ストーリー野球

夏の甲子園 「サヨナラボーク」を越えて 宇部商・あの日の真実

2018-08-15 午後 06:08

100回大会を迎えた夏の全国高校野球。サンデースポーツ2020では、大越健介キャスターが球史に残る名場面の当事者たちを訪ねました。このシリーズ「高校野球 敗れざる者たち」ではインタビューを再構成。全3回でお伝えします。

第2回は、宇部商業の元ピッチャー・藤田修平さんへのインタビュー。2年生だった1998年の80回大会2回戦、宇部商業高校対豊田大谷高校戦。延長15回の“サヨナラボーク”という苦い記憶と、その後の人生でどう向き合ってきたのか。そして未来の球児たちに伝えたい思いを聞きました。

史上唯一の“サヨナラボーク” 藤田修平さん

藤田修平(ふじた・しゅうへい)さん。

身長172センチと小柄ながら、左腕からのストレートと落差のあるカーブを武器に、宇部商業の2年生だった1998年、80回大会に出場。その後福岡大を経て2012年まで社会人でプレーし現役引退。現在は会社員。妻、3人の子どもと宇部市で暮らす。

松坂大輔に沸いた大会で

4000チーム近くが参加する夏の全国高校野球は、1チームの優勝校を除く膨大な数の「敗者」たちの大会でもある。だからこそあるチーム、選手を語るとき、大会の去り方、つまり敗れ方にこそドラマがある。1998年の80回大会。この大会の主役はなんといっても横浜高校の松坂大輔投手。その陰で、ひときわ印象的な敗れ方をしたチームがある。山口県代表の宇部商業高校。過去99回の大会で唯一、「ボークでのサヨナラ負け」で敗れたチームだ。その時マウンドにいたのは、2年生の藤田修平投手だった。

あれから20年。宇部市に暮らす藤田さんを訪ねると、「うろ覚えですよ」といいながら、“サヨナラボーク”の瞬間までの記憶を、細かにたどってくれた。

 

ボーク宣告直後の藤田投手

 

藤田 ボークの瞬間のことは、あまり記憶にないんですよね。本当に頭が真っ白になったというか。緊張の糸が切れたじゃないですけど、主審の方が三塁走者を招き入れるような仕草をされたので、そこで負けたってわかったんですけど。自分はどういうボークをして負けたのか、その時は全くわかりませんでした。

 

大越 ボークで点が入ったこともあまりわからない状態だったんですか。

 

藤田 いや、ボークで入ったのはなんとなくわかりました。

 

大越 自分のどの動作がボークにあたるかは。

 

藤田 それはわからなかったですね。

大会前から肘を痛めていた

2年生ながら宇部商業の背番号1を与えられていた藤田さんだが、決して万全の状態でチームを引っ張ってきたわけではなかった。その年の春に左ひじを痛め、痛み止めの注射を打ってマウンドに立つという日々が続いていた。甲子園の1回戦でも、藤田さんの役目はリリーフ。
しかし2回戦の前夜、監督から藤田さんに翌日の先発が告げられた。対戦する豊田大谷高校は左の強打者が揃うチーム。小柄ながら左からのストレートと緩急をつけるカーブを武器にする藤田さんにマウンドは託された。

 

 

藤田 あの試合は私が先発でしたけど、監督からは投手陣全員に「どれだけ打たれるかはわからないから、全員いけるように準備しておけよ」と言われていました。

 

大越 そのときも藤田さんの肘は、まだ万全ではなかったんですよね。

 

藤田 そうですね。投球練習するときも肘が痛かったの覚えてます。ずっと不安な気持ちだったんですけど、いざマウンドに立ってみると、全然痛くなかったんで「あ、これでいけるかな」って。今でいう「アドレナリン」っていうやつなのかなって思います。

 

1998年8月16日の第2試合、宇部商対豊田大谷戦。

直後の第3試合で松坂大輔投手要する横浜と、杉内俊哉投手要する鹿児島実業の注目カードが組まれていたこともあり、4万人以上の大観衆の中、12時5分に試合は始まった。

大越 この試合のスコアボードを見ると、ほとんど得点を与えることなくイニングがすぎています。途中でこれはいけるなという感触は持ちましたか。

 

藤田 感触はイマイチなくて。いつ肘が痛くなるかわからないっていう怖さもあって、もう一球一球、自分のピッチングをしようという思いだけで投げてましたね。

 

大越 つまり自分のからだに不安がある分だけ、自分のことに集中していたと。

試合は宇部商が5回と6回に得点し2点を先行。藤田投手は6回に1点を失うものの、終盤までリードを守っていた。球速こそ出ないがきっちりインコースに投げ切るストレート。そして緩急をつけたカーブで、相手打線をうまくかわした。監督の予想に反して、藤田さんはマウンドに立ち続けた。9回裏ツーアウトから、相手の重盗に対して味方の悪送球で同点に追いつかれるが、それでも藤田さんは不思議と落ち着いていたと振り返る。

 

 

藤田 特に自分の中で焦りはなかったと思います。焦りがあって動揺していたら、9回にサヨナラで負けていたと思うんで。その時点でまだ負けてないので、「自分のピッチングだけを」っていう気持ちだったと思います。

運命を分けたサイン

延長に突入した試合、スコアボードにはさらにゼロが並んでいく。炎天下の投球は少しずつ、しかし確かに藤田さんの体力を奪っていたはずだ。何しろ、県予選から継投で戦ってきた宇部商の藤田さんにとって、延長戦を一人で投げぬくのは未知の領域だったのだから。

「先頭バッターだけは絶対出さないように」。

藤田さんの意識はその一点だった。それが崩れたのが延長15回裏。ヒットで先頭を出すと直後に味方のエラー。敬遠で満塁策をとりノーアウト満塁、サヨナラのピンチを迎えた。それでも、“藤田さんの感覚では”まだ動揺すらしていなかったという。


大越 どうなんでしょう。僕もピッチャーを経験していて、甲子園のような大舞台、しかも延長の相手のウラの攻撃でフォアボールでもデッドボールでもサヨナラ負けをする場面で、満塁策をとるのは僕だったらドキドキするなと思うんですけれども。

 

藤田 正直、敬遠で投げるボールの方がちょっと緊張しました。今までとは違う感覚なので、全力で投げるわけでもないですしね。そこで暴投とかしないよう、自分なりに気を付けて投げましたね。それで満塁にしたからといって特に動揺はなかったです。

 

大越 球数もこの時点で200球を超えています。そろそろ限界がくるんじゃないかっていう不安は感じなかったですか。

 

藤田 その時は、今何球投げてるのか意識していなかったと思います。マウンドに立ったらやることはいつも同じ。相手のチームからしたら、例えば球威がなくなったとか、変化球のキレがなくなってきたとか感じたかもしれないですけど、自分としてはそういう意識はなかったですね。

 

ただ、この時点ですでに勝負を分ける布石は打たれていた。


藤田 試合中、明らかにセカンドランナーがバッターにコースや球種を教えているような仕草をしていたんですよね。なので途中でサインを変えて、確か2回目に出すのが本当のサインで、あとはダミーを何個も出すという形だったと思います。

いわゆる「サイン盗み」対策。当時は今ほどサイン盗みへの厳格なルールの適用がなされていなかった。藤田さんと3年生キャッチャーの上本選手はこうしたダミーサインの準備はしていたが、暑さと疲れの中、サヨナラのピンチの場面でバッテリー間のコミュニケーションは混乱する。

 

宇部商のキャッチャー上本選手

 

藤田 今思えば自分の気の焦りですね。自分の中では、投げたいボールが決まっていたと思うんです。右バッターへのインコースへのストレートです。その日の生命線でしたから。最初のサインが出て、2番目のサインも出てうなずいて。でも上本さんからは、まだ何個もサインがでている。「あれ?」みたいな感じで。

 

大越 自分が投げたいボールのサインをキャッチャーが出してくれたと思って、セットに入ろうとしたけど「あれっ?いいんだっけ?」と。

 

藤田 そうですね。確かバッターを追い込んでいたと思うので、ストレートを投げて三振をとりたい、そう自分の中で思っていたんだと思います。勝負を急いでしまったというか気の焦りというか。まあ、言ったら僕の準備不足なんですけど。

 

セットポジションに入った後、背番号1の藤田投手の左手がわずかに動いた

 

ここまで詳細に試合展開を語っていた藤田さんだが、ここからの記憶はあやふやだ。試合開始から既に3時間50分。知らず知らずのうちに藤田さんは冷静さを失っていた。この日の211球目を投じようとセットポジションに入った直後。上本選手がサインを出し続ける中、構えていた藤田さんの左腕がわずかに動いた。球審の手が上がる。
「投球動作に入ってからセットポジションを解いた」というジャッジ。“サヨナラボーク”だった。

 

球審の手が上がり、ボークが宣告された

 

大越 いろんな経験をピッチャーとして積んでくれば、どのような状況でもサインの交換やセットポジションの入り方は間違うものではない。けれど間違ってしまったと。

藤田 冷静であれば、自分たちで決めたダミーのサインを見落とさずに、ちゃんと本当のサインを見てきちんとセットポジションに入れたと思うんです。自分では動揺していないって思っていたんですけど、やっぱり準備ができていなかった。

 

大越 でも贔屓目に見れば、200球を暑さの中で投げて相当疲れもたまっていたはずですし、ボークぐらい仕方ないよねってファンは思うでしょう。でもご自身の中で、しょうがなかったと思う気持ちはないですか。

 

藤田 それはないですね。ボークじゃなかったとしても、投げて打たれて負けたかもしれない。でもそこまでいけなかった。どんな場面であっても、ボークを犯すということは自分が怠っていた、準備ができていなかったんだと思います。



「言い訳はしません。僕の準備不足。未熟でした」。藤田さんはそう繰り返した。

先輩たちに申し訳なかった

次に藤田さんの記憶が戻るのは、試合後の整列が終わったころだ。“サヨナラボーク”という結果を自覚したとき、まず感じたのは。

藤田 やっぱり一番は「3年生の方に申し訳ない」という気持ちが一番でしたね。それまでみんなに助けてもらって勝ちあがってこれたのに、自分のミスで負けてしまったことがすごく悔しくて、本当に申し訳なかったです。

 

 

そして、地元に戻ってからは、今度は周囲の目に悩まされるようになった。

藤田 やっぱり人の目線が気になるといいますか、直接批判的なことは言われたことないんですけど、なんか全てを見られているような気がして。あの試合の後はあんまり人に会いたくないなって気持ちにはなりました。

 

大越 それはどのくらいの期間つづきましたか。

 

藤田 2か月、3か月程度の話なんですけどね。でも全然知らない人からも「ボークの人だ」とか声かけられたりしていましたから。


翌年の夏、3年生になった藤田さんは再び背番号1を背負い甲子園を目指す。しかし、藤田さんの最後の夏は山口県大会ベスト8で終わりを告げた。

“サヨナラボーク”の雪辱を甲子園で果たすことなく終わった、藤田さんの高校野球。それでも、あの夏、延長15回を投げぬいた藤田さんの姿は、確かに多くの人の心を打っていた。

 

 

野球部を引退後、監督から渡されたのは、1年前に藤田さんに届いていた300通もの手紙だった。つづられていたのは、思いもかけない言葉たち。

「投げる姿から元気をもらった」
「自分もあきらめずに、もう一度学校へ行ってみようと思う」

 

藤田 自分は、感動を与えたいと思って野球をやったことはありませんでした。でもあの試合を見て、感動したとか勇気を貰ったとか書かれている手紙を見ると、やっぱり自分の中でもちょっと嬉しかった。一生懸命やった姿は、そういう風に映ってたんだなって。

 

 

先輩たちに申し訳ない、ふがいない姿だったはずの“サヨナラボーク”は、人々に前を向かせるきっかけになっていた。

15年ぶりの球審との再会

それでも、藤田さんにはずっと気になっていたことがあった。あの日、ボークを宣告した球審・林清一さんに対して、試合直後から抗議が殺到していたことだ。

 

球審を担当した林清一さん

 

 

もちろん、藤田さんのボークはあくまでルールにのっとったジャッジ。林さんはのちに「あの時ボークを宣告できていなかったら、私は審判をやめていた」と語るほど、審判としても人生をかけた判断だった。しかし、延長15回のあまりにあっけない結末は当時大きな議論を呼んだ。

自分のボークのために批判を受けてしまった林さんに直接会い、「僕は元気で野球をやっています」と伝えたい。藤田さんはその思いを持ち続けていた。そして、サヨナラボークから15年がたった2013年、その思いをようやく叶えることが出来た。

 

東京で再会した藤田さん(右)と林さん(左)

 

大越 林さんはなんとおっしゃっていましたか。

 

藤田 僕の思いを伝えると、目頭が熱くなって「感無量」って言っていただいて、すごくほっとしました。たぶん二人にしかわからない感覚なんだと思うんですけど、お互い肩の荷がおりたのかなって、自分では思いました。それが2013年、あの夏から15年後ですから結構時間がかかりましたね。

 

大越 逆に言うとその15年間、お互いにちょっと肩に少し荷があった。

 

藤田 そうですね。一回お会いしてお話をしたいとずっと思っていましたし。今思えば、僕の動きは明らかにボークでした。それでもあの雰囲気に流されずにしっかりボークを宣告するって、すごいジャッジですよ。ちょっと15年は長かったですけど、会えてよかったと思います。

もう悪い思い出ではない

大越 勝負を分けたのが、史上唯一のサヨナラボークであったことで多くの人があの試合を思い出します。その経験を、ご自分のその後の人生の中で、どう消化していったんでしょうか。

 

藤田 ボークをしたことは事実ですからね。僕は150キロの球も持ってなかったですし、すごい変化球があるピッチャーでもなかったのに、20年たってもこうやって話を聞いていただける。それだけ見ている方に強い印象が残った試合だったということでしょうから。感動したとか、ありがたい言葉をいただいたりもしました。今となっては、僕の中では悪い思い出にはなっていないですよ。

 

息子とのキャッチボールが、藤田さんの大切な時間

 

“サヨナラボーク”で甲子園を去って20年。藤田さんは今、あの試合で学んだことを子どもたちに伝えようとしている。

 

大越 あれだけの経験をした選手はなかなかいない中で、ご自身が息子さんに伝えられることはなんだと思いますか。

 

藤田 やっぱり「準備の大切さ」は常々言ってます。試合に行く前の道具の準備から、試合中でも守備に入る準備、バッターボックスに入る準備。僕はピッチャーだったので、マウンドに上がる前の準備のことを、結構口うるさくは言っています。それが疎かになると、やっぱり自分の思ったようなプレーもできないと思いますし。

 

大越 私もそうなんですが、多くの高校野球をやった人は野球から離れられないですよね。ご自分の息子が野球をやって、そこに関わって経験を伝えることができるのは幸せなことですよね。

 

藤田 そうですね。今、すごい楽しいんです。息子が野球やってくれて、本当に楽しい。自分が投げるより息子が投げるのを見る方が緊張しますよ。

 

 

甲子園唯一の“サヨナラボーク”の経験、そして学んだ教訓は今も確かに藤田さんの中に生きている。それを伝えていけることが、あの試合が藤田さんに与えてくれた、「贈り物」なのかもしれない。


 

シリーズ・高校野球「敗れざる者たち」。第3回では、大会史に残る「奇跡のバックホーム」でアウトとなった、熊本工業高校のランナーのその後を訪ねます。

この記事を書いた人

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大越 健介 キャスター

昭和60年NHK入局、初任地は岡山局。政治部の記者、NW9キャスターなどを経てサンデースポーツ2020キャスター。
"スポーツをこよなく愛する親父"の代表として自ら楽しみながら伝える。

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