦いの場に向かって行くということ。土俵には神様がいてくださり「生半可な気持ちでやるもんじゃないよ」と、それを私に最初に教えてくださったんだと思っています。


大越 その怖さを感じたから後の横綱・貴乃花があったのかもしれない。

 

貴乃花 そうですね。親方の仕事も引退した今だから思うんですけれども、自分は「勝負をするため」に生かしてもらってきたんだと実感しています。師匠の子として生まれてきて、それがもう勝手に生まれながらに身についていたような気がします。「勝負することが生きることだ」。そう育ててもらいました。

 

 


(後編に続く)

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この記事を書いた人

大越 健介 キャスター

大越 健介 キャスター

昭和60年NHK入局、初任地は岡山局。政治部の記者、NW9キャスターなどを経てサンデースポーツ2020キャスター。
"スポーツをこよなく愛する親父"の代表として自ら楽しみながら伝える。

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