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パラリンピック 自分は戦えずとも いちばん近くでエールを
2021-09-03 午後 05:07

東京パラリンピックが2012年のロンドン大会以来、3回目の出場となったシッティングバレーボール女子日本代表。その代表選手として出場するという夢はかないませんでしたが、選手たちを支えるボランティアとして選手たちと同じ会場でエールを送った女性がいます。
東京パラリンピック出場の夢
シッティングバレーボール女子の元日本代表、波田みかさんは埼玉県出身の20歳。波田さんは小学6年生の時に骨肉腫を発症。右足に人工関節を入れてからシッティングバレーを始めました。
バレーボールをプレーしていた経験を生かした的確なトスが持ち味で、日本代表では最年少ながら東京パラリンピックでもセッターとしてチームを引っ張っていく存在になると期待を寄せられていました。明るく優しい人柄も魅力で、チームの「アイドル」としてほかの選手からも愛されています。
ことし3月、波田さんは激しい頭痛や吐き気を感じて病院を訪れました。診断の結果は脳の病気である「水頭症」。その後、脳腫瘍も見つかりました。
波田さんは闘病を続けながら代表入りを目指し続けました。
そして5月。波田さんは思い切って日本代表の真野嘉久監督に電話しました。
「私、まだパラリンピックに出られますか」
監督からは、パラリンピックに出場するために必要な検査を終えられるかどうかを考慮すると“代表入りは難しい”と伝えられたといいます。
東京パラリンピック出場の夢は断たれました。
仲間たちの支え 今度は私がエールを
入院や治療を続ける中、仲間からはいつも応援のメッセージや差し入れなどが届けられました。
47歳の赤倉幸恵選手からは病院で過ごすための手作りのシューズ。41歳の菊池智子選手からは波田さんの好きな「ワサビ」のお菓子。優しさの詰まったこうした気遣いに勇気づけられ、波田さんは13時間にわたる手術や、30回に及ぶ放射線治療を乗り越えました。
そして波田さんはチームメートとともに戦うことを諦めていませんでした。闘病中に自分を支え続けてくれたことへの感謝の気持ちを込めて「今度は私がエールを届ける番だ」と考えたのです。
波田さんは真野監督にボランティアとしてパラリンピックに参加することを伝えました。そして真野監督からボランティアの申し込み用のサイトを教えてもらい、病室からすぐに申し込んだといいます。
たとえ自分は戦えずとも
退院して迎えた東京パラリンピック。
波田さんはボランティアとして選手に最も近いコートサイドで働くことになりました。選手の出迎えや荷物の受け取り、消毒などを日々、丁寧に行っています。
仲間とコートで再会したのは8月29日。予選リーグの2戦目でした。
波田さんがコートの入り口にいるのを見つけた選手たちからは大きな歓声があがりました。波田さんはハイタッチで選手を送り出し、試合中はコートのすぐそばで活躍を見守りました。
試合後、波田さんは「正直な気持ちだと、やっぱり選手として出たかったけどしかたないことなので」と目に涙をうかべましたが、その後は「声とか気迫とかもすごい聞こえてくるし、なんだか感動しちゃいます」とはじけるような笑顔で話しました。
実は日本代表の真野監督や選手たちは、波田さんの気持ちに応えようと、バッグなどに波田さんのイラストが描かれたバッジをつけて試合に臨んできました。
選手たちは「波田さんの存在は大きいどころじゃない。本当に勇気や力をもらっている。コートに来てくれるだけで心が癒やされるので、それが力になってプレーできている」と口をそろえて話しました。
一緒には戦えなくてもいちばん近くで日本代表を支えた波田さん。試合を会場で見届け新たな気持ちが生まれてきました。
「とりあえず出たかったっていう悔しい思いは次のパリパラリンピックにむけて切り替えた。ボランティアの経験を通じて、感謝の気持ちを1番大切にしたいなと強く思ったので、これからもっと強い選手になれるようにしっかり練習していきたい」
3年後のパリでは選手として仲間とパラリンピックの舞台に帰ってくると誓いました。