NHK WORLD

黎明期

国際放送主な出来事 黎明期

国際放送開始1935年~1940年代

国際放送主な出来事 国際放送開始1935年~1940年代

1950~70年代

国際放送主な出来事 1950~70年代

1980~90年代

国際放送主な出来事 1980~90年代

2000~2015年

国際放送主な出来事 2000~2015年代

1990~1991(平成2年~平成3年)

東西冷戦終わる 湾岸危機イラク残留邦人に家族のメッセージ

年代史  >  1990~1991 >  東西冷戦終わる 湾岸危機  | 東西冷戦の終結、国際放送の果たした役割は…

主な出来事

’90
  • 8.2 イラク軍クウェート侵攻、国際放送特別編成実施
  • 9.6 イラク残留邦人あてにメッセージ放送開始
  • 10.3 東西ドイツ統一
  • 1990年代中国の急激な経済成長
’91
  • 1.17 湾岸戦争始まる。国際放送、在留日本人へのメッセージを放送
  • 4.1 テレビジャパン放送開始
  • 4月 BBC、英語で映像国際放送開始
  • 8.19 ソ連8月クーデター
  • 9.17 韓国・北朝鮮国連同時加盟
  • 12.25 ソ連解体へ

もっと見る

外部からの情報が遮断された日本人の人質に向けて96日間

1990(平成2)年の湾岸危機。イラクが多国籍軍に対する“盾”、つまり人質として収容した外国人の中には140人あまりの日本人も含まれていた。ラジオ日本では、中東向けの放送を大幅に拡大して最新ニュースを伝えるとともに、人質全員が解放されるまでの3か月あまり、肉親や同僚などのメッセージを連日放送した。

ポスト冷戦は地域紛争多発の時代へ

イラクのウェート侵攻後、砂漠に放棄されたロシア製戦車

イラクのウェート侵攻後、砂漠に放棄されたロシア製戦車

ラジオ日本でメッセージを送る人質の家族

ラジオ日本でメッセージを送る人質の家族

1990年に入り、東西ドイツの統一からソビエト崩壊へと世界は大きく動き出した。東西冷戦構造の均衡の上に成り立っていた国際社会は、以後地域紛争が多発する時代へと突入していく。こうした中で、国際放送の役割も多様化してくる。

湾岸危機、“人間の盾”に家族の声をとどける

1990年から91年、湾岸危機・戦争への対応は、国際放送の歴史の中でも特筆すべきものだった。

90年8月2日、イラクによるクウェート侵攻は、ペルシャ湾岸地域の緊張を一気に高めた。そうした中、イラクは外国人を多国籍軍に対する“盾”つまり「人質」とすることを明らかにした。この中には141人の日本人が含まれていた。

このような事態に際し、ラジオ日本は、イラクなど中東地域でよく聞こえるアフリカ・ガボンからの海外中継を増設し、8月30日には従来3時間30分だった中東向け放送を3倍以上の11時間に拡充。イラク情勢に関するニュースを集中的に伝えた。

さらに9月6日からは日本人に向けた肉親や同僚などのメッセージ放送に踏み切った。当初、メッセージはイラク当局を刺激するのを避けるためアナウンサーが代読していたが、まもなく家族自身の声に切り替えた。

「一日も早くパパが帰れるよう皆で写経をしています。もうずいぶんたくさんの人が写経して下さっていますので良い方向に向かうと確信しています」(妻より)

「お父さんがいなくて寂しい夏休みだったけど、二学期に入って、お兄ちゃんも私もがんばって勉強しています。お父さんも体操で体力をつけ、帰国できる日までがんばってください」(娘より)

メッセージを吹き込む家族も、代読するベテランアナウンサーも、涙で声を詰まらせ、たびたび収録をやり直すことになった。

解放された元人質から感謝の手紙

メッセージ放送は日本人人質全員が解放されるまで96日間にわたって続けられた。この間、妻から、子から、あるいは仕事仲間などから寄せられたメッセージは1,543件にのぼった。

帰国した元人質のひとりはNHKに対し感謝の手紙を届けている。

「イラク軍のクウェート侵攻以来130日余の間、外部情報が入手できない軟禁状態にあり、その中にあって、ラジオ日本の放送を心のよりどころとして毎日かじりつくように拝聴していました。そんな折、家族や同僚からの励ましのメッセージが流れてまいりました。嬉しさ、懐かしさが胸にこみ上げ、涙がいつまでも止まりませんでした」

湾岸戦争でも臨時送信実施

日本人人質が解放されてから間もない翌91年1月17日。イラク軍と多国籍軍の間で湾岸戦争が勃発した。湾岸諸国には大使館関係者を除いても千人を超える日本人が滞在していた。ラジオ日本ではガボンからの中継に、その年1月から始まったスリランカからの中継を加え中継放送をほぼ24時間体制に拡充し、50時間連続という異例の長時間放送を行った。

東西冷戦の終結、国際放送の果たした役割は…

各地で起こる騒乱・事件の多発 身の安全・安心を守る情報が重要に

ひとつの国で起きた出来事が国境を越えて即座に世界をかけめぐる時代になった。冷戦の終結にもラジオ国際放送は大きな役割を果たしていた。一方で、国際放送はテレビの時代も近づいていた。

在外邦人の増加で日本語ニュース重要に

1991年8月19日 ソ連の改革を進めるゴルバチョフ大統領に反対する勢力がモスクワで起こしたソ連8月クーデター。「クーデターは違憲、国家非常事態委員会は非合法」と演説するロシア共和国のエリツィン大統領。

1991年8月19日 ソ連の改革を進めるゴルバチョフ大統領に反対する勢力がモスクワで起こしたソ連8月クーデター。「クーデターは違憲、国家非常事態委員会は非合法」と演説するロシア共和国のエリツィン大統領。

1991年8月21日 クーデター失敗後、初めて報道陣の前に姿を見せたゴルバチョフ大統領

1991年8月21日 クーデター失敗後、初めて報道陣の前に姿を見せたゴルバチョフ大統領

海外で暮らす日本人の増加にともない、ラジオ日本の日本語ニュースは、迅速な情報提供手段としての役割を高めていった。

1991年の旧ソ連クーデター未遂事件に続く混乱やザイール暴動の際には、外務省などと連携をとりながら、在留邦人の安全を第一に考え、関連情報を重点的に放送するなどよりきめ細やかに対応した。

旧ソ連のクーデターに際し、ラジオ日本のロシア語放送は1か月近くにわたってニュース枠を全放送時間に拡大。最新情報を継続的にリスナーに提供した。

クーデター未遂、連邦崩壊と続く一連の動きを伝え続けたラジオ日本のニュース報道に対し、ヨーロッパをはじめ、世界中の聴取者から大きな反響があった。東西冷戦を終わらせた一つの要因は電波戦争、国境を越えた電波戦だったという見方もある。

国際放送への投書数がはじめて年間9万通を突破

NHKの国際放送に対して寄せられる投書の数は、1990(平成2)年度9万783通を記録。はじめて9万通を超えた。翌91年度は8万7,517通で前年度をやや下回ったが、これは湾岸危機・戦争時に急増した日本国内からの投書が減ったためで、海外からの投書は引き続き増加傾向にあった。91年度に新設されたペルシャ語放送やヨーロッパ向けスペイン語放送に対する反響も届くようになった。

湾岸戦争はテレビの威力を示す
国際放送のテレビへの移行進む

1991年の湾岸戦争は、国境を越えたテレビ国際放送時代の幕開けとなった。アメリカCNNが現地から全世界に向けて放送を開始すると、「テレビが戦争の生中継をする」と大きな衝撃を与えた。1985年のアメリカCNNインターナショナルに続き、91年にはイギリスのBBCが、92年にはドイツのドイチェ・ベレが相次いでテレビ国際放送を開始した。

ロシア語放送は眠らない

その日、東京は朝から小雨まじりの強い風が吹き荒れていた。出勤して、正午前だったか、モスクワ方面から「暴風雨」がやってきた。ゴルバチョフ大統領が休暇先のクリミアで軟禁されたという。8月19日、保守派によるクーデターの一報だった。ロシア語は当時30分の放送で、14時台に10分のニュース、その後は21時台と翌朝4時台にも放送があったため、その夜は私が局に泊まり込んだ。

クーデターそのものは一日であっけなく終わってしまったが、これを境にゴルバチョフの権威は急落し、ロシア共和国のエリツィン大統領が力をつけてくる。保守派の抵抗も依然根強く、ソ連情勢は非常に流動的となった。8月26日からニュースが30分に拡大されたが、30分をニュースで埋めるというのは、容易なことではなかった。ネットもYouTubeもなかった当時、情報量も限られていた。

その後もソ連崩壊へとつながる節目節目で特別態勢は続き、暮れの12月25日にはゴルバチョフの辞任演説、ソ連の消滅…。関連特番や専門家を呼んでの座談会など息つく暇もなく年を越したが、歴史の大きな節目に立ち会えたことは幸せだったと言えるだろう。

(元ロシア語放送デスク 赤地活喜)