高見のっぽさん死去 88歳 子ども番組「できるかな」で活躍

NHK教育テレビの子ども向け番組「できるかな」で「ノッポさん」として長く親しまれた俳優の高見のっぽさんが、心不全のため88歳で亡くなりました。

高見のっぽさんは京都市出身で、俳優で芸人だった父親の元で修行を積み、1967年からNHK教育テレビで放送された子ども向け番組「なにしてあそぼう」とその3年後に始まった「できるかな」に「ノッポさん」という役であわせて20年以上にわたり出演しました。
ひと言もしゃべらず、ジェスチャーを交えて鮮やかに工作を作り出す姿が子どもたちの人気を集め、「できるかな」では、相棒のキャラクター「ゴン太くん」とのコンビも話題となりました。
また、2005年、71歳の時には、NHKの「みんなのうた」で放送された「グラスホッパー物語」でみずから作詞と歌を担当しました。
バッタのおじいさんにふんして歌いながら踊る姿が反響を呼び、10か月間にわたる異例のロングラン放送となったほかその後、本人が出演するミュージカルとして舞台化もされました。
高見さんはこのほかにも児童書などの執筆や民放の子ども番組の放送作家としても活躍するなど子どもたちに関連する仕事を数多く手がけてきました。
こうした功績が認められ2007年にはNHKの放送文化賞を受賞しています。
関係者によりますと周囲を騒がせたくないという本人の希望もあり、これまで公表されていませんでしたが、高見さんは去年9月、88歳で心不全のため亡くなったということです。

「ノッポ」さんとして長く親しまれた俳優の高見のっぽさんが、亡くなったことについて、地元の東京・豊島区で話を聞きました。
50代の会社員の女性は「年齢を聞いてまずびっくりで、もっと若いと思っていました。子どもの時に、テレビ番組でいろいろなものを作っているのを見て、すごく楽しそうだなと思っていました。残念ですね」と話していました。
50代の会社員の男性は「ちょっとショックですね。とにかく楽しませてもらい、工作に興味を持つきっかけにもなりました。『ありがとうございます』と言いたいです」と話していました。
また、パート勤務の50代の女性は「私のように小さいときから保育士になりたいとか、お子さんがいるママとかみなさんを元気づけてくれた方だと思う。すごく好きでした」と話していました。

のっぽさんがよく訪れていたという東京・豊島区のそば屋、「安曇野」で社長の横山浩太郎さん(71)と長男の浩史さん(38)に話を聞きました。
のっぽさんとの出会いは、30年以上前。
のっぽさんはこの店にひとりで訪れたり、仕事の関係者と打ち合わせに使ったりしていたといいます。
お気に入りの席は、店の壁側の階段下のスペースでうどんを注文し、かきあげとエビ天ぷら、生卵といっしょに食べるのが好きだったそうです。
のっぽさんの訃報のニュースをうけて浩太郎さんは「すごく喪失感というか、ぽっかり穴が空いた感じです」と残念な気持ちを口にしていました。
のっぽさんとの思い出をたずねると、浩史さんは、4年前、生まれたばかりの自分の子どもとのっぽさんが対面したときの写真を懐かしそうに見せてくれました。
のっぽさんが「本当にかわいいね」と自分のことのように喜んでくれた姿をよく覚えているといいます。
さらに、「店に来た子どもたちを自然とさりげなくあやしている感じで。子どもがいつの間にか笑いだす感じでした」と話し、のっぽさんの子どもに対するまなざしがいつも温かったと振り返っていました。

「ノッポさん」こと高見のっぽさんは20年間にわたりNHK教育テレビで放送された子ども向け番組「できるかな」に出演しました。
番組では、ノッポさんはフェルトの帽子をかぶって一言もしゃべらないという設定でした。
相棒のキャラクター、「ゴン太くん」も不思議な声を出しますがことばは話しません。
ナレーションで「ねえねえ、ちょっと、ノッポさ〜ん」と呼びかける声にノッポさんはジェスチャーで応えながら、音楽にのせて次々におもしろい工作を作り出していきました。
15分間のこの番組は、毎回ほぼノンストップで収録され、その臨場感も人気でした。
器用に工作を作っているように見えたノッポさんですが、実はもともと不器用で工作には苦労していたそうです。
番組では、子どもたちに工作の手順ではなくものを作ることの楽しさを伝えようとしていました。
このため工作は簡単にできるものばかりではなく、難しいものもあったということで、ノッポさんはいつも真剣な表情で取り組んでいたということです。
そして、うまくできた時に見せる笑顔は演技では無く本当に心から喜んでいる表情でした。
番組でノッポさんとゴン太くんは完成した工作を使って楽しそうに遊んでいましたが、このときもノッポさんはひと言も話しませんでした。
そんなノッポさんが初めてことばを発したのは、およそ20年に及んだ番組の最終回、1990年3月の放送でした。
ノッポさんは「あーあ、しゃべっちゃった」と語り出し、番組が終わること、そして4月からは新しい番組が始まることをみずからのことばで子どもたちに伝えました。
ノッポさんがしゃべったことは当時、大きな話題になりました。
高見さんの事務所の代表で舞台やイベントなどで共演してきた古家貴代美さんは「ノッポさんは『自分で試してみる、工夫してみる、失敗する、でもまたへこたれずに頑張ってみることが非常に大事なんだ。一生懸命やることが大切で、それを笑う人間は相手にしなくていいんだ』とよく話していました。番組ではしゃべっていませんでしたが、実際にはおしゃべりでユーモアがあって、優しい人でした」と話していました。

高見のっぽさんは自身のことを不器用だと話していましたが、そんなのっぽさんが工作を作る番組に起用されたのには訳がありました。
番組では、一言もしゃべらずに軽快な音楽に乗せて工作を作っていました。
所属する事務所によりますとのっぽさんは、出演が決まる前にさまざまな番組に出ていて、その際、飛び抜けて体の動きがよく、表現力がすばらしかったことから制作陣が新しい番組に抜擢したということです。
また、のっぽさん自身も番組でのイメージを大事にしていました。
プライベートではおしゃべりな一面もあったということですが、「できるかな」に出演している間はイメージを崩してはいけないとほかの番組への出演はほとんど断っていたということです。
事務所によりますとのっぽさんはもともと「高見映」という名前で活動していましたが、番組が終了してからもノッポさんのイメージで見られることが多く2005年ごろに芸名を「高見のっぽ」にみずから変えたということです。
事務所の関係者は生涯を「ノッポさん」として生きているように見えたと振り返っていました。