NHK WORLD

黎明期

国際放送主な出来事 黎明期

国際放送開始1935年~1940年代

国際放送主な出来事 国際放送開始1935年~1940年代

1950~70年代

国際放送主な出来事 1950~70年代

1980~90年代

国際放送主な出来事 1980~90年代

2000~2015年

国際放送主な出来事 2000~2015年代

1965~1969(昭和40年~昭和44年)

激動する世界を伝えるベトナム戦争・文化大革命からよど号事件まで

年代史  >  1965~1969 >  激動する世界を伝える  | 日本、世界第2の経済大国に もっと日本人を知りたい

主な出来事

’65
  • 1.11 東京に初のスモッグ警報
  • 2月~ アメリカがベトナム戦争(-1973)、北爆開始
  • 6.22 日韓基本条約調印
  • 1965以降日米間の貿易収支逆転
’66
  • 3.31 日本の総人口1億人突破
  • 6.30 ビートルズ、日本武道館で公演
  • 8.18 北京で文化大革命祝賀の紅衛兵100万人集会
  • 庶民の夢「カー、クーラー、カラーテレビ」
’67
  • 6.5 第3次中東戦争(六日戦争)
  • 7.1 欧州共同体(EC)発足
  • 8月 東南アジア諸国連合(ASEAN)設置の共同宣言署名
  • 11.15 日米首脳会談、小笠原諸島返還発表
’68
  • プラハの春
  • 1.17 米空母エンタープライズ入港
  • 6.26 小笠原復帰
  • 10.17 川端康成、ノーベル文学賞受賞
  • 12.10 3億円強奪事件
  • 日本の国民総生産(GNP)1419億ドル。アメリカに次いで2位に(1969.6.10経済企画庁発表)
’69
  • 1.18 大学紛争・安田講堂の攻防
  • 3.2 中ソ国境紛争ぼっ発
  • 5.26 東名高速道路全線開通
  • 7.21 アポロ11号、人類初の月面着陸に成功
  • 12.16 成田国際空港着工に向け建設相が事業認定

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世界のメディアがこぞってラジオ日本が発信するNHKニュースを二次利用

ラジオ日本はジェネラルサービス(日本語・英語)とリージョナルサービス(中国語・ベトナム語など)で、ベトナム戦争や中国の文化大革命など海外の情勢や、激しさを増す学生運動など日本国内の動きを詳細に伝えた。NHKのアジア関連報道は、ラジオ日本を通じて外国メディアに二次利用され、世界に拡散した。

緊張高まるインドシナ情勢と文化大革命

1965年2月 アメリカがベトナムの北爆を開始。インドシナ戦争後に南北に分裂したベトナムで発生した戦争。戦争終結は1973年。ベトナム戦争をめぐって反戦運動が世界に広がった

1965年2月 アメリカがベトナムの北爆を開始。インドシナ戦争後に南北に分裂したベトナムで発生した戦争。戦争終結は1973年。ベトナム戦争をめぐって反戦運動が世界に広がった

1960年代なかば、インドシナ半島での緊張が高まるにつれベトナム関係のニュースが増えていった。国際放送では1965(昭和40)年3月、ベトナム語放送をそれまでの週3回から毎日の放送に拡充した。65年にはアメリカの北爆が始まり、68年には北爆を強化するアメリカに対抗して北ベトナムが旧正月休戦明けに反撃を加えるなど、ベトナム戦争は泥沼化していった。

中国では、建国の父と称えられる毛沢東が、一方で、「大躍進」政策の失敗から復権を狙って文化大革命を進めていた。苛烈な権力闘争が展開され、多くの知識人や一般市民を巻き込んで大がかりな粛清が行われた。

ベトナム戦争や文化大革命をめぐるNHKのニュースは、海外特派員や記者の綿密な取材に支えられていた。外国の通信社や新聞、放送局は、ラジオ日本を通じて発信されるNHKのニュースをこぞって二次利用した。

ベトナム戦争、中国の文化大革命、そして66年インドネシアのスカルノ退陣をめぐる報道でも、ラジオ日本は外国メディアにとって重要な情報源になった。北米などの放送機関からは、ラジオ日本のニュースをそのまま中継したり、あるいは録音して再放送したいとの要望があり、NHKはそれを許諾している。

激しさを増す学生運動

ベトナム戦争に反対する若者たちの抗議の声は日本でも高まり、67年には佐藤栄作首相の訪米に反対する羽田でのデモで死者1人を出すにいたった。その後も米空母エンタープライズ佐世保入港反対デモ、成田空港建設反対運動などが続き、大きな社会問題に発展した。

学生運動はさらに過激化し、69年には東大安田講堂事件、70年には過激派の一部が日航機を乗っ取り北朝鮮に向かうよう要求する「日航機よど号事件」が発生する。ラジオ日本はジェネラルサービスとアジア大陸に向けた放送を臨時に大幅延長して、事件の経過や政府の見解、世論の動向などを伝え続けた。

日本GNPで世界第2位に

1960(昭和34)年、池田首相の所得倍増計画は国民を元気づけ、日本を高度成長の波に乗せた。“Made in Japan”の日本製品はアメリカをはじめ世界に溢れた。1968年に日本はGNPで世界第2位の経済大国になった。日本製品・日本人・日本への関心が世界で高まっていた。

アナウンスマシーンなど最新技術導入による番組送出の自動化完成
NHK放送会館 国際放送運行室にて自動送出実施中(1965.9)

NHK放送会館 国際放送運行室にて自動送出実施中(1965年9月)

1952年、国際放送が再開された当初は日本語と英語の放送を各30分ずつ、5方向に向けて出すだけだったのが、年とともに放送は増え続け、1965年には23の言語で、18方向に向け一日延べ30時間放送するまでになっていた。もはや人力だけに頼る送出は限界だった。そこでこの年導入されたのがアナウンスマシーンと言われる自動送出システムだ。これにより各機器の監視は一人で行えるようになった。またスタジオには自動音量調整増幅器が設置され副調整室の技術者の立ち会いも不要になった。1965年は国際放送技術革命の年でもあった。

日本、世界第2の経済大国に
もっと日本人を知りたい

「ある日本人」「やさしい日本語」など、番組を拡充・新設

1962(昭和37)年に始まった「ある日本人」はラジオ日本の看板番組として1989(平成元)年まで27年間続いた。小学校教師など市井の日本人から、ノーベル賞作家の川端康成まで、多彩な日本人像を海外に紹介。「日本語の手引(後の「やさしい日本語」)」と並び、国際放送の重要なカテゴリー「人物」「語学」の基礎を築いた。

「ある日本人」で市井の日本人からノーベル賞受賞者まで紹介

世界の日本と日本人のイメージ 「新幹線・公害(東京・1967年)・押し屋」

世界の日本と日本人のイメージ 「新幹線・公害(東京・1967年)・押し屋」

「ある日本人」に出演する川端康成(1962.4)

「ある日本人」に出演する川端康成(1962年4月)

ラジオ日本の放送はニュースとそれ以外の番組で編成されている。中でも長い間リスナーから愛された番組の一つに「ある日本人」がある。小学校教師や建築技師、弁護士、バス運転手、女子工員など、さまざまな職業の日本人を取り上げ、その生活ぶりや生の声を紹介するこの番組は、62年に英語放送番組として始まった。その後68年に韓国・朝鮮語で、翌69年からは共通番組として広く各言語で放送されるようになった。69年には東京五輪に関連して、代々木競技場を設計した丹下健三を紹介した。そのほかソニーの盛田昭夫や映画監督の黒澤明、ノーベル化学賞を受賞した福井謙一など多くの著名人が登場した。聴取者からは「この番組を通じて日本人がより身近に感じられるようになった」など好意的な意見が寄せられ、ラジオ国際放送の歴史の中でも有数の長寿番組になった。

「日本語の手引」から「やさしい日本語」へ

1969年7月21日(日本時間) アポロ11号、人類初の月面着陸 「一人の人間にとって、これは小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」

1969年7月21日(日本時間) アポロ11号、人類初の月面着陸 「一人の人間にとって、これは小さな一歩だが、人類にとっては大きな飛躍だ」

番組「日本語の手引」の収録(1960.5)左からスコッティ・ウェイド、松本亨、友部光子

番組「日本語の手引」の収録(1960年5月)左からスコッティ・ウェイド、松本亨、友部光子

ラジオ日本ならではの番組といえば、なんといっても日本語講座であろう。語学講座がはじめて放送されたのは1959年の「日本語の手引」。毎週2回各15分の放送で、初歩的な日本語会話を習得してもらうのがねらいだった。当初「日本語の手引」は英語とインドネシア語だけ。英語版は、NHKラジオ「英語会話」の名調子で知られる松本亨さんが講師を務め、東京放送劇団の友部光子さんが発音指導を行った。日本語講座のテキストは、リスナーに毎月無料で配付(郵送)している「ラジオ日本ニュース」に掲載し、学習者の便宜を図った。

ラジオ日本で日本語を独学したアフリカ人リスナー
ラジオ日本で日本語を習得したハッサン・マラン・カウさん(カメルーン ンゲンデレ市)

ラジオ日本で日本語を習得したハッサン・マラン・カウさん(カメルーン ンゲンデレ市)

西アフリカ、カメルーン。サバンナの電気も水道もない人口2千人ほどの小さな村に生まれたハッサンさんは、流ちょうに日本語を操る、親日家として知られる青年だ。

日本との出会いはラジオ日本がきっかけだった。経済的な事情で高校進学を断念せざるをえなかったハッサンさん。気を紛らわせようとスイッチを入れた短波ラジオから、偶然、ラジオ日本の放送が聞こえてきた。日本のニュースや情報に触れるうち、さらに日本を知りたいと、日本語の習得を決意。フランス語版「やさしい日本語」を聞いて独学で勉強を続けた。昼は家の仕事を手伝い、夜は日本語の勉強に打ち込んだ。こうした彼の熱心な姿に心を動かされた親族が学費を援助し、ハッサンさんは念願の高校、大学、そして大学院進学を果たした。

ハッサンさんは「日本とカメルーンの架け橋になりたい」と、学業のかたわらボランティアで日本語教室を開き、カメルーンの若者に日本語を教えている。