NHK WORLD

黎明期

国際放送主な出来事 黎明期

国際放送開始1935年~1940年代

国際放送主な出来事 国際放送開始1935年~1940年代

1950~70年代

国際放送主な出来事 1950~70年代

1980~90年代

国際放送主な出来事 1980~90年代

2000~2015年

国際放送主な出来事 2000~2015年代

19345(昭和20年)

日本の無条件降伏を
「決定前」に伝えた国際放送

年代史  >  1945  >  日本の無条件降伏を「決定前」に伝えた国際放送  | 玉音放送

主な出来事

’45
  • 1.27 アウシュヴィッツ収容所解放。ナチスドイツによるホロコースト発覚
  • 2.4-11 ヤルタ会談(米・ソ・英)
  • 3.10 東京大空襲
  • 7.17-8.2 ポツダム会談
  • 8.6 広島に原子爆弾投下
  • 8.9 長崎に原子爆弾投下
  • 8.11 国際放送で日本がポツダム宣言受諾する旨のニュースを全世界に放送
  • 8.15 玉音放送、太平洋戦争終結
  • 9.4 GHQ指令、海外向け外国語放送停止
  • 9.10 日本語放送停止
  • 10.24 国際連合創設(29か国が批准)

もっと見る

敗戦が決定的となる中で軍とは一線を画した国際放送

1945年日本軍はアジア全域で劣勢となり、東京大空襲などで全土が焦土となりつつあった。そして8月、広島・長崎への原爆投下は日本のみならず世界に大きな衝撃を与えた。戦争遂行上支障が出るとの軍の難色を排して国際放送はその惨状を世界に伝えた。そして無条件降伏を求めたポツダム宣言の受諾。敗戦が決定的となる中、国際放送はその本来の役割を取り戻していく。

原爆投下を伝えた国際放送

1945年7月17日-8月2日に開かれた米・英・ソの首脳によるポツダム会談(左からチャーチル英首相、トルーマン米大統領、ソ連スターリン共産党書記長)

1945年7月17日-8月2日に開かれた米・英・ソの首脳によるポツダム会談(左からチャーチル英首相、トルーマン米大統領、ソ連スターリン共産党書記長)

原爆投下(1945.8.6 午前8:15)の翌月に撮影された広島県産業奨励館(現・原爆ドーム)

原爆投下(1945年8月6日 午前8:15)の翌月に撮影された広島県産業奨励館(現・原爆ドーム)

「原爆が投下された時、小学生は校庭で朝の体操中だった。多くの市民は通勤途中だった。米軍は冷酷にも最悪の時刻に攻撃した」

「人々は原爆によるやけどで皮膚がただれ、苦しみもがいていた」

国際放送が広島への原爆投下について報じたものだ。米国立公文書館に、米政府が8月14日に受信した記録として残されていたものだ。国際放送は、原爆の被害の状況を広島に投下された翌日の8月7日から克明に報じている。

原爆のすさまじい破壊力と非人道性を最も早く世界に伝えたのは国際放送だったのである。外国のメディアは国際放送を引用して原爆の惨状を伝えた。

日本の軍部は原爆について報じると米軍の宣伝になる上、国民心理に強い衝撃を与えることになるとして強固に反対した。それに対し情報局と外務省が押し切っての放送だった。

原爆は続いて長崎に投下された。そして日ソ不可侵条約を破棄してのソ連軍の参戦。日本の敗北は決定的となり、御前会議で無条件降伏を求めたポツダム宣言の受諾が決まる。

ポツダム宣言は受諾発表前に国際放送で流された

ここで国際放送はもう一つ、重要な役割を担う。日本政府によるポツダム宣言の受諾が公表される前、8月10日に受諾の決定を放送するのである。これは外務省の発案で、当時の松本俊一外務事務次官が、「敵側将兵に早く報せる要がある」として同盟通信と日本放送協会に命じた。犠牲を少しでも減らしたいという判断だった。

松本の指示を受けた外務省書記官の大田三郎は手記に以下のように記している。

「…Japan accepts Potsdam Declarationとリードを入れ、次に申し入れの文章の全文をそのまま打つこととし、防空暗幕で蒸し暑い部屋で安保君がタイプで原稿をたたいて呉れた。しばらくし…放送協会に赴き、武藤国際局長に事情を話し、とめられるまで各放送に入れる様に手配して外務省事務室に帰った」

大田の手記は、放送協会側の関係者の証言とも符合している。当時、国際放送の記者として勤務していた住友公一が「あまりにも強く私の脳裏に焼き付いていて忘れられない話」として、国際放送を研究していた北山節郎(元NHK国際放送担当職員)に以下の手紙を送っている。

「その日、たまたま泊まり勤務でした。たしか夜の9時くらいだったと思いますが…。これを放送せよとの英文原稿が届きました。その趣旨は『大日本帝国政府は天皇の大権が侵されないという条件で、ポツダム宣言を受諾する用意がある』ことを連合国に通告するものでした」。

その記事は、以下のようなものだった。

「"The Imperial Japanese Government has just announced that it is ready to accept the Potsdam Declaration on the understanding that the Imperial prerogative shall not be prejudiced." Here is the full text of the announcement…」

大田の手記によれば、この放送は途中で軍に止められる。そして翌日には憲兵が捜査に来たという。当時、国際放送の編成部長だった大屋久寿雄は回想録の中で、憲兵から「御聖断は未だ下ったのではない。これは明らかに売国奴」とまくしたてられたと書いている。

しかし敗戦が決定的な状況で、軍は国際放送に影響を及ぼせる力を既に持っていなかった。

日米開戦時に暗号として使われた国際放送は、終戦に際しては軍の意思に反して日本の敗北を敵にいち早く伝え放送本来の姿を取り戻した。

玉音放送外地・南方に放送、秩序ある武装解除・撤退

戦後終結を伝えた天皇陛下の肉声

英訳された玉音放送

玉音放送を聞く(東京・四谷)

玉音放送を聞く(東京・四谷)

そして8月15日、天皇の肉声による戦争終結の詔書、玉音放送は英訳されて世界に放送された。終戦後、多くの資料が焼却されたが、戦前の国際放送について調べたNHKの取材で英訳された玉音放送の内容が明らかになった(以下原文)。

「We have ordered Our Government to communicate to the Government of the United States, Great Britain, China and Soviet Union that Our Empire accepts the provisions of their Joint Declaration.」

玉音放送は日本語でもそのまま国際放送で流された。戦争の終結を告げる天皇陛下の肉声は外地、南方にいる大勢の軍人、民間人に伝えられた。これによって旧日本軍の武装解除が混乱なく行われた。終戦後も、連合軍司令部の許可を得て、海外に残った未復員軍人、未引揚者向けの放送に限って国際放送は継続された。

放送は平和のために

国の戦争遂行の重要な機能の一部と位置づけられた国際放送で仕事をするとはどういうものだったのであろうか。戦前に国際放送を経験し、本稿をまとめるにあたって数少ない証言者のひとりとなってくれた水庭進(元NHK国際放送担当職員)は、「当時は国内放送と同等か、それ以上に国際放送が重要視されていた」と記憶している。そして次の様に語った。

「みなプライドを持って仕事をしていたが、やはり放送は事実を伝えるもので、そういう意味ではあまり良いものではなかったのだろう。放送は平和のために行うものだ。しかし一度戦争になってしまえば、それに抗うことは難しい」

日米対話と国際放送

「無条件降伏とは軍事用語です。抵抗行為の中止、武力の放棄という意味なのです。それは隷属化を強要するものではありません。それは日本民族の根絶を意味するものではありません」

1945年5月、米国発の短波ラジオから日本語で語りかける人物がいた。米海軍情報将校のエリス・M・ザカライアス。日本軍に無条件降伏を迫るトルーマン大統領の声明について、その真意を説明する内容である。

情報統制の厳しかった当時の日本でも、政府機関や国際放送の現場では短波放送を聞くことができた。それは国際放送に新たな役割を与えることになる。外交チャンネルである。

戦前日本に滞在して日本語を学んだザカライアスの言葉に、日本側は注意深く耳を傾けた。日本政府は文字を起こしてトップシークレットとして関係者に配っている。そしてザカライアスの言葉に呼応する動きが日本側に出る。国際放送は6月、次のように米国に向けて放送している。

「日本は、トルーマン大統領が日本に対して発した声明に若干の変更を加えて、米国に無条件降伏の条件を提示できる」

これは事実上、戦争を終わらせるための和平交渉だった。この日米の国際放送を通じた対話はその後発せられたポツダム宣言の意味を巡ってもやり取りが続いた。戦争遂行の道具として利用されてきた国際放送ではあるが、戦争を終わらせたいと願った日米双方の人々の距離を縮める役割も担ったのである。