北海道知事や衆議院議長を歴任 横路孝弘氏死去 82歳

衆議院議長や北海道知事などを務めた横路孝弘氏が今月2日、病気のため亡くなりました。82歳でした。

横路氏は札幌市の出身で、大学を卒業後、弁護士として活動しました。
そして、昭和44年の衆議院選挙に当時の社会党から旧北海道1区に立候補して初当選し、連続5期衆議院議員を務めました。
「社会党のプリンス」とも呼ばれ、昭和47年の沖縄返還にあたり、本来、アメリカ側が負担する費用を日本が肩代わりする「密約」が交わされたことをうかがわせる文書をめぐって政府を追及しました。
昭和58年、衆議院議員から転身し、知事選挙に立候補。
大激戦となった選挙戦に横路氏は“道民党”を名乗って政党色を消して臨みました。
道内各地に生まれた“勝手連”の動きで、若者をはじめとした各層に熱狂的な支持を呼び起こし、接戦を制しました。
横路氏は知事を3期務め、この間、札幌で開かれた初めての冬のアジア大会の開催に取り組んだほか、北方四島との「ビザなし交流」に知事として初めて参加するなど北方領土問題の解決にも力を尽くしました。
その後、国政に復帰。
衆議院議員を通算で12期務めました。
この間、横路氏は平成14年の当時の民主党の代表選挙に立候補するなど、党内で影響力を持ち続け、平成17年には衆議院副議長に就任しました。
そして、平成21年には民主党政権の発足に伴って、民主党出身の議員として初めての衆議院議長に就任し、3年間にわたって務めました。
平成29年の衆議院選挙には立候補せず、政界を引退していました。
横路氏は、病気で療養を続けていましたが、今月2日に亡くなりました。
関係者によりますと、葬儀は遺族の意向で親族のみで済ませたということで、「お別れの会」をことし5月ごろに開く予定だということです。

【引退時のインタビューで横路氏 “平和な社会つくろうという一心だった”】
平成29年に政界を引退した際、横路氏は「これまで、何としても、平和で国民が安心して、心豊かに暮らせる社会をつくろうという一心でやってきた。若い議員には先人が歩いた道も、よく見てもらいたい。その道は必ずしもうまくいかず失敗しているケースもあるが、多くの人の知恵を結集してやっていくことが大事だ」と、自身の政治活動を振り返っていました。

【後任を務めた堀達也元知事 “道庁の意識改革進めた”】
横路氏を副知事や知事室長として支え、後任の知事を務めた堀達也氏は「これまで『上から目線』だった道庁を『道民目線』に方向転換し、行政改革を進めた人だった。文章でも、議会答弁でも、「である」調から「ですます」調に変え、道民目線で政策を立案するよう道庁内の意識を変えた人だった。年齢は自分より5つ年下だったが、行政のかじ取りや人生の面で『師匠』と言える存在だった」と振り返りました。

【知事室長として支えた荒井聰元衆議院議員 “全道歩き 道内を熟知”】
横路氏が知事を務めていた当時、知事室長などとして支えた元衆議院議員の荒井聰氏は「非常に残念だ。最近、入院しているという話を聞いていたが、突然の連絡にとても驚いている。議長も務め、最高位の政治家人生だったと思う。横路さんの思いを受け継ぎ、力を尽くすことが私たちの責務だ」と述べました。
また、知事時代の横路氏については、「地方自治の根幹である地域活性化策に非常に熱心だった。全道をよく歩き、道内の状況を熟知していた。少数与党の議会をどう切り抜けるかや議会の野党と一緒になって北海道のための政策づくりを進めるといった点で上手な人だった」と振り返りました。
一方、横路氏の人柄について、荒井氏は「非常にざっくばらんで誰とでも親しくするような人だった。マージャンが強く、ゴルフも好きでおちゃめな一面もある人だった」と話していました。

【立民・菅直人元首相 “「勝手連」ブーム懐かしい”】
立憲民主党の菅元総理大臣はみずからのツイッターに、「横路氏は1983年の北海道知事選挙で『勝手連』ブームを起こして初当選し、私は『東京勝手連』を名乗り応援に駆けつけた。懐かしい記憶で、その後は民主党でともに政権交代を実現した。ご冥福をお祈り申し上げる」と投稿しました。

【横路氏の下で副議長務めた自民・衛藤征士郎衆議院議員 “巨星墜つ 偉大な生涯”】
横路衆議院議長のもとで副議長を務めた自民党の衛藤征士郎氏は「『巨星墜つ』と言え、衆議院議長としての功績に頭が下がる。ことば使いも表情も柔和な方で不機嫌な顔を見たことがなかった。北海道知事としても活躍し、地方自治への思いが深かった。偉大な生涯に心から敬意を表したい」と述べました。

【ともに旧民主党幹部務めた立民・小沢一郎衆議院議員 “安全保障政策 時間かけて話し合った”】
横路氏とともに当時の民主党の幹部を務めていた立憲民主党の小沢一郎衆議院議員は、NHKの取材に対し、「大変驚いているし、とても残念だ。横路氏は社会党、私は自民党で、政治家としての生い立ちが全く別だったが、民主党の問題点だった安全保障政策について2人で時間をかけて話をし、国連を中心に世界や日本の平和を守ると合意したことが1番思い出に残っている」と述べました。

【横路氏と同じ弁護士事務所で活動の上田文雄元札幌市長 “リベラルな考え貫いた”】
横路氏と同じ弁護士事務所で活動してきた元札幌市長の上田文雄氏はNHKの取材に対し、「がく然として大きなものを失ったという思いだ」と述べ、横路氏の死を悼みました。
上田氏は横路氏が知事を務めていた平成2年に旧ソビエト時代のサハリンで大やけどを負った少年、コンスタンチン君が札幌に搬送されて治療を受けたことに触れ、「これまで築いてきたパイプを十二分に使いこなし、政治の壁を乗り越える決断で、1人の少年を救った。人を大事にするという意味で、リベラルな考え方を貫き、その旗手として走り切った人生だったと思う」と振り返りました。

【鈴木知事 “道発展に大きな足跡”】
鈴木知事は「若きリーダーとして一村一品運動の推進などを通じた地域振興や冬のアジア大会の誘致、北海道南西沖地震への対応などに全身全霊をささげ、道の発展の歴史に大きな足跡を残された。財政再生団体の夕張を大変応援してくださったことも思い起こされる。北海道への深い愛情を注がれた懐の大きい方で、これまでの多大な尽力と功績に深く感謝申し上げたい」というコメントを出しました。

【道民からも悼む声】
横路孝弘氏が亡くなったことを受けて、札幌市内では悼む声が聞かれました。
このうち、札幌市内の60代の男性は「革新系で既存のものにとらわれず、今につながる北海道の基礎や一時代を築いた1人だと思う。引退してしばらくたったと思いますが、実績はのちのちまで残ると思います」と話していました。
また、札幌市内の70代の男性は「北海道を引っ張っていた先駆者というイメージがあります。活躍していた時は社会党が強い時代でとでも活躍していましたし、ニュースを聞いて残念です」と話していました。
また、札幌市の60代の女性は「長く活躍しましたし、北海道にとって大きな政治家が亡くなったという感じがします」と話していました。