NHK WORLD

黎明期

国際放送主な出来事 黎明期

国際放送開始1935年~1940年代

国際放送主な出来事 国際放送開始1935年~1940年代

1950~70年代

国際放送主な出来事 1950~70年代

1980~90年代

国際放送主な出来事 1980~90年代

2000~2015年

国際放送主な出来事 2000~2015年代

1985~1989(昭和60年~平成元年)

昭和から平成へ
激動の時代を伝えるチェルノブイリ原発事故からダイアナブーム、昭和天皇崩御まで

年代史  >  1985~1989 >  昭和から平成へ 激動の時代を伝える  | 天安門事件 日本語と中国語の放送時間を拡大

主な出来事

’85
  • 3.11 ゴルバチョフソ連共産党書記長に就任
  • 9.1 CNNインターナショナル放送開始
  • 9.22 プラザ合意 アメリカの対日赤字が500億ドル
’86
  • 1.28 スペースシャトル事故
  • 2.8- フィリピンの政変(アキノ新政権誕生)
  • 4.26 チェルノブイリ原発事故
  • 4.23-5.9 東京サミット
  • 5.8 英皇太子夫妻来日
  • 9月 日米半導体協定締結
’87
  • 4.31-5.2 日米首脳会談
  • 11.29 大韓航空機爆破事件
  • 12.8 米ソ首脳会談で国際放送の電波妨害中止の申し合わせ
’88
  • 3.13 青函トンネル開業
  • 3月 八俣送信所の拡充整備完成、アジア大陸・東南アジア、大洋州、北米西部などの受信状況は格段に改善
  • 4.1 カナダ放送協会(CBC)と国際放送の交換中継開始
  • 4.10 瀬戸大橋開業
  • 9.17-10.2 ソウル五輪大会放送
’89
  • 1.7 昭和天皇崩御・平成に改元
  • 2.15 ソ連軍、アフガニスタンから撤退
  • 4.1 消費税導入(3%)
  • 6.1 衛星放送本放送開始
  • 6.4 中国・天安門事件
  • 10.18 サンフランシスコ大地震
  • 11.9 ベルリンの壁崩壊
  • 6月 日米構造協議開始
  • 12.29 日経平均株価は史上最高値38,915円87銭(終値)

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ラジオ日本は、海外に住む日本人にとって、平時・緊急時ともに貴重な情報源に

チェルノブイリ原発事故や急激な円高、そして昭和天皇崩御…。1980年代後半から急激に進んだ円高をきっかけに海外に生産拠点を移す企業の動きが加速し、駐在員数も増加した。ラジオ日本の情報は、より重要性を増した。

チェルノブイリ原発事故や急激な円高など、重要ニュースを伝える

チェルノブイリ原発事故 メルトダウン後、コンクリート壁は「石棺」と呼ばれている(1986年5月30日)

チェルノブイリ原発事故 メルトダウン後、コンクリート壁は「石棺」と呼ばれている(1986年5月30日)

二条城でのガーデンパーティーに臨むイギリスのチャールズ皇太子、ダイアナ妃(京都)

二条城でのガーデンパーティーに臨むイギリスのチャールズ皇太子、ダイアナ妃(京都)

1989年2月24日 昭和天皇の大喪の礼 葬場殿の儀(新宿御苑)

1989年2月24日 昭和天皇の大喪の礼 葬場殿の儀(新宿御苑)

界経済に占める日本の存在感が急速に増す中、リスナーの日本への関心も経済分野に広がってきた。1985年、G5(先進5か国蔵相・中央銀行総裁会議)は、為替相場に関する歴史的な「プラザ合意」を発表した。これに伴い市場では急激に円高が進み、バブル経済を生むきっかけともなった。ラジオ日本は日本経済の急激な膨張と国際化の進展を特集番組などを通じて海外に発信した。

翌86年、旧ソビエト・ウクライナで起きたチェルノブイリ原発事故に世界が震憾する中、ラジオ日本はその状況を丹念に世界に伝え続けた。同じ年、英国のチャールズ皇太子とダイアナ妃が日本を公式訪問。皇室と英王室の緊密な関係をはじめ、「ダイアナブーム」を大きくとりあげた。

昭和から平成へ

1988年9月の昭和天皇の容体急変以来、ラジオ日本は、連日病状について報道した。翌年、昭和天皇が崩御、元号が昭和から平成へと変わった。崩御に際しては特別編成を組み、一般の葬儀にあたる「大喪の礼」関連番組を放送した。崩御のニュースに対しては、海外に在住する日本人や日系人だけでなく、外国人からも深く哀悼の意を表する投書が多数寄せられた。

半世紀、ドイツ語放送を担った“伝説の”アナウンサー
フリードリヒ・グライルさん

フリードリヒ・グライルさん

2007年までサービスを続けたラジオ日本・ドイツ語放送。そのドイツ語放送に伝説のアナウンサーがいた。フリードリヒ・グライルさんだ。

1902年、ドイツのハルツ地方に生まれたグライルさんは、写楽の浮世絵や歌舞伎などの日本文化にあこがれ、1928年に来日した。NHKの海外向けラジオ放送でドイツ語放送が始まった1937年に、アナウンサーとして参加。東京のスタジオから、太平洋戦争の対米英宣戦布告、広島への原爆投下など、激動の昭和の歴史をヨーロッパに伝えた。戦後、1954年にラジオ日本としてドイツ語放送が再開されると、グライルさんは再びマイクに向かい、日本の戦後の復興から経済大国への歩みなどを伝え続けた。

そして1986年3月31日、83歳になったグライルさんは、レギュラーのアナウンスからは退いた。その後も日本の情報をドイツの人々に伝えようと、週末のエッセイコーナーに出演するなど、ラジオ日本との関わりは50年以上にわたって続いた。こうした長年の功績に対し、日本政府から勲四等瑞宝章を授与された。

晩年のグライルさんを知る姪の牧ちよさんによると、日本語が読めなかったグライルさんは、エッセイコーナー出演のために、自宅で家族の力を借りて日本の新聞や雑誌から熱心に情報を集め、原稿を書き、渋谷のNHK放送センターでのスタジオ収録を心待ちにしていたという。(2003年1月3日、没)

天安門事件 日本語と中国語
の放送時間を拡大戒厳令下の北京に24時間、最新の情報を伝える

非常時に強い短波放送の強みをいかんなく発揮

1989年6月、「天安門事件」が世界を震撼させた。ラジオ日本は日本語と中国語の放送時間を拡大し、厳重な報道管制が敷かれた中国国内に向け、最新の情報を伝え続けた。緊迫した状況の下、日本人駐在員の6割以上が、ラジオ日本の24時間臨時放送を聞いていた。11月にはベルリンの壁が崩壊する。

日本語放送リスナーの半数が「常時ラジオ日本の情報に頼っている」

天安門事件(1989年6月4日)写真は翌日の天安門広場に通ずる長安大街の路上で戦車の前に立ち、行く手を遮る男性 写真:AP/アフロ

天安門事件(1989年6月4日)写真は翌日の天安門広場に通ずる長安大街の路上で戦車の前に立ち、行く手を遮る男性
写真:AP/アフロ

「ベルリンの壁」が崩壊した翌日の夜、「壁」にあがって喜び合う東西ベルリンの市民たち

「ベルリンの壁」が崩壊した翌日の夜、「壁」にあがって喜び合う東西ベルリンの市民たち

1988年11~12月、海外でラジオ日本の日本語放送を聴取している825人を対象に行った調査(回答率65.6%)によると、回答者の77%が「ほとんど毎日ラジオ日本を聴いている」。受信状況も88%が「良好」または「きわめて良好」と答えており、88年3月に拡充整備工事が完了した八俣送信所と海外中継3か所(ガボン、カナダ、仏領ギアナ)による送信体制の有効性が確認された。また、「常時ラジオ日本の情報に頼っている」が50%を占め、中東では「緊急時に役立つ」が48%に達した。

天安門事件とラジオ日本

1989(平成元)年6月4日、民主化を求めて北京の天安門広場に集結していた学生、一般市民のデモ隊に対して、中国人民解放軍が武力弾圧を加え多数の死傷者を出すという事件が発生した。

天安門事件の後、北京に駐在している日本企業の駐在員や家族たちから「中国で何が起きているのかわからない」「日本語放送を拡大してほしい」といった要望がNHKに相次いで寄せられた。これを受けラジオ日本では中国向け放送の送信波を増やし、日本語は24時間送信の体制をとった。

中国語放送では、5月、北京市内に戒厳令が敷かれて以来、ニュース時間の延長措置が取られていたが、事件が発生してからは、それまでの夜の通常放送とは別に昼の12時30分から13時にもニュースの時間が特設され、8月6日まで続いた。

戒厳令下の北京から届いたリスナーの手紙

検閲の目をかいくぐり、北京のリスナーたちは次のような手紙を送ってきた。

「全面的な報道管制が敷かれている今、貴局が昼にニュースの放送を始め、北京の情勢を伝えていることに対し心からお礼を申し上げます。自国のマスコミは真実を伝えてくれないので、人々はこぞって海外の放送を聞くようになり、短波のラジオはまたたく間に売り切れてしまいました」

「貴局の報道は非常に客観的で扇動的な表現がなく、今回の学生運動についての正確な知識と理解を与えてくれました」。

現地に駐在する日本人の6割がラジオ日本を聞いていた

中国情勢の緊迫化にともない一時帰国した日本人駐在員にアンケート調査を行ったところ、63%が「ラジオ日本の中国報道を聞いていた」と回答。「報道管制が敷かれ極度に緊迫した状況の下、ラジオ日本の24時間連続放送に感謝する」など、非常時に強い短波の特性を発揮したラジオ日本の放送を高く評価する声が寄せられた。

深夜に一報を伝えた中国語放送

北京では事件の前日から緊張が高まっていたため、ラジオ日本の中国語放送担当者はいつニュースが飛び込んできてもいいようにスタンバイしていた。だが深夜になっても新しい情報は入って来ない。残るは午前0時40分から放送する4分ニュースだけ。「空振りだったな…」と思いながら、担当ディレクターは中国人アナウンサーと共にスタジオに向かった。デスクが慌ててスタジオに飛び込んできたのは本番3分前のことだった。手には「軍と市民が衝突。軍が発砲し少なくとも4人が死亡した模様」という速報記事を握っていた。アナウンサーはただちに翻訳を開始。マイクの前に座ったのは放送開始数秒前だった。精いっぱい冷静になろうと努めていたが、アナウンサーの声は興奮と緊張でかすかに震えていた。