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黎明期

国際放送主な出来事 黎明期

国際放送開始1935年~1940年代

国際放送主な出来事 国際放送開始1935年~1940年代

1950~70年代

国際放送主な出来事 1950~70年代

1980~90年代

国際放送主な出来事 1980~90年代

2000~2015年

国際放送主な出来事 2000~2015年代

1975~1979(昭和50年~昭和54年)

沖縄国際海洋博からサイゴン陥落、ロッキード事件まで

年代史  >  1975~1979 >  沖縄国際海洋博からサイゴン陥落、ロッキード事件まで  | ラジオ日本 初の海外中継開始

主な出来事

’75
  • 4.30 ベトナム戦争終結
  • 5.7 エリザベス英女王夫妻来日
  • 7.19 沖縄国際海洋博覧会開催
  • 9.30 天皇・皇后、初の訪米
  • 11.15 第1回先進国首脳会議
’76
  • 1.31 日本初の五つ子誕生
  • 7.27 ロッキード事件、田中角栄前首相逮捕
  • 9.6 ミグ25函館に強行着陸
’77
  • 8.17 福田赳夫首相、東南アジア外交3原則発表
  • 9.3 王貞治選手、通算756号本塁打(当時世界最高記録)
  • 9.28 日本赤軍ダッカで日航機ハイジャック
’78
  • 5.20 新東京国際空港(成田)開港
  • 6.12 宮城県沖地震
  • 8.12 日中平和友好条約調印
  • 中国改革開放政策「四つの近代化」
’79
  • 1.1 米中国交正常化
  • 2月- イラン革命、第2次石油危機
  • 3.28 米スリーマイル島原発事故
  • 6.28-29 初の東京サミット
  • 10月- ポルトガル・シネス送信所中継放送開始
  • 10.26 朴正煕暗殺事件
  • 12.24 ソ連、アフガニスタン侵攻(-1989)
  • インベーダーゲーム大流行

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ニュース・解説に加え、大相撲やのど自慢など国内の人気番組も放送

1975年4月、東西冷戦を象徴するベトナム戦争が終わった。7月、沖縄の本土復帰を記念して沖縄国際海洋博覧会が開幕。8月、福田赳夫首相はマニラで東南アジアと長い友好を育てる外交3原則(福田ドクトリン)の理念を明らかにした。70年代、ラジオ国際放送は、海外の日本人に向けて、ニュース・娯楽やスポーツなど多彩な番組を放送した。

沖縄国際海洋博を記念して感想文コンクールを実施

沖縄海洋博のメイン会場・アクアポリス

沖縄海洋博のメイン会場・アクアポリス

1977年8月6日撮影 アジア歴訪に向かう福田首相(羽田空港)

1977年8月6日撮影 アジア歴訪に向かう福田首相(羽田空港)

1975(昭和50)年7月、沖縄の本土復帰を記念して開催された沖縄国際海洋博覧会が開幕した。「海─その望ましい未来」がテーマの沖縄海洋博には、日本を含む36の国と3つの国際機関が参加した。ラジオ日本は開会式を英語と日本語で実況中継したほか、海と日本人との深い結びつきを明らかにする多くの番組を制作、放送した。また、参加各国のパビリオンを各言語のアナウンサーが訪ね、その様子や訪れた人の反響などを伝えた。

この年は国際放送開始40年にもあたることから、全世界のリスナーを対象に「海─その望ましい未来」、「ラジオ日本を聞いて」のテーマで感想文を募集した。審査の結果、5人のリスナーが東京や沖縄海洋博会場、京都などを巡る日本旅行に招待された。

東南アジア外交の指針福田ドクトリン

1977年8月17日、アジア歴訪中の福田赳夫首相は、マニラで東南アジア外交3原則「福田ドクトリン」を発表した。それは(1)日本は軍事大国にならない。そのような立場から、東南アジア、ひいては世界の平和と繁栄に貢献する。(2)政治、経済のみならず社会、文化など、広範な分野において、真の友人としてASEAN(東南アジア諸国連合)と心と心の触れ合う関係を構築する。(3)対等のパートナーとして東南アジア全域にわたる平和と繁栄の構築に寄与する、というものである。これは長くASEANとの関係で大きな指針となった。

シネス中継で欧州・中東地域の受信状況を改善

1975年から76年にかけては、サイゴン陥落にともなうベトナム情勢の急変とアメリカ軍の撤退が世界のトップニュースとなり、国内ではロッキード事件が社会に大きな衝撃を与えた。海外在住日本人に情報を届ける手段の多様化が求められていた。

その当時、ラジオ日本の放送はすべて茨城県にあるKDD(現KDDI)八俣送信所から全世界向けに発信していた。しかし、どうしても電波が届きにくく聴取状況の悪い地域が残されていた。問題を改善するため、1979年10月、海外の短波送信所を用いた中継放送が始まった。

最初に行われたのは、ポルトガルのシネスにあるラジオ・トランス・ヨーロッパの送信施設を借用して欧州、中東向けに中継放送するものだった。この海外中継に対してはヨーロッパ在住の日本人聴取者から「初めてテレビ放送に接した以上の喜びである」との便りが届いたのをはじめ、中東に駐在するビジネスマンから「現地では入手できない情報が伝えられ感謝している」との投書が寄せられた。

BCLブーム起こる

BCL(Broadcasting Listening/Listener)は、1920年代にラジオ放送が始まった当初から存在した。欧米では大人の趣味だったBCLが、日本で中高生を中心に若い世代の趣味として人気を集めたのは70年代初頭。多くの電機メーカーが、それまでプロ用が主流だったワールドバンドラジオの世界に、デザインと性能に優れ価格も比較的手頃な受信機(BCLラジオ)を送り込んだ。同時に「マニアに独占されていた短波をすべての人に開放」などのうたい文句で大々的に宣伝を行った。インターネットがない時代、世界の情報を直接入手できる魅力にひかれ、多くのBCLファンが誕生した。国内・海外の放送局が受信報告に対して発行する「ベリカード=Verification Card」の収集をたのしむ人も多かった。ブームの盛り上がりにともない、BCL団体が設立され、月刊専門誌も発刊された。中には発行部数が10万部を超えるものもあった。一方、各国の国際放送局が実施する日本語放送も増え、一時は世界で20局以上が日本語放送を行っていた。

80年代半ば以降、情報メディアの多様化にともないブームは下火となったが、近年、BCL人口が再び微増傾向にあるといわれる。背景には、40~50代を迎えBCLを再開するかつての熱心なファンたちの存在がある。

ラジオ日本
初の海外中継開始

世界中どこにいてもよく聞こえる国際放送を目指して

日本の八俣送信所からの電波が届きにくいヨーロッパや中東での受信環境を改善するため、1979年10月、ポルトガルのシネスにある送信施設から「ラジオ日本」初の海外中継を実施した。その後、ガボン共和国やカナダなどに海外中継を拡大。八俣と海外中継それぞれの強みを生かした送信体制ができあがった。

海外における日本語ブーム
50万冊のテキストが中国へ

1978.10.22 中国を改革・開放政策に導いた鄧小平副首相来日

1978年10月22日 中国を改革・開放政策に導いた鄧小平副首相来日

ソ連のアフガニスタン侵攻、カブールのソ連軍基地。戦車の砲門は市街地に向けられた(写真は1980年5月)

ソ連のアフガニスタン侵攻、カブールのソ連軍基地。戦車の砲門は市街地に向けられた(写真は1980年5月)

70年代に入り、海外に居住する日本人の数は急増し、70年の26万7000人から、80年には44万5000人になった。こうした日本人や日系人に向けて、ニュースだけでなく、大相撲や「のど自慢」、「紅白歌合戦」など国内の人気番組もまた、ラジオ日本の電波を通じて届けられた。

一方で、海外における日本や日本語に対する関心の高まりを受けて、日本語講座は順次拡充され、内容も刷新されていった。「日本語の手引」は「やさしい日本語」に名前を変え、日本語を除くすべての言語で放送されるようになった。英語や韓国・朝鮮語、中国語などでは中級講座も開設された。テキストも独立した冊子になり、希望者に無料で配付した。「やさしい日本語」テキストは71年度、13の言語で6万8000部が印刷・配付された。

その後、78年の日中平和条約の締結、鄧小平副首相の来日などを契機に、中国からの投書が激増。投書の大半は「やさしい日本語」のテキスト送付を希望するものだった。80年には50万冊の「やさしい日本語」のテキストを中国に発送し、中国の聴取者の拡大につとめた。

日本語講座「やさしい日本語」は国際放送80年を迎えた現在も、17の言語で続いている。

海外中継を始めるのは大変、始めてからも大変

シネス中継によりヨーロッパや中東の受信状態は改善したが、1日2回、計1時間の放送だったため、拡充を望む声が強かった。そこで目をつけたのが、西アフリカ・ガボン共和国のモヤビ送信所だ。現地からの情報によると、500kW送信機の空き時間を借りられそうだという。料金は?条件は?事前の情報も乏しいまま、1983年6月、NHKとKDD、外務省、郵政省からなる7人の交渉団が、パリ経由でガボンへ飛び、政府代表や送信所を運営する「アフリカ・ナンバーワン」関係者と3日間にわたり交渉を重ねた。その結果、モヤビ送信所から5日間、試験的にNHKの放送を出せることになった。

首都リーブルビルからモヤビ送信所までさらに600キロ。一行は国内線を乗り継ぎ、試験放送用にと事前に作成したテープを手ずから運んだ。日、英、仏、独、西、葡(ポルトガル)の6言語で「こちらは、アフリカのガボン共和国にあるモヤビ送信所です」、その間に日本の民謡やわらべうたなどが入っている。現地の技師は初めて耳にする日本語に興味を示し、「何を言っているのか」と口々に尋ね、にわか日本語講座とあいなった。

翌年3月、両者は契約書に調印。4月に放送を開始した。しかし喜びもつかの間、現地でスコールにともなう落雷のためマイクロ中継所から出火。モヤビ送信所に番組を伝送できなくなり、放送再開まで10日を要した。