ストーリー野球

日本中を沸かせた桑田と清原 甲子園のKK伝説とは?

2019-08-06 午後 0:00

スポーツファンならずとも関心を寄せる日本の風物詩、夏の甲子園。

 

かつて、日本中を沸かせた2人の高校生がいました。PL学園の桑田真澄清原和博。1983〜1985年の高校3年間、春夏合わせた5回の甲子園で、優勝2回、準優勝2回、ベスト4が1回という桁外れの成績を残した2人の活躍は名字の頭文字をとってKK伝説と呼ばれ、今も語り継がれています。

 

苦悩と挫折を乗り越えた2人の成長を、関係者の貴重な証言とともに振り返ります。

 

KKコンビ 甲子園での成績

入部当初は苦しんだ2人

1983年にPL学園に入学した桑田と清原。圧倒的な投球でマウンドを支配した桑田と、空気を切り裂くような打球を飛ばす清原は、1年生の頃から周りとの差を見せつけました。

 

しかし、PL学園は野球の強豪校。そんなに甘い世界ではありませんでした。

 

桑田は練習で登板するたびに先輩から容赦なく滅多打ちにされ、入部2ヶ月でピッチャーをクビになります。

 

桑田は母親に涙を見せて訴えるほど苦しみました。

 

高校1年当時の苦しかった時期を振り返る

もうここにいても、3年間メンバーに入るのは難しいということで、母親に「転校させてくれ」「辞めさせてくれ」って言いに行ったんですよね。母親の前で大粒の涙を落としながら、「連れて帰ってくれ」って…。もう本当に野球を辞めるつもりでした。

 

同じように才能を持っていた清原も、上級生からの理不尽な指導のため、思うように練習ができずに悩んでいました。「ホームランになって目立ってしまうから、左方向に打つのは禁止」「木製のバットや金属バットではなく、折れた竹バットを使え」。

 
また、規律の厳しい寮生活にも苦しめられました。1年生は先輩の付き人として、食事や洗濯の世話をする――不器用な清原には人一倍の苦労がありました。

2人はあきらめなかった

 

しかし、2人はそこで諦めません。

 

桑田は常軌を逸した走り込みを自分に課しました。その鬼気迫る様子は、桑田と同期だった滝口隆司さんの脳裏に今も焼き付いているといいます。

 

桑田と同期で、同じ部屋で暮らしていたという滝口隆司さん

ランニングして汗かいて部屋に帰ってきたら、「滝口、それはランニングじゃない。ランニングというのは、死ぬ一歩手前まで走ることだ」って言って(笑)。それぐらい桑田というのは走り込んでいた。


桑田は他の選手の5倍とも言われるほど練習に打ち込み、圧倒的な体力と技術を身に着けていきます。

清原も桑田に触発されます。「桑田が走っている間は負けられない」とバットを振り続けました。

勝ち取った”エース”と”四番”

そして1983年7月、チームに衝撃が走ります。いよいよ夏の甲子園に向けた大阪予選。勝負の試合で、桑田と清原の2人はエースと四番に抜擢されたのです。

 
1年生がエースと四番になったことで、チーム内に不穏な空気が漂ったといいます。

 

当然もう、先輩たちも「ふざけるな」ってことですよね。「お前がいるから俺たちはもうこれで終わってしまう。お前の存在自体がむかつくんだよ」みたいな雰囲気だったんですね。


しかしこの試合、桑田は2安打完封、清原は豪快なソロホームランを打つという見事な活躍を見せました。

試合が始まって、初回ゼロ、2回ゼロ。3回ゼロになった時点で、キャプテンはじめ内野の先輩たちが「おまえやるじゃないか。今まで(能力を)隠してたのか?」って。「頑張ろうぜ」って言ってくれたんですよね。やっぱり野球って実力の世界ですから、その試合で僕のボールを見て認めてくれたんでしょうね、おそらく。「桑田、頑張るぞ。俺たち一生懸命守るから、お前も頑張れ」ってキャプテンはじめみんなが声をかけ始めてくれたんですね。その日から僕の人生がガラッと変わり始めたんです。

1年目の甲子園で優勝

続く甲子園でも、KKの活躍でPL学園は勝ち進んでいきます。

 

準決勝の相手は夏春連覇中の徳島・池田高校。
強力な”やまびこ打線”で恐れられていましたが、バッティングでもホームランを打つ桑田の大活躍で、7−0の大差で池田高校をくだします。

 

翌日の決勝では、四番・清原が大爆発して勝利。

全国制覇を果たしたKKの名は日本中にとどろきました。

2年目の夏 桑田が学んだ新たな野球観とは

その後も快進撃を続けた2人。
しかし2年生で迎えた夏の甲子園、取手二高との決勝戦で桑田は初めて滅多打ちされて敗れます。この取手二高は、わずか3ヶ月前の練習試合で13対0で圧勝した相手でした。

 

1984年、桑田2年生の夏。決勝で取手二高に敗れる

 

試合を決める決定的なホームランを浴び、血がにじむ右手を見つめる桑田。このとき、彼の中には知られざる葛藤がありました。

 

“なぜ取手二高はいつも笑顔でプレーしていられるのか?”

 

グラウンドで笑顔を見せるなどあり得ないと考えていた桑田は、常に笑顔を絶やさずのびのびとした雰囲気でプレーする取手二高の野球スタイルに衝撃を受けたのです。

 

1984年夏、PL学園とは真逆のスタイルで優勝した取手二高。常に笑顔を絶やさず、大会中に海水浴にも行ったという

 

高校1年生での全国制覇以来、全国の球児が打倒PL学園・打倒KKで向かって来る中、どれだけ練習してもそのプレッシャーと不安を拭えずに苦悩していた当時の桑田にとって、わずか3ヶ月で変貌したこのチームは不思議な存在でした。

 

その答えを見つけるため、桑田は誰にも告げずに寮を抜け出して茨城の取手に向かいます。

 

取手二高のグラウンドを訪れた桑田。PL学園と比べると設備も劣る環境にもかかわらず、グラウンドでのびのびと練習をする取手二高の選手の姿は、驚きの連続でした。

 

取手二高のエース・石田文樹の自宅を訪ねた際の写真。一族勢揃いで迎えられたという

 

その後、取手二高のエース・石田選手の家を訪れ、家族ぐるみの温かい歓迎を受けました。この2泊3日の旅が桑田に新たな野球観を授けたのです。

”勝利へのアプローチもいろいろあっていいんだ。楽しむことも大切なんだ!”

 

大阪に戻った桑田は、練習方法の改革に取り組みます。
その結果、チームが明るくなり、そして何よりも桑田自身の笑顔が増えていきます。

 
ストイック一辺倒だった桑田が、また1つ成長した瞬間でした。

四番という重圧と闘った清原

 

当時のチームメイトが語る清原のイメージは“天真爛漫”。その人柄で誰からも好かれていた選手でした。

しかし、四番バッターを担うという重圧は並大抵のものではありません。
 
1年生の夏、甲子園で優勝したものの、準決勝の池田高校との対戦では、4打席4三振とふるわず、清原の体は悲鳴を上げていました。
清原が悩んでいた時の様子を、当時のチームメイトは振り返ります。

 

(桑田)もうげっそり痩せていて、体調も壊していて。精神的にすごくまいっていてですね。
たくさん食べる清原が、もうまったく食べられない。もう飲むだけですよね、体調悪くて。
「大丈夫か?」「大丈夫か?」って言ってたのを思い出しますね。

 

清原と同期だった井元秀人さん

清原はみなさんが考えているような人間ではないですね。すごく真面目で、繊細で、もうナイーブな人間ですよね。


そんな清原に訪れた最大の試練が、高校3年の春のセンバツでした。

準決勝の相手は、高知の伊野商業。
当時無名だったエース・渡辺智男の前に清原は3三振。

KKは初めて甲子園で決勝進出を逃してしまったのです。

 

1985年春のセンバツ 清原は準決勝で3三振、PL学園は決勝進出を逃した

 

無名のピッチャー相手に負けてしまった――。

 

試合が終わり、血相を変えて帰ってきた清原。
清原の2年後輩で元横浜ベイスターズで活躍した野村弘樹さんは、当時を鮮明に覚えていると言います。

 

清原と同じ部屋に暮らしていた2年後輩の野村さん

帰ってきた時は血相変えておられましたもんね。怖かったです。「お前もついて来い」って話になって、室内練習場に行って。練習場に入ると、右に2か所マシンを打つところがあって、左側のところで僕はゲージの外に立ってたわけですけど。
渡辺智男さん(伊野商業のピッチャー)が剛速球だったんで、マシンを最速にしろっていう。それをこう、ガンガン打ってるんですね。
すごいなと思って。僕は横で気をつけをして見てましたけどね。あの映像は走馬灯のように残ってますね。
この人でもこれぐらいやるんだっていう。

 
チームを救える四番になりたい。清原は、その一心で自分を追い込んでいきました。

3年生 最後の夏

そして迎えた高校3年、最後の夏。
清原が打ちまくり、PL学園は決勝へと進みます。

 

決勝戦の相手は宇部商業。桑田が点を取られ、清原がホームランで同点にするという緊迫した展開となりました。

 
この試合、清原は繰り返し桑田を励ましたといいます。

 

当然、清原も3年間後ろで見てますから、僕がしんどいのを知ってるわけですよね。(自分のところに)来て、「また俺が絶対に打つから頑張ってくれな」ってずっと声をかけてくれたんですね。また僕が点を取られる。また彼が来て「まだ大丈夫。踏ん張っとけよ。俺がまた次打つから」って、またホームラン打ってくれて。

 

そんな清原に支えられ、桑田は調子を取り戻していきます。

 

そして3−3の同点で迎えた9回裏、PL学園の攻撃は、2アウト・ランナー2塁という1打サヨナラの場面を迎えます。

 

フルカウントとなって、8球目。キャプテンの松山選手が右中間を破るヒットを放ち、ランナーが生還。

 
PL学園はサヨナラで優勝しました。

 

1985年夏 サヨナラ打で優勝を決めたPL学園

 

試合後、2人は互いに相手の名前を挙げて、ねぎらい合いました。

(清原)「桑田が苦しんでいたので、とにかく楽にしてやりたかった。だから思いっきり振った。」

(桑田)「3年間の甲子園で一番うれしかったのは、きょう最後に清原と抱き合えたこと。」


桑田、清原が残した絆と記録。KK伝説は、今も高校野球の歴史の中で輝きを保ち続けています。

 


 

甲子園では毎年、さまざまなドラマが生み出されています。今年も熱い高校球児たちのストーリーをともに追いかけませんか?

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