ストーリー野球

リリーフ一筋20年 岩瀬仁紀の「仕事の哲学」【第2回】

2018-12-07 午後 02:44

プロ野球史上最多の407セーブ、前人未到の1002試合登板と数々の記録を作った元中日ドラゴンズの岩瀬仁紀投手。20年にわたるプロ野球人生をサンデースポーツ2020の大越健介キャスターに語りました。放送ではお伝えしきれなかった未公開インタビューを含めて再構成し、全3回で岩瀬投手のリリーフ人生をたどっていきます。2回目は年齢を重ねての投球スタイルの変化、そして多くの人の記憶に残る2007年日本シリーズ、2008年北京五輪の秘話です。

年齢を重ねて変わったスタイル

「リリーフピッチャー」とは過酷な仕事だ。ローテーションで回る先発とは違い、登板があろうとなかろうとブルペンに入り肩を作り、試合の最後までスタンバイを続ける。勝ちパターンともなればシーズン50~60試合を投げ、連投もいとわない。そのためなのか、リリーフピッチャーの中にはいわゆる「全盛期」が短期間で終わり、ユニフォームを脱ぐことになる選手も少なくない。その中で、43歳まで20シーズン現役を続けた岩瀬投手。私はそのカギが彼の投球術にあるのではと推測し質問をぶつけてみた。


大越 
技術的なこともちょっと伺いたいんですが、自分の球種の中で一番頼りにしていたボールはなんですか?

 

岩瀬 20代、30代、30代後半で自分のピッチングスタイルが全然違うので、自信があるボールは変化していきましたね。プロに入った頃は正直コントロールに自信がなかったので、とにかくボールの勢いだけで抑えていたという感じです。30歳近くなってクローザーになったころはまだ球の勢いも強かったので、状況を見ながら「とにかくリスクを負わないピッチング」。でも30代半ばくらいからは、「とにかく勝って終わればいいや」っていう考え方でした。

 

 

大越 若いころはやはりストレートを頼みにしていたんですか。

 

岩瀬 いや、若いときはコントロールが悪かったのでストレートには自信を持てなくて、とにかくスライダーのサインが出てくれないかなと考えていました。

 

大越 それが30代に入ると投げたいボールも変わっていったんでしょうか。

 

岩瀬
スライダーじゃなくなってくるんです。ストレートを投げたくなる。言葉で説明するのは難しいんですけど、ストレートが一番投げ間違いをしないんですよ。若い頃はコントロールが悪くてストレートの投げ間違いをして打たれて、でもスライダーのキレはあったのでキレだけで抑えられていました。でも30代になってくると、コントロールは良くなってきたけどキレという部分で少しずつ落ち着いていきました。逆にストレートを投げ間違いしない自信ができたので、結果的に一番頼りになりましたね。やっぱり野球の技術には終わりがないですよ。

大越 今の話は発見ですね。岩瀬さんといえばスライダーで打ち取るイメージがあったんですが。

 

岩瀬 若い頃は、右バッターのインコースのコントロールは自信があったんですけど、アウトコースのコントロールは自信がなかったんですよね。でも2002年に横浜から谷繁(元信)さんが移籍して来てバッテリーを組むようになってからは、それまでは投げなかった外角のスライダー「外スラ」っていう球を使うようになって、そこからまたピッチングが変わりました。

 

谷繁捕手とのバッテリーで長く中日を支えた

 

岩瀬投手の言う「外スラ」はいわゆる「バックドア」と呼ばれるボール。右バッターのアウトコースのボールゾーンからストライクゾーンに入ってくる。それまでのインコースに鋭く食い込んでくるスライダーで空振りを取ることに加え、この「外スラ」と時にはシンカーやシュートも交えるようになり、岩瀬投手の投球の「幅」は広がった。肉体の変化とともにピッチングの幅を広げていくことで、最大の武器のスライダーとストレートのキレが落ちても長くリリーフエースの立場を全うできた。それが史上初の1000登板にもつながる、長い選手生活をもたらしたのだろう。

2007年日本シリーズの記憶

ピッチャー・岩瀬仁紀にとって最も思い出深い試合は何か。そう尋ねると、岩瀬投手本人を含め、多くの人がこう答えるだろう。

2007年、日本ハムファイターズとの日本シリーズ第5戦。中日は勝てば日本一という試合で、先発の山井大介投手が好投。一人のランナーも許さないまま8回を投げ終えた。日本中の野球ファンが、9回も山井投手がマウンドに上がり「完全試合」を狙うと思った中、落合博満監督は9回のマウンドに岩瀬投手を上げた。これが、岩瀬投手が人生で最も重圧を感じるマウンドとなった。


大越 2007年の日本シリーズ、山井投手が完全試合ペースの試合、「まさか」の継投で岩瀬さんが9回を任されました。今でも語り草になる試合ですね。

 

岩瀬 そうですね、本当は語り草になってはいけないんですけどね。

 

大越 あの時もブルペンで用意をされていたと思うんですけど、自分が呼ばれる気配はあったんですか?

 

岩瀬 8回から「一人でもランナーが出たらいくよ」とは言われていたんですよ。でもまさか山井があれだけの好投をするとは思いもよらなかったので、「どうするのかな?」という気持ちで見ていました。8回が終わってまだ完全試合ペースを続けていたので、もう自分の中では出られないなという気持ちで見てました。やっぱり完全試合のチャンスなんてなかなかあるものでもないですからね。もちろん自分はクローザーなので最後は自分が試合を締めたい気持ちはありましたけど、まあ普通あの場面でピッチャーを代える監督なんていないでしょう。代えた落合監督の方がすごいですよ。

 

9回 継投を告げる落合監督

 

岩瀬 あそこでそのまま山井が投げて打たれても、誰も文句は言わないでしょう。でも、代えただけで文句を言われた。ましてや試合に勝って日本一になってるのに今もいろいろ言われるわけですから、負けていたらどうなってたんだろうと想像すると、「僕の人生はあそこで終わったんだろうな」と思うくらい怖いですよね。

 

大越 それを託された岩瀬さんもすごいですよ。普通のピッチャーなら足が震えてマウンドに行けないでしょう。

 

岩瀬 まあ、行けといわれたので行くしかないです。こちらから言わせてもらえば拒否権はなかったですからね。でも開き直れない難しさもありました。絶対に勝って終わらないと、自分の身に何か起こるんじゃないかというくらいの危機感を持っていたので。

 

大越 いつもの「岩瀬頼むぞ」って言う声援じゃなくて、スタンド中が「なんで岩瀬なの」って空気、初めての状況ですよね?

 

岩瀬 スタンドが動揺してると初めて感じましたからね。やっぱり自分が出ちゃいけなかったのかなって感じるくらい異様な空気でした。

 


初めての異様な空気の中のマウンド。1点も許されないどころか、一人のランナーも許されない状況の中、岩瀬投手は明確に緊張を感じていた。一人目のバッターは三振。二人目はレフトフライに打ち取る。そして最後のバッター、日本ハムのバッターボックスには小谷野栄一選手。極限の緊張感の中のこの場面は、岩瀬投手の記憶にも鮮明に刻まれている。

 

 

岩瀬 3人目の小谷野選手のとき、カウントがツーボールツーストライクになりました。そこで谷繁さんは「外スラ」、外のスライダーのサインを出したんですけど、僕は首を振ったんです。僕は外スラがボールになったらどうしよう、スリーボールツーストライクにしたくないって心理が働いていたんです。いつもだとそんなこと考えないんですけど、スリーボールになったらフォアボールが怖くてもう投げられないと思ったんですよ。結局、外のストレートを投げたんです。外スラなら三振を取れたかもしれないですけど、投げられなかったですね。最後は小谷野選手のセカンドゴロで終わりましたけど、あれもセカンドが荒木(雅博)じゃなかったら危ない当たりでしたから…。まあ、勝ててよかったなと思います。あの時ほど3人で終われてよかったって思ったことないですから。

 

大越 終わった瞬間は一気に脱力した感じでしょうか?ガッツポーズをされてましたけど、内心はホッとしたというか。

 

 

 

岩瀬 試合前に(川上)憲伸くんから「岩瀬さんいつもガッツポーズかっこ悪いから考えてあげる」って言われて、一生懸命ガッツポーズの練習してたんですよ。でもブサイクなガッツポーズしてましたね(笑)。余裕なんてまったくなかったですから。

 

日本一を決めガッツポーズの岩瀬投手

 

大越 あの時なぜ岩瀬さんに継投したか、後に落合さんから聞いたりはされたんですか?

 

岩瀬 いや、明確な答えは正直わからないです。ただ一年間通してずっと抑えで頑張ってきてたから、最後も使ってくれたのかなという気がしますけど。

 

 

なぜあの場面で岩瀬投手に継投を決めたのか。落合氏に取材すると、監督にとってはむしろそうするしかない場面だったのだと言う。8回を終えたところで山井投手から「続投できない」と告げられていたというのだ。

落合博満 元・中日監督

あれは山井が悪いんですよ(笑)。自分で「9回はいけない」って言うから。俺には、あの場面で行くとなると岩瀬しかいないんですよ。ドラゴンズには9回に岩瀬がいるんだ。だから8回までどういう継投でイニングを終わらせるか考えればよかった。9回は考えることないんですよ。彼はそれだけの存在でしたね。もう任せた以上は、全幅の信頼を持ってマウンドに送るわけですから、9回だけはのんびり野球を見てられました、私は。

五輪の魔力にはまって

日本シリーズでのガッツポーズから10か月後。岩瀬投手は日本中からのブーイングの中にいた。

かつての恩師、星野仙一監督が率いる日本代表として北京オリンピックに出場。この大会、岩瀬投手はシーズンでの活躍が嘘のように精彩を欠いた。準決勝の韓国戦を含め3試合で救援失敗。メダルを逃す「戦犯」とまで言われた。日本一のクローザーが陥った予想外の苦難。その時の胸の内とはどんなものだったのか。

 


岩瀬 
アテネでもオリンピックを経験していたので、ひとつのミスでチームがガラッと変わってしまう、国際大会の怖さというのはわかっていたんです。でも北京オリンピックの時は最初の試合で打たれてしまって、これはちょっとまずいなって思いはありました。特に大きな国際大会の舞台では、どうしても「はまってしまう」選手というか、調子のいい選手と悪い選手の波が出やすい。まさか自分がそこに「はまる」とは思わなかったですね。監督が星野さんだったので、自分を信頼して使ってくれていることがわかっていたので、正直苦しかったですね。非常に苦しかった。

 

星野監督のもと戦った北京五輪

 

大越 星野監督も苦しかったでしょうね。ファンとしては岩瀬さんに全幅の信頼を置いていただけに、大会後は厳しい声も飛んだと聞いています。実際あそこから這い上がるのは、本当に辛かったんじゃないかと思うんですが。

 

岩瀬 きつかったですね。でも当時の中日のチーム関係者に本当に助けられました。チームに戻ってドラゴンズのユニフォームをまた着た時に、「まだ居場所があるんだ」って思わせてくれましたから。確かに厳しい声は、帰ってきてからたくさんありました。でも終わってしまったことは取り返しがつかないので、とにかく気持ちを切り替えて、自分が出来ることを前向きにやっていくしかないと思っていましたね。

 

大越 落合監督も、かなり守ってくれたんじゃないですか?

 

岩瀬 そうですね。色々言われる中でも自分を信頼してまた使っていただいた。だから自分は元の状態に戻れたのかなという感覚はあります。

後輩たちの目標に

大越 そういう厳しい経験を積み重ねていく中で、野球界においてもリリーフ、セットアッパー、そしてクローザーと、試合終盤に投げるピッチャーの分業が明確になってきたと思うんです。言ってみればその中心にいたのが岩瀬さんでした。自分はプロ野球でリリーフを代表する選手なんだという責任、自覚も芽生えていったのではないかと思うんですが、そのあたりの意識はどうでしたか?

 

岩瀬 それは経験していく中で徐々に思うようになりました。代表チームなどで阪神の藤川(球児)投手と仲良くなって、彼に「岩瀬さんを目標に後輩たちが頑張れるように、リリーフの先駆者になっていってください」と言われて、意識して投げるようになりましたね。

 

 

プロ野球の歴史の中で、最多セーブの投手が表彰を受けるようになったのは1976年。最優秀中継ぎ投手のタイトルに至っては、表彰が始まったのは1996年だ。それだけ球界の中でのリリーフピッチャーの地位は決して高いものではなかった。しかも90年代後半からは、日本で実績を作ったクローザーは大リーグを目指すようになった。その時代に日本球界で投げ続け、通算登板数とセーブ数の記録を作った岩瀬投手。その存在がこれからのリリーフピッチャーの「道標」になると、恩師の落合氏もその功績を讃えている。

 

39歳で史上初の400セーブを達成

 

佐々木主浩投手が持っていた通算最多記録を上回る382セーブを挙げたのは2013年、岩瀬投手38歳の時。そして翌年の夏、39歳で日本プロ野球史上初の400セーブを達成した。しかし、その直後だった。
8月、左ひじの故障で離脱。

40歳目前、「引退」の二文字と葛藤する日々が始まった。


(第3回では岩瀬投手の再起、そして引退を決断した裏にある思いを語ります)。

 

第1回はこちら

第3回はこちら

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大越 健介 キャスター

昭和60年NHK入局、初任地は岡山局。政治部の記者、NW9キャスターなどを経てサンデースポーツ2020キャスター。
"スポーツをこよなく愛する親父"の代表として自ら楽しみながら伝える。

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