NHK WORLD

黎明期

国際放送主な出来事 黎明期

国際放送開始1935年~1940年代

国際放送主な出来事 国際放送開始1935年~1940年代

1950~70年代

国際放送主な出来事 1950~70年代

1980~90年代

国際放送主な出来事 1980~90年代

2000~2015年

国際放送主な出来事 2000~2015年代

1952~1959(昭和27年~昭和34年)

新生「ラジオ日本」
国際放送を再開

年代史  >  1952~1959 >  新生「ラジオ日本」 国際放送を再開  | ラジオ日本の声 世界は大きく変わった

主な出来事

’52
  • 1.18 「李承晩ライン」設定
  • 2.1 国際放送再開、「ラジオ日本」
  • 4.28 対日平和・日米安保両条約発効
  • 10.3 英、初の原爆実験成功
  • 11.1 米、水爆実験成功
’53
  • 6.18 エジプト共和国成立
  • 2.1 NHKテレビ放送開始
  • 6.2 エリザベス女王戴冠式
  • 7.27 朝鮮戦争休戦協定
  • 8.12 ソ連水爆実験に成功
’54
  • 2.1 マリリン・モンロー来日
  • 3.1 第五福竜丸、ビキニの米水爆実験で死の灰を浴びる
  • 4.1 広島市平和記念公園完成
’55
  • 4.18 第1回アジア・アフリカ会議29か国参加
  • 8.6 第1回原水爆禁止世界大会、広島市で開催
  • 10月 自由民主党結成 社会党統一
’56
  • 5月 日本登山隊マナスル初登頂
  • 7月 経済白書「もはや戦後ではない」
  • 12.12 日ソ国交回復
  • 12.18 日本国連加盟(80番目)

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民主主義国家・日本の姿を世界に伝える

1951(昭和26)年、日本はサンフランシスコ平和条約で、国際舞台に復帰した。翌年、戦後6年あまりの空白を経て日本の国際放送は、「ラジオ日本」として再開した。正確で客観的な報道に徹し、日本の実情をありのままに伝えることで、民主主義国家として歩み始めた日本に対する世界の理解を促進し、信頼を深める役割を担った。

「ラジオ日本」として再出発

国際放送を担当した国際局英語アナウンサーたち

国際放送を担当した国際局英語アナウンサーたち

1951年9月8日 サンフランシスコ平和条約の調印式 首席全権の吉田茂首相が最後に署名(アメリカ・サンフランシスコ)

1951年9月8日 サンフランシスコ平和条約の調印式
首席全権の吉田茂首相が最後に署名(アメリカ・サンフランシスコ)

際放送は、終戦後、GHQの命令により放送を中止。6年あまりの空白を経て、「ラジオ日本」(英語名「Radio Japan」)として1952(昭和27)年2月1日再開された。

前年9月のサンフランシスコ平和会議を受け、日本は独立国として世界各国に日本が歩みつつある新しい道を示す必要に迫られ、国際放送実施への気運が高まっていた。

試験放送に続き本放送が始まったのは2月10日のことだった。開始記念特集番組では、NHK交響楽団による「平和への序曲」が放送された。

戦後生まれ変わった日本を伝える
「平和国家への道」

新生「ラジオ日本」はまず、正確で客観的なニュース報道に徹することを目指した。そして、番組では民主主義国家、平和国家として歩み始めていた日本の実情を伝えることに重点が置かれた。「戦後の皇室と人間天皇」「戦後の教育制度改革と現状」「農地改革後の日本農業」など、民主化(言論の自由・財閥解体・農地解放・指導部の公職追放など)によって生じた大きな変革を伝える解説番組などが作られた。

また、音楽をはじめ日本の文化を紹介する番組も放送され、海外からの賓客へのインタビューや日本語普及のための講座番組などもつくられた。日本の音楽は海外に住む日本人の楽しみともなり、ハワイに住む一日本人は「故国からの放送で日本の音楽を直接聞くと日本情緒が生き生きと感じられ、アナウンサーの名調子とともに実に愉快になる」という感想を寄せている。

5方向に向けて日本語・英語それぞれ30分放送

放送再開時の言語は日本語と英語の2言語で、放送時間は各30分。送信方向は5方向だった(北米、華北、華中、フィリピン・インドネシア、インド・パキスタン)。当時インドネシアで聴取したリスナーからは次のような感想が寄せられている。

「私は貴局の番組に興味を持つ者の一人です。この放送は当地では非常に明瞭に聴取できます。英語ニュース、解説、音楽の30分は楽しいものです。特に解説は非常に興味深いものであり、これを聴取者が聞けば日本について一層理解を深めるものと思われます。これにより両国の間のより良い理解が図れれば喜ばしいことです」

当時の受信報告によると、ラジオ日本のリスナーは、ハワイ、カリフォルニア、上海、インド、遠くはニュージーランド、スウェーデンにまで及んでいた。

名崎/八俣送信所について
八俣送信所の管制室(1955年)

八俣送信所の管制室(1955年)

1935年6月1日、日本初の国際放送は、名崎送信所(茨城県結城郡名崎村、現在の古河市)から20kWの出力で北米西部向けに送信された。その2年後には50kW送信機が増設され、南米や欧州、南西アジアなどに向けた送信を拡充していった。

八俣送信所(茨城県猿島郡八俣村、現在の古河市)は海外放送専用局として計画され、名崎送信所の南西2キロの地点に建設。1941年1月1日、50kWの出力で北米や欧州、中国向けに放送を開始した。

戦後の中断期、両送信所は進駐軍向けの放送や短波による電話回線の運用などを行っていたが、戦時中、破壊を免れるために他の施設に疎開させていた送信機を戻して整備するなど、国際放送再開に向けた準備を着々と進めていた。そして1952年2月1日、名崎/八俣送信所は50kW送信機各1台を使って国際放送を再開した。

1971年5月、日本の国際放送はすべて八俣送信所に統合され、名崎送信所はその役目を終えた。

ラジオ日本の声
世界は大きく変わったアジア・アフリカの植民地は独立国に

主な出来事

’57
  • 2.1 南極観測、昭和基地へ放送
  • 5.15 英、水爆実験に成功
  • 10.4 ソ連、世界初の人工衛星スプートニク打ち上げ
’58
  • 1.1 欧州経済共同体(EEC)設立
  • 8.6 平和式典、平和宣言で初めて明確に原水爆禁止を主張
  • 12.1 一万円札発行
  • 12.23 東京タワー完成
’59
  • 1.10 NHK教育テレビ放送開始
  • 4.10 皇太子明仁親王ご成婚
  • 4.22 放送法改正で国際放送はNHKの本来業務と明文化
  • 9月 伊勢湾台風

在外邦人、南極観測隊やマナスル登山隊などに励ましのメッセージと娯楽

戦争と占領期間を通じて、20年近く世界との交流を制限された日本人にとって、南極やマナスルは大きな希望の大地だった。南極観測隊やマナスル登はん隊向けの特別放送は、過酷な環境に挑戦する日本人に祖国から直接励ましのメッセージを届けた。

世界は大きく変わった アジア諸国は独立国に

1955.4.18 第1回アジア・アフリカ会議

1955年4月18日 第1回アジア・アフリカ会議

国際放送の再開時、放送の対象となる世界は大きく変わっていた。戦前は英仏米蘭などの欧米列強の植民地だったアジアはそれぞれ民族意識・独立気運が高まり、再び列強の植民地に戻ることを許さなかった。第二次世界大戦後、連合国は分裂し、東西に分かれる冷戦時代に入った。一方、インドのネール首相、インドネシアのスカルノ大統領、中国の周恩来首相、エジプトのナセル大統領らが中心となって1955年にはインドネシアのバンドンで非白人諸国29か国の首脳が参加して第1回アジア・アフリカ会議が開催された。植民地支配と決別し、東西に与しない平和十原則が定められ、その後、1961年9月に開催された第1回非同盟諸国首脳会議に引き継がれた。

さらに1960年は「アフリカの年」とされ、17か国が独立した。世界には日本と同様、新興の意気に燃える新しい国があり、リスナーがいた。日本も占領軍のプレスコードの制約から開放され、自由な放送を手にしたのである。

南極観測隊に向けた放送開始

1956年、南極大陸の天文、気象、地質などの観測を行うため、日本の第一次南極観測隊が派遣された。ラジオ日本ではこの国を挙げての行事を応援するため、観測に従事する人々に向けての放送を実施することになった。最初の放送は1957年2月1日午前0時半から1時までの30分。内容はニュースや家族の声などを伝える「録音便り」や演芸、音楽などで、あらかじめ実施したアンケートの要望に応えたものだった。

南極から届いた喜びの声

南極で聞かれるラジオ日本(1961.7)右上:越冬隊長の家族の声を収録する風景(1957年9月)

南極で聞かれるラジオ日本(1961年7月)右上:越冬隊長の家族の声を収録する風景(1957年9月)

試験放送初日、隊員の輸送にあたっていた海鷹丸の船長から長文の電報が届いた。内容は「期待して待っていた南極向けの放送を聞いて一同大変喜んでいます。南極には観測隊関係者だけでなく多数の捕鯨船団がおり3千名以上の同胞が日夜大自然と闘いながら祖国の声を待ちわびています」というものであった。やがて昭和基地が設営され、短波聴取のためのアンテナの準備が整うと、越冬隊員から「感度、明瞭度とも申し分なく東京で国内のラジオを聞いているのと同じ程度で、基地での楽しいひと時となっている」との連絡が届いた。

マナスル登山隊と国際放送

マナスル登頂の加藤喜一郎隊員(1956.5.11)

マナスル登頂の加藤喜一郎隊員(1956年5月11日)

1955年、ヒマラヤの高峰マナスル登はんを敢行する日本山岳会からNHKに対し「登はん中の隊員に祖国の声をぜひ聞かせて欲しい」という要請があった。ラジオ日本ではこれに応え、ヒマラヤ方向に向かって放送している電波を使用して「マナスルの呼び声」などの音楽や、隊員を激励するメッセージを放送した。