NHK WORLD

黎明期

国際放送主な出来事 黎明期

国際放送開始1935年~1940年代

国際放送主な出来事 国際放送開始1935年~1940年代

1950~70年代

国際放送主な出来事 1950~70年代

1980~90年代

国際放送主な出来事 1980~90年代

2000~2015年

国際放送主な出来事 2000~2015年代

1946~1951(昭和21年~昭和26年)

GHQ指令による国際放送停止
~国策放送の終焉

年代史  >  1946~1951 >  GHQ指令による国際放送停止~国策放送の終焉  | 中断期間・新生NHKをめざして

主な出来事

’46
  • 3.5 英チャーチルが「鉄のカーテン」演説
  • 4.10 戦後初の総選挙。女性に参政権
  • 5.3-48.11.12 極東軍事裁判
  • 7.1 米、ビキニで原爆実験開始
  • 11.3 日本国憲法公布
’47
  • 5.3 日本国憲法施行(主権在民、象徴天皇制、戦争放棄、男女同権などの理念)
  • 8.6 第1回平和祭を平和広場で挙行、マッカーサー、メッセ一ジを寄せる
’48
  • 4.1 ソ連、ベルリン封鎖開始
  • 8.6 平和式典で、浜井広島市長メッセージ「広島市民は永遠平和のほか何ものをも欲しない」
  • 8月 大韓民国成立/9月朝鮮民主主義人民共和国成立
’49
  • 5月 長崎市原爆資料館開設
  • 8.15 インド・パキスタン独立
  • 8.29 ソ連、原爆実験に成功
  • 10.1 中華人民共和国成立
  • 11.3 湯川秀樹、ノーベル物理学賞受賞決定

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それでもなお国際放送には使命があった

終戦で国際放送の役割も大きく変わることになった。日本の降伏文書への調印はラジオを通じて全世界に放送された。一方GHQ(連合国総司令部)の占領政策のもと、日本放送協会の国際放送は停止の指令を受ける。旧満州などに取り残された日本人の引き揚げが急務となる中、海外向け放送には別の使命が求められた。

「城」を明け渡した国策放送

1945年9月2日 ミズーリ号艦上での連合国との間の降伏文書調印式。GHQ・連合国最高司令官総司令部マッカーサー元帥

1945年9月2日 ミズーリ号艦上での連合国との間の降伏文書調印式。GHQ・連合国最高司令官総司令部マッカーサー元帥

1946年5月17日 戦後初の総選挙で誕生した女性代議士(第90回帝国議会)

1946年5月17日 戦後初の総選挙で誕生した女性代議士(第90回帝国議会)

1947年11月3日 日本国憲法公布記念祝賀都民大会(皇居前広場)

1947年11月3日 日本国憲法公布記念祝賀都民大会(皇居前広場)

1945(昭和20)年9月2日東京湾。米国戦艦ミズーリ号の艦上で日本は連合国との間で降伏文書に調印した。そこは、かつて日本に開国を迫ったペリー提督が日米和親条約調印の際、旗艦としていたポーハタン号を停泊させていたのと同じ場所と言われる。そんな演出を考えたGHQ・連合国最高司令官総司令部マッカーサー元帥も、当日艦上での演説前には、緊張が隠せなかったという。
「本日、銃は音を立てず、大いなる悲劇も終わった」と切り出したマッカーサーの演説も含めて、23分間にわたる調印式の模様は、近くに停泊していた通信艦船アンコン号から全世界に中継された。

国際放送の停止をGHQが指令

2日後の9月4日午前零時、GHQ指令により外国語放送が停止された。GHQは翌9月5日から1週間、日本放送協会の放送施設を使って日本国内で収容されている連合軍捕虜に向けて、英語による放送を出している。内容は「しばらく収容所にとどまって救出を待て」という指令であった。そして10日日本時間16時からの日本語放送を最後に全ての海外向けの放送が停止された。

これをもって、1952年2月1日に再開されるまでの6年と5か月、公式的には国際放送は中断されることになった。

引揚者等に向けて放送も

ただ、海外向けの放送が全く行われなかったわけではない。当時、旧満州や朝鮮半島、南太平洋の国や地域には多数の日本人が残されていた。その数約660万人と言われる。玉音放送の内容は本当なのか、日本が負けたというのは敵の謀略情報ではないのか…。そうした疑念と、行く末の不安を払拭するため、日本政府はGHQに対し海外残留邦人向けの放送を許可するよう求めていた。

これを受けて9月26日から北京と台北向けに国内のラジオ第一放送の番組を伝える「在外部隊向け放送」が始まった。のちに「在外邦人向け放送」と名を変え、上海にも対象を拡大した。

どれほどの邦人がラジオが聞ける環境にいたかはわからない。しかし、運よく日本からの放送を聞けた人にとっては、一日も早く祖国に引き揚げる、と誓う心の拠り所になったであろうことは想像に難くない。

米軍向け放送FEN(AFN)

太平洋戦争末期、米軍は陥落したニューギニアやフィリピンで、「ジャングルネットワーク」と名付けた放送を展開していた。米軍基地向けニュースや娯楽番組のほか、日本兵への投降も呼びかけた。マニラで初めてFEN(極東放送)の呼称が使われ、その後沖縄に上陸。大戦終結後さらにマッカーサー元帥は、9月21日、日本放送協会の施設を接収、第2放送を使って本格的な在日米軍向け放送を開始した。


FENは1997年にAFN(American Forces Network)に改称、その後テレビ放送も開始し、各地に展開する米軍向け放送という、米国のいわば“特殊な”国際放送の一翼を担っている。

中断期間・新生NHKをめざして

主な出来事

’50
  • 6.1 「放送法」「電波法」「電波監理委員会設置法」の『電波三法』施行、新生日本放送協会NHK、民間放送誕生
  • 6.25 朝鮮戦争始まる
’51
  • 9月 サンフランシスコ平和条約に調印(参加52か国、ソ連・チェコスロバキア・ポーランド拒否)

国策放送から180度転換、新しい法制度で民主化を促すGHQ

国際放送の灯は一旦消えたが、国内向けラジオ放送は続いていた。その内容に厳しく目を光らせるのは、占領政策のひとつとして、放送を日本人の再教育に生かすことをめざしていたGHQであった。一方でGHQ撤収後、日本の民主主義を定着させるためには、放送の自主性を担保することが求められていた。

GHQによる放送管理統制

東京・内幸町の放送会館。GHQは建物の一角を接収し、放送管理政策を担う「民間情報局」を置いた

東京・内幸町の放送会館。GHQは建物の一角を接収し、放送管理政策を担う「民間情報局」を置いた

と終わった1940年の東京五輪、その一大イベントを世界に向けて発信するはずだった東京・内幸町の放送会館。建物の一角を、GHQは接収し、占領下の放送管理政策を担う「民間情報局」を置いた。

民間情報局は、占領政策の中核のひとつであった「民政局」とともに、ルーズベルト政権を支えた「ニューディーラー」たちが率いていた。彼らは革新的な政策を通して、日本にアメリカでも果たし得ないような、民主的な体制を築き上げようと理想に燃えていた。

「20世紀放送史」によれば、GHQは、「日本人の封建制、好戦的愛国心、神がかり的使命、人種的優越感を健全で民主主義的な平和愛好主義者に変革すること」を目標とし、その実現には放送を通じた日本人の再教育が重要だと考えていた。1945年11月、日本の全家庭の半数にラジオ受信機を普及させることを目標として、日本政府に生産計画を立てるよう命じたことからもその力の入れようがうかがえる。

厳しい検閲

GHQは言論および新聞の自由に関する覚書を発表し、「平和愛好国家として再出発する日本の将来に関する建設的議論を助長する」とともに、「真実に符合せず公共の安寧を乱す番組の放送を禁止する」とした。さらに放送向けの規範たる「ラジオコード」などを通じて、番組の検閲に力を入れ始めた。

「20世紀放送史」は、家庭菜園を「焼け野が原の緑」と表現した俳句が、米軍の爆撃を想起させるとの理由から放送禁止になったとして、検閲の厳しさの一端を紹介している。
放送は戦前の軍国主義から180度転換したとはいえ、占領下での治安維持と思想再教育の掛け声のもと、今度は、逆の立場からの介入を受けたわけである。

放送法制定、新生NHKへ

とはいえ、占領政策のあと放送制度をどのように民主化が担保されたものにするかは、戦後日本の大きな課題としてGHQも認識していた。それまで放送事業の運営は、無線電信法のもと、主務大臣たる逓信大臣の裁量に委ねられること大であった。それを事業主体の自主性を高めることをめざして「放送法」を新たに作り、放送に民主化の一翼を担わせようとした。これに一般の無線電信・電話を対象とする「電波法」と「電波監理委員会設置法」を加えた『電波三法』が1950年6月1日に施行され、新生NHK、さらに民間放送の誕生へとつながった。

国際放送の再開にはさらに1年半ほど後の1952年2月まで待たねばならない。

朝鮮戦争と韓国語放送
朝鮮戦争 ソウルで市街戦を戦う国連軍兵士(韓国・ソウル)

朝鮮戦争 ソウルで市街戦を戦う国連軍兵士(韓国・ソウル)

1950年6月29日、東京、松江、福岡から朝鮮半島に向け、NHKラジオ第2放送の波に乗せて、韓国語放送が始まった。実施したのはGHQである。4日前に勃発した朝鮮戦争で、北朝鮮側が破竹の勢いで南下、ソウルは陥落し韓国からの放送ができなくなっていたためだ。この放送はのちに、国連軍の創設によりVUNC(Voice of the United Nations Command)と称した。米国本土からやはりNHKの施設を中継して届けられたVOA(Voice of America)の韓国語放送と並んで、自由主義陣営に立ちつつ、韓国内の士気を高める情報を流した。同年同月1日に施行されたばかりの放送法では、電波監理委員会の認可を受けなければ、協会の放送設備を他人の支配に属させることはできないはずだったが、「外国語放送のため」という名目で押し切った。メディアの自主性を促したGHQは、皮肉にも新しい制度が始まった途端、統制を迫られた。VOAはサンフランシスコ平和条約が発効する1952年6月に終了したが、VUNCについては特例として1960年まで続いた。