NHK WORLD

黎明期

国際放送主な出来事 黎明期

国際放送開始1935年~1940年代

国際放送主な出来事 国際放送開始1935年~1940年代

1950~70年代

国際放送主な出来事 1950~70年代

1980~90年代

国際放送主な出来事 1980~90年代

2000~2015年

国際放送主な出来事 2000~2015年代

1970~1974(昭和45年~昭和49年)

世界の国へ「こんにちは」外国人アナウンサーが伝えた大阪万博

年代史  >  1970~1974 >  世界の国へ「こんにちは」  | 中国語放送などアジア地域向け発信を強化

主な出来事

’70
  • 3.5 核拡散防止条約(NPT)発効
  • 3-9月 大阪万博、会期中1187時間10分編成
  • 3.31 よど号ハイジャック事件
  • 5.10 「ジェネラルサービス」で大相撲中継放送開始
’71
  • 8.15 ニクソン、ドル紙幣と金との兌換一時停止宣言
  • 10.25 国連、中華人民共和国に代表権
  • 11.24 非核三原則の遵守を衆院本会議で可決
’72
  • 2.3-13 札幌冬季五輪
  • 2.19-28 あさま山荘事件
  • 2.21-28 ニクソン訪中
  • 5.15 沖縄、日本に復帰
  • 5.26 米ソ、SALTⅠに合意
  • 9.29 日中国交正常化
’73
  • 1.27 ベトナム和平協定
  • 2月 円ドル変動相場制へ
  • 8.8 金大中拉致事件
  • 10月- 第4次中東戦争
  • 10月- 1974第1次石油危機(OPEC石油価格4倍に)
’74
  • 1月 田中角栄首相の東南アジア歴訪時、バンコクとジャカルタで反日デモと暴動発生
  • 3.12 元日本兵小野田寛郎さん帰国
  • 5.18 インド、ポカラン砂漠で初の核実験に成功
  • 8.8 ウォーターゲート事件でニクソン大統領辞任
  • 8.15 韓国・朴正煕大統領狙撃され、同夫人死亡
  • 10.14 長嶋茂雄選手が引退

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アジア初の国際博覧会 『人類の進歩と調和』をテーマに特集

ラジオ日本では、大阪万博開幕の1年前から「進歩と調和をめざして」という特集番組を放送。科学や産業など各分野で先進国の仲間入りを果たしつつある日本の姿を伝えた。期間中は「万博便り」を連日放送し、話題の展示館やイベントなどを紹介。外国人アナウンサーも続々現地入りし、会場の熱気を伝えた。

人類の月面着陸と成長への懐疑

日本初、アジア初の日本万国博覧会(1970年 大阪)。中央に太陽の塔を望む。総入場者数は6,421万8,770人(うち外国人は約170万人)写真:毎日新聞社/アフロ

日本初、アジア初の日本万国博覧会(1970年 大阪)。中央に太陽の塔を望む。総入場者数は6,421万8,770人(うち外国人は約170万人)写真:毎日新聞社/アフロ

1960年代は日本にとって、「奇跡の高度成長」の時代だった。人類は成長に向けた夢をみていた。そのひとつの頂点が月面着陸だった。しかし、地上ではベトナム戦争、文化大革命、公害、環境破壊と成長神話への懐疑が育っていた。

「進歩と調和をめざして」

日本初、アジアでも初めてとなる国際博覧会「日本万国博覧会」は、1970(昭和45)年3月14日から9月13日まで、大阪府の千里丘陵で開催された。

大阪万博には世界の77の国と4つの国際機関が参加し、当時としては史上最大規模を誇った。大阪万博のテーマは『人類の進歩と調和』。ラジオ日本では開会1年前から「進歩と調和をめざして」という特集番組の放送を始めた。日本語、英語をはじめ18の言語で放送されたこの番組では、大阪万博を広く世界に紹介するとともに、科学や産業など各分野で、進歩と調和をめざして努力する日本の姿を伝えた。

開会式を世界に向けて生中継

大阪万博の開会式は送信時間を臨時に拡大して英語と日本語で全世界に生中継したほか、全言語で開会式の実況ハイライトを放送した。期間中は「万博便り」を連日放送し、話題の展示館やイベントなどを紹介したほか、各国のナショナル・デーには外国人アナウンサーが万博会場を訪れ、特別番組を制作し放送。それぞれの言語の放送対象国・地域へのサービス充実に努めた。

感想文コンクール入賞者を日本に招待

大阪万博の開催を記念してラジオ日本では日本万国博覧会協会、日本航空と共同で聴取者を対象に、大阪万博に関する感想文コンクールを行った。コンクールには全世界から1,724通におよぶ応募があり、審査の結果6人の入選作品が決まり、7月、入選者を日本に招待した。1週間にわたり万博会場や京都、東京などを訪ねた様子を録音し、特別番組として放送した。

1970年、核拡散防止条約(NPT)が発効する。1971年、中華人民共和国が国連での代表権を持ち、国際舞台に登場する。日本は非核三原則の遵守を国会で決議するなど、平和路線を継続する。そして、70年代は1973年の石油危機をはじめ、中東が世界の大きな波乱要因として動き出した。

大阪万博をタイのリスナーに向けて発信
チャウィウォン桜井さん

チャウィウォン桜井さん

私が留学生として来日したのは1968年。その翌年からタイ語放送の仕事を始め、大阪万博を紹介する番組の担当になり、「月の石」のアメリカ館など各国のパビリオン紹介や、「太陽の塔」に込められたメッセージなどについて伝えました。開幕後、万博会場を見学する機会がありました。自ら番組で紹介したものを目の当たりにし、その迫力に圧倒されました。特にタイのパビリオンは本物そっくりの寺院の形をしていて、感心しました。

当時、日本人はタイのことをあまり知らず、大阪万博はタイを知ってもらうよい機会だったと思います。万博のために来日したタイ人の料理人がその後、日本初のタイ料理店を開きました。今では日本中にタイ料理店があるのはご存知のとおりです。

大阪万博から45年。今では日本のポップカルチャーに詳しいタイ人も珍しくありません。リスナーの興味が多様化するなか、タイに向けてどのような日本の情報を伝えるべきか、これからも試行錯誤しながらタイ語放送に携わっていきたいと思います。

(タイ語放送アナウンサー チャウィウォン桜井)

中国語放送など
アジア地域向け発信を強化

1972年の日中国交正常化を機に中国語の放送時間とニュース・番組を拡充

日中国交正常化を機に中国国内で高まった日本語への関心に応え、1回あたりの放送時間を30分から45分に拡大し、ニュースや番組を拡充・強化。新たな聴取者の獲得につとめた。一方、軍事独裁体制下の韓国と北朝鮮には、ラジオ日本の放送に密かに耳を傾け、自国のメディアが伝えない最新の情報を得ようとする多くのリスナーがいた。

日中国交正常化で中国語放送拡充

1972年9月29日 日中国交正常化。日中共同声明の調印式での田中角栄、周恩来両首相

1972年9月29日 日中国交正常化。日中共同声明の調印式での田中角栄、周恩来両首相

1972(昭和47)年9月29日、日本と中国の間の国交が正常化された。これに伴い、中国大陸や東南アジアに向けて放送されていた中国語放送の拡充強化が図られた。それまで30分だった1回あたりの放送時間が、15分増えて45分になり、二ュース、解説、番組が拡充・強化された。

一方、中国語(標準語)の普及状況を考え、福建語、広東語放送は73年に廃止された。

自国内の動きを知るために朝鮮半島で聞かれたラジオ日本

1973年8月13日 ソウルの自宅に無事戻った金大中氏

1973年8月13日 ソウルの自宅に無事戻った金大中氏

韓国と北朝鮮の間で歴史的な南北共同声明が発表されたのも72年のことだった。この年の7月4日、両国は、統一は武力行使によらず平和的方法で実現すべきであることなどを確認し、南北統一に対する期待が一挙に高まった。

しかしその後の朝鮮半島情勢は人々の期待とは正反対の方向に進んでいく。1973年の金大中拉致事件、74年の朴大統領狙撃事件などが続発する。韓国、北朝鮮ともにそれぞれの体制の引き締めに乗り出し、報道の自由が極端に制限された。韓国の聴取者が韓国内の動きを知るために密かに耳を傾けていたのが、ラジオ日本の放送だった。そのような状況は80年代の終わりに韓国が民主化されるまで続く。当時、北朝鮮でもラジオ日本が聞かれていたことを、その後、韓国に逃れて来た脱北者たちが証言している。

アジアでの「反日」デモ・暴動

田中首相の東南アジア歴訪、バンコク・ジャカルタで起こった反日デモ(写真は1974年1月15日ジャカルタ)

田中首相の東南アジア歴訪、バンコク・ジャカルタで起こった反日デモ(写真は1974年1月15日ジャカルタ)

戦後、焼け野原から復興した日本は1965年には韓国と基本条約を結び、72年には中国と国交正常化で戦後処理の大きな課題を乗り越えた。経済は成長を続け、アジア諸国との関係は改善されたかにみえたが、74年1月、田中角栄首相の東南アジア歴訪時、バンコクとジャカルタで反日デモ・暴動が起きた。ジャカルタでは車両800台が壊され、11名の死者がでた。首相は迎賓館から一歩も出ることなく、ヘリコプターで空港に向かうことを余儀なくされた。この事件は、日本が経済的利益を追求するだけでなくアジアとの対話を強化する必要性を示し、のちの「福田ドクトリン」につながった。

韓国の軍事政権下に聞いたラジオ日本
キム・ギロンさん

キム・ギロンさん

私がラジオ日本を聞き始めたのは1962年、大学2年生の時でした。短波放送を聞くことが法律で禁じられていたわけではありませんが、北朝鮮との関係もあり、こっそり、用心深く聞いていたものです。長い間、韓国では厳しい報道規制があり、自国で放送しないことをラジオ日本の放送を通じてずいぶん知りました。特に印象に残っているのは1980年、私の住んでいる光州(クァンジュ)で起きた民主化運動の報道です。現地に入ったNHK特派員の報告、解説、各国の反応などを聞きながら今光州で何が起きているのかを客観的に知ることができました。1994年の、金日成死亡の第一報もラジオ日本を通じて知りました。あれはラジオ日本の特ダネだったと記憶しています。

(キム・ギロン 韓国 光州市 元高校教師)