ストーリー野球

リリーフ一筋20年 岩瀬仁紀の「仕事の哲学」【第1回】

2018-12-05 午後 01:25

ことし43歳で引退した、元・中日ドラゴンズの岩瀬仁紀投手。プロ野球史上最多の407セーブ、前人未到の1002試合登板と数々の記録を作ってきました。20年にわたるプロ野球人生を終えてマウンドを降りた今、リリーフエースとして歩んできた日々を大越健介キャスターに語りました。放送ではお伝えしきれなかった未公開インタビューを含めて再構成し、全3回で岩瀬投手のリリーフ人生をたどっていきます

今、肘が痛いんです

「あなたの思い出の場所でプロ野球人生をじっくりインタビューしたい」。

このオファーに対して「彼」が指定してきたのは少し意外な場所だった。てっきりチームの本拠地の名古屋で話が聞けるものと思っていたのだが、呼ばれたのはなんと鳥取市のトレーニング施設。聞けば20年前のプロ入り直後から、名古屋から鳥取まで車を飛ばして通っては、効率的な筋力の強化や投球動作の改善に取り組んでいた場所なのだという。その施設内に設置されたブルペンに彼は、岩瀬仁紀投手は現れた。

 

鳥取市の施設にあるブルペンで、じっくり話を聞いた

 

中日ドラゴンズではリリーフ一筋20年。チームメイトがつないできたバトンを最後に受け取って試合を「締める」役割を務め続けてきた。実は岩瀬投手は現役時代、メディアにあまり多くを語ってこなかった。担当ディレクターによれば、このインタビューも実に4年越しの企画だという。引退から1か月。この11月に44歳になった今、リリーフとして生きた日々を振り返ってもらいその真髄と哲学に迫るインタビュー。しかしまずは何よりも、長年の厳しいプロ生活を終えた彼に、ねぎらいの言葉をかけたかった。

 


大越 現役生活、長い間本当にお疲れ様でした。

 

岩瀬 ありがとうございます。

 

大越 中日ファンのみならず、野球を愛する人たちにとって、岩瀬さんがマウンドに上がることにあまりに慣れているもので、非常に喪失感があって寂しいような気持ちです。引退して1か月ほど経ちますけど、何か変わったことはありますか?

 

岩瀬 普段なら来季に向けてここ鳥取でトレーニングを始める時期なんですけど、今年は引退して1か月何もしていないんですよ。むしろ現役を離れてから体に痛い所がだんだん出てきまして、今は体の状態が良くないんです。朝起きたらですね、両肘が動かないんです。固まっちゃって、毎朝起きるのが大変です。

 

大越 それだけ現役時代に張り詰めていたものがあったから、グラウンドを離れて痛みを感じるようになってしまった感じなんでしょうか。

 

岩瀬 やっぱりシーズン中は、野球のためだけに体が機能している感じだったのでね。現役を終えて気が抜けてくると、痛みが出てくるんですね。

 

 

岩瀬投手は愛知県西尾市に生まれ、県立西尾東高校、愛知大学、社会人野球のNTT東海、そして中日ドラゴンズと、一貫して愛知県を本拠地にプレーしてきた。まずはプロ野球入り前の「ピッチャー岩瀬」の始まりから話を聞いていくことにした。

人生を変えた「あと1本」

プロの第一線で20年マウンドに上がり続けてきた岩瀬投手だが、大学までは主に外野手としての活躍が目立っていた。時折マウンドに上がる事もあったが、大学日本代表にも外野手として選出された。ところが社会人野球のNTT東海に入ってから、一転して野手をあきらめ投手一本でプレーしている。その決断にあったものとは何だったのか。

 


大越 大学までは岩瀬さんは外野手として高い評価を受けていたわけですが、投手としてプレーしたのは大学の途中からですよね?

 

岩瀬 そうですね。3年の秋くらいからです。正直、大学のころはプロでどういう選手になりたいか、将来像までは描けていなかったです。とにかくみんなと一緒に、愛知大学野球連盟の1部リーグで優勝したいという気持ちでやっていただけで。その後のことはそこまで考えていませんでした。

 

大越 最終的に野手として生きることをあきらめたのは何故なんでしょうか。

 

岩瀬 4年秋の最後のリーグ戦が終わって、リーグ通算安打記録の125本に1本届かなかったんです。自分の中では、その記録を超えられる自信があったんです。でも超えられなかったことで、もう野手は諦めようと思いました。

 

大越 リーグ歴代2位の、しかも1本差の記録ですよね。それだけ打てばすごいじゃないか、ということにはならないわけですね。

 

岩瀬 ならなかったですね。大学の日本代表で周りの選手のレベルの高さを感じて、自分の中での決め事というか、バッターでやっていくなら「絶対に最多安打記録には届かないといけない」と決めていたんです。自分でもいけるはずだと思っていたのに、その1本手前で止まってしまった。自分がこれから野球をやっていく上で、野手では足りないものがあるんじゃないかなと感じて、だったら可能性のあるピッチャーで頑張ってみようかなという気持ちになったんです。

 

大越 足りなかった1本のヒットが大きな別れ道だった。それがなければ、ひょっとしたら投手・岩瀬さんとしての今の姿はなかったかもしれない。

 

岩瀬 そうですね。あの時にヒットが出なかったことで、僕の人生がガラッと変わりました。

 

投手に専念したNTT東海からは、左腕からの力のあるストレートと切れ味鋭いスライダーを武器に評価を高めていった。そして24歳の秋、当時のいわゆる「逆指名」制度によってドラフト2位で地元・中日ドラゴンズに入団する。

 

星野監督(当時)と入団会見 前列左が岩瀬投手

挫折のデビュー戦

大越 中日に入団したのが1999年。1年目から一軍でリリーフとして試合に出場されました。ピッチャーとしては、まずは先発完投型を目指すという考えが基本だと思うんですけど、首脳陣から「リリーフで行くよ」と、いつごろから言われていたんですか?

 

岩瀬 いや、何にも言われてないんです。もちろんプロに入った時は先発をしたいという気持ちだったんですけど、まずはとにかく一軍で、最初はどこで投げても結果を出したいという気持ちでやっていたので。でもルーキーの自分が開幕戦、しかも2対1というロースコアで勝っているゲームで呼ばれるとは思っていなかったので、デビュー戦は頭が真っ白になったことは今でも覚えています。結果だけ見たらね、プロ野球でやっていけるのかな?というぐらい自信をなくしました。

 


岩瀬投手の頭を真っ白にしたデビュー戦とは1999年4月2日、ナゴヤドームでの広島東洋カープとのリーグ開幕戦。1点リードの6回、中日の星野仙一監督は、先発の川上憲伸投手に変えてルーキーの岩瀬投手をマウンドに送った。しかし岩瀬投手は連続タイムリーを打たれ逆転を許し、結果ワンアウトも取れずに降板。その後チームは再び逆転し勝利したが、何より岩瀬投手にとって忘れられないのは、試合後のミーティングで星野監督から語られた言葉だった。

 


岩瀬 試合が終わって、星野さんが「きょうは自分のミスをよくカバーしてくれた」っておっしゃったんです。その「ミス」というのは、僕を起用したことです。監督に「ミス」と言わせてしまったことがすごく悔しくて、もう絶対そういうことを言わせないようにしたいと、自分の中で踏ん切りがついた気がしました。「当たって砕けろ」じゃないですけど、もう失うものはないなと思って。

 

 

大越 むしろ一番最初に挫折をしてしまったので、切り替えが早めにできた。

 

岩瀬 そうですね、捨て身になれることがすぐできたので。

 

大越 でも、リリーフではだいたい厳しい場面でマウンドに上がられますよね。そういう状況で新人の選手が「腕を振る」のはそう簡単じゃないような気がするんですが、そこに緊張はなかったですか?

 

岩瀬 うーん、どちらかなんですよね。緊張して腕が振れなくなるか、緊張しても腕を振れるのかっていうのは。緊張するのは当たり前で、結局は心の割り切りなので。今となってはあのデビュー戦があったからこそ、自分の中ではうまく気持ちの切り替えができたんじゃないかなという気はしますね。

 


プロとしてやっていく自信を失わせるほどのデビューから、すぐに心を切り替えることができたというところに、岩瀬投手の非凡さが現れている。ワンアウトも取れなかったデビューから徐々に星野監督の信頼を勝ち取り、「勝ちパターン」の一角として65試合に登板し防御率1.57、10勝を挙げてシーズンを終えた。ルーキーイヤーに課せられた「リリーフピッチャー」という役割。結果的に彼は43歳で引退するまで20年間、その役割を務め続けることになるのだが、当時は自分ではそんなつもりはなかったのだと言う。

 


岩瀬 
当時はプロに入ってすぐの若僧でしたけど、自分が必要とされていると感じていたので、リリーフにやりがいはもちろんありました。でも、正直「いつかは先発で」という気持ちを持っていましたね。それで2年目のシーズンの最後、僕のプロ人生で一試合だけ先発をしたんです。7回1失点で試合にも勝ったのでいいアピールになったんじゃないかなと思ったんですけど、結局自分の役割は変わらなかったですね(笑)。

 


先発に憧れを持ちながらも、岩瀬投手はリーグ屈指のリリーフの立場を確立していく。そして岩瀬投手が「リリーフで生きていく」と決意させる年がやってくる。プロ6年目の2004年。新監督として落合博満さんが就任した年のことだ。

「抑え」の魅力を感じて

岩瀬投手を抑えに任命した落合博満監督

 

岩瀬 落合監督から「抑えでいく」と言われたその時から、先発をやりたい気持ちはなくなりましたね。もちろん抑えのプレッシャーはあったんですけど、自分が最後を締めて勝つ、あの気持ち良さだけは最後を投げるピッチャーじゃないとわからないので。あの場所で投げてしまったら、他が出来なくなりましたね。チームの勝ちを直で感じる感覚を味わってしまったんで。

 

大越 やっぱりその役割には、一段と重いものを感じられましたか?

 

岩瀬 重いんですけどすごくやりがいのある場所でもありました。試合の最後を締めるか、締められずに試合に負けるか、ものすごく比重が大きいわけです。8回までつないできたピッチャーたちの思いを負けで消してしまうのと、勝って終わるのでは全然違います。それは、勝ちパターンの中継ぎで投げていた時の気持ちともまたちょっと違いましたね。

 

 

実は落合監督は、就任当初から「抑えは岩瀬で行く」と迷うことなく決めていた。落合氏に話を聞くと、そう決意させたのはほかならぬ岩瀬投手の投げる姿だった。

落合博満 元・中日監督

岩瀬はね、2004年の開幕前に足を骨折してるんですよ。で、どうする?って言ったら「自分で骨折したんだから投げます」って言ったんです。「投げられるんなら開幕から使うよ」っていうことで使ったんだけど、5月か6月くらいまでかな、結果はよくなかったんですよ。その時は「ピッチャー岩瀬」ってアナウンスされると周りからブーイングが来るしね。打たれればドラゴンズファンからも罵声を浴びていた。
その時は「ファームに落として調整させたほうがいいんじゃないか」って話が出たんだけども、俺の経験では「調子が悪いからといってその場所から逃がしてしまったら、また悪くなった時に逃げ込めばいいと思って悪循環になりやすい」と思っていたんでね。
岩瀬には、「どんだけ悪くてもファームにはやらない。1軍で罵声を浴びてもいいから、そこで立ち直って投げないと1本立ちしないよ」というようなことを言ったと思います。

だから彼の意地ですよ。マウンド上での数字で世の中を納得させる。その一念でやってきたんじゃないかと思います。本人は絶対に言わないんだろうけど、「絶対俺は見返してやる」っていう気持ちが彼の原動力だったんじゃないかと思うんですよ。

 

大越 想像しかできないんですが、チームのピッチャーたちがつないできた試合の最後に丸を付ける、そのためにマウンドに上がる時の気持ちは、表現するとどんなものなんですか?

 

岩瀬 抑えになって、やっぱり「やって当たり前ほど難しいものはないな」と思いました。「岩瀬が出てきたからこの試合は勝った」と思われることが、一番きつかったですね。いかにリードを守って試合を終わらすかってことを考えるわけですけど、でも実際「守りに入る」わけではない。気持ちの中では「攻めないと」やられてしまう、打たれてしまうんで、気持ちの持って行き方は難しかったですね。ちょっとしたことなんですけど、バッターに向かって攻める気持ちでのピッチングと、気持ちが守りに入ったときのピッチングは全然違います。守りたいんだけど守っちゃだめだと、常にマウンド上で葛藤していましたね。

 

 

大越 しかし毎試合ベンチに入り体を作っていくのは、先発ローテーションのピッチャーよりも体を酷使しているんじゃないかと思います。抑えを任された当時はまだ肉体的にも若かったと思いますが、そういう苦痛や厳しさよりも、前向きな気持ちのほうが勝っていたということでしょうか。

 

岩瀬 チームに必要とされることが何よりも大きかったですね。自分が責任を持つんだと。その環境が自分にとって自然なものになるように、プレッシャーがあるのが当たり前だ、っていう感覚でした。

 

 

ポーカーフェイス=存在感のなさ?

「リリーフで生きる」と心に決めた岩瀬投手は球界屈指の活躍を続けた。そのすごさはどこにあるのか。彼をクローザーに任命した落合氏から見れば、その本質は技術や体力よりも、まず「心」の部分にあるのだと語った。

落合博満 元・中日監督

淡々と行って、淡々と帰ってくるということですね。自分が今どんな精神状態なのかを人に見せないで、マウンドに上がって降りてくる、これが一番すごかったんじゃないか。「喜怒哀楽」も、優勝したとかよっぽどの時以外は出さなかった。「はい抑えた、きょうの仕事終わり」。そういう感じだったでしょ。

 

ではそれが岩瀬投手にはなぜできたのか。

落合博満 元・中日監督

「仕事」、だからじゃないんですか。与えられた仕事、ここで自分は生きていくんだっていう。周りが岩瀬という人間を認めているだけに、裏切っちゃいけないという気持ちがあったんじゃないでしょうか。やっぱり責任感ですよ。任されているポジションがポジションでしたからね。

 

ポーカーフェイスで、淡々と「仕事」を全うしていった岩瀬投手。現役時代は周りに決して見せなかった、マウンドの上で感じていた心情とはどんなものだったのだろうか。

 


岩瀬 プロになった時に「相手のバッターに悟られるからマウンド上で表情を出すのはやめろ」と、コーチだった山田久志さんに言われたのを覚えています。でも、マウンド上でバッターに向かって1球を投げるまでには、すごく葛藤を繰り返しながら投げていましたよ。1球1球の判定で局面がすごく変わってしまうので、その1球の大切さ、1球の重みを肌で感じていたので、一瞬のスキも出せない感覚でいました。

 

 

大越 岩瀬さんという選手は、いつも勝ちパターンでマウンドに上がり、仕事をして帰っていく姿が、大変失礼な言い方をすると我々サラリーマンと重なるような気がしているんです。決まった場所に行って自分の制服を着て自分の仕事をして帰ってくる。一見単調に見えるけど、実は波乱万丈。もちろんプロ野球選手の中でも、ものすごいパフォーマンスをされてたわけですけど「仕事をして責任を果たして一日を終える」その姿って、一種の美学じゃないかなって思うんです。

 

岩瀬 自分の中では一日一日大変なんですけど、その大変さをいかに自分の生活の一部に変えるか、普通じゃないことをいかに普通に「見せかけて」通すかを考えていました。勝って当たり前という状況が自分の日常なんだと思って、あまり感情を高めないで過ごすようにしていましたね。

 

 

岩瀬 でもね、そのせいなのか練習中どこにいるのかわからないとか、気配がないとか存在感がないとかよく言われましたよ。特にプライベートでは「お前本当に戦闘力ないよな」って、先輩の方々に良く言われたんで(笑)。年が近かった(川上)憲伸くんと一緒にいることが多かったんですけど、一般の方に「川上憲伸さんのマネージャーの方ですか?」って言われたこともあるくらいですから(笑)。

 


「存在感がない」はさすがに言いすぎだが、確かに向かい合って話をしていても感じるのは、その柔和な表情からにじみ出る朴訥(ぼくとつ)さ。しかしその人こそ、通算1000試合登板、通算400セーブを達成した前人未到の男・岩瀬仁紀なのだ。

一瞬のスキも見せず、プレッシャーを当たり前に感じるようにと人知れず葛藤し続けた彼が、日本プロ野球の歴史に残した記録は枚挙にいとまがない。


(第2回では岩瀬投手が忘れられない試合について語ります。)

 

第2回はこちら

第3回はこちら

 

この記事を書いた人

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大越 健介 キャスター

昭和60年NHK入局、初任地は岡山局。政治部の記者、NW9キャスターなどを経てサンデースポーツ2020キャスター。
"スポーツをこよなく愛する親父"の代表として自ら楽しみながら伝える。

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