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黎明期

国際放送主な出来事 黎明期

国際放送開始1935年~1940年代

国際放送主な出来事 国際放送開始1935年~1940年代

1950~70年代

国際放送主な出来事 1950~70年代

1980~90年代

国際放送主な出来事 1980~90年代

2000~2015年

国際放送主な出来事 2000~2015年代

1940~1944(昭和15年~昭和19年)

太平洋戦争に突入
重要性を増す国際放送

年代史  >  1940~1944  >  太平洋戦争に突入 重要性を増す国際放送  | 大本営発表と列強との電波戦争

主な出来事

’40
  • 2.2 帝国議会斎藤隆夫が軍部主導の戦争政策を批判する「反軍演説」
  • 6.1 ハワイ・西南アジア向け放送開始
  • 9.27 日独伊三国同盟
  • 10.12 大政翼賛会発足
’41
  • 1.1 中近東向け、中南米、豪州、ニュージーランド向け放送開始
  • 4.13 日ソ中立条約調印
  • 7.26-8.1 米・英・蘭、日本の外国資産凍結、金融取引停止、軍需物資・必需品・石油の対日禁輸措置(経済制裁)、『ABCD包囲網』
  • 10.1 海外放送全面的に拡充強化、使用言語は16言語
  • 10.18 東条内閣が成立
  • 12.3 第1回の大本営発表
  • 12.8 真珠湾攻撃(-45.8.15太平洋戦争)
’42
  • 1.2 日本軍マニラ占領
  • 2.15 シンガポール占領
  • 4.1 国際放送対インド放送の拡充
  • 4.18 米爆撃機初の東京空襲
  • 6.5 ミッドウェー海戦で日本軍大敗
’43
  • 2.1 ガダルカナル島撤退
  • 対米国際放送、「東京ローズ」が米将兵に人気に
  • 11月「大東亜共栄圏」代表による大東亜会議、東京開催 大東亜共同宣言が採択
’44
  • 6.6 ヨーロッパ戦線、連合軍がノルマンディー上陸作戦
  • 7.7 サイパン島日本軍守備隊全滅
  • 11.5 海外放送,最大規模となる。15送信24言語1日32時間35分

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暗号として使われた国際放送 「大東亜共栄圏」の大義の宣伝

日米開戦に際して国際放送は暗号伝達という役割を担う。それは、放送の持つ機能の別の側面を軍事的に利用するというものだった。しかし戦況は徐々に日本に不利なものとなっていく。こうした中で、国際放送は国策遂行のための役割を果たすよう追い込まれていく。

軍部の戦争政策を批判する斎藤隆夫の反軍演説

1941年12月8日未明(日本時間) 太平洋戦争・真珠湾攻撃 日本軍の攻撃を受け、爆発炎上する米戦艦ウェストバージニア(アメリカ・ハワイ)

1941年12月8日未明(日本時間) 太平洋戦争・真珠湾攻撃 日本軍の攻撃を受け、爆発炎上する米戦艦ウェストバージニア(アメリカ・ハワイ)

1940(昭和15)年は日本の元号で「紀元2600年」という奉祝の年であったが、時代は軍部の独走を危惧する不安の時代に入っていた。そんななか、2月帝国議会衆議院本会議で立憲民政党の斎藤隆夫が軍部主導の戦争政策を批判する「反軍演説」を行った。斎藤はこの後、議員除名処分となる。議会でも、軍に批判的な意見は出せなくなってくる。

経済制裁で追いつめられる日本

日本の中国への侵略に対する反発から1939年には米国が日米通商航海条約を破棄した。その結果日本は、石油・くず鉄などの軍需物資の調達が困難になった。1941年7月、日本軍は石油などの資源をアジアに求めて南部仏印まで進駐した。これに対して、米・英・蘭などは日本の海外資産を凍結し、金融取引を停止した。8月1日には、アメリカが、ガソリン(航空機用原油)の禁輸、オランダも蘭印(インドネシア)からの石油の禁輸などの対日経済制裁措置(ABCD包囲網)を取った。石油など資源のほとんどを海外に依存する日本は交渉による打開の選択肢を失ったとして、活路を軍事的な手段に求めることになる。

日米開戦で暗号として使われた国際放送

「ニシノカゼ、ハレ」

1941(昭和16)年12月8日、国際放送はニュースの途中で突然、「西の風、晴れ」との警報を繰り返した。この日、日本海軍がハワイ真珠湾の米艦隊を空襲。太平洋戦争が始まる。「警報」は、在外公館に対し機密文書の廃棄を指示する暗号だった。

本営発表

この時代の日本の新聞、放送について語る際に避けて通れないのが大本営である。大本営は当時の陸軍参謀本部と海軍軍令部からなる戦時の組織で、報道部を設け、国内・対外・対敵国宣伝報道に力を入れる体制を作った。この報道部の公式発表が大本営発表で、その第1回は12月8日午前6時、「大本営陸海軍部発表、帝国陸海軍は本日未明、西太平洋に於て米英軍と戦闘状態に入れり」の開戦の発表だった。真珠湾での戦果もいち早く国際放送で伝えられた。当時の放送内容を記録した「海外放送宣伝記録」の12月9日欄には、「神速なる空襲に狼狽せるホノルル」「米太平洋艦隊まさに全滅、世界未曽有の大戦果」「首相、連合艦隊司令長官宛祝電」などと書かれている。

大本営発表は戦況と作戦について846回発せられたが、1942年のミッドウェー海戦での大敗を境に、戦況の悪化に伴って日本軍の損害を過少に、時に隠ぺいし、相手の損害は誇張して発表するようになった。ミッドウェー海戦では、日本側は空母4隻が沈没し大敗したが、大本営発表では「1隻沈没、1隻大破」。米国側に与えた損害は「空母2隻沈没」と発表されたが、実際は1隻沈没だった。大本営は、軍隊の撤退を“転進”、全滅を“玉砕”と伝えた。

植民地向けの列強の放送

国際放送が政府の意思を伝える機能を担ったのは日本だけではなかった。欧州各国でも国際放送は植民地政策と密接に絡み合っていた。英国BBCは国際放送を“The Empire Service”と称した。つまり「帝国放送」である。インドネシアの宗主国だったオランダ、ベトナムなどの宗主国フランスなども強力な国際放送を1930年代から展開していた。

民間放送が主な放送主体だった米国は、1942年にVOA(ボイス・オブ・アメリカ)を設立。米政府の戦時情報局によって運営され、南太平洋を制圧した日本兵と西アフリカ・欧州に展開したドイツ兵に向けて放送された。これは米国の本格的な電波戦への参入だった。

大本営発表と
列強との電波戦争

真実の情報から遮断された国民 軍部の圧力下で選択肢を欠く外交

大本営発表の発信の場となった国際放送。この中で日本は「アジアの解放」という主張を繰り返した。危機感を覚えた米英も国際放送の強化に乗り出す。かくしてアジア太平洋での電波戦はし烈さを増していく。

「大東亜共栄圏」の大義と対インド放送の拡充

1943.11 大東亜会議・各国代表 国会議事堂正面玄関、左から四人目東条英機、その左は中華民国汪精衛首席ら

1943年11月 大東亜会議・各国代表 国会議事堂正面玄関、左から四人目東条英機、その左は中華民国汪精衛首席ら

“東京ローズ”のひとり、戸栗郁子さん

“東京ローズ”のひとり、戸栗郁子さん

「アジアを欧米列強の植民地から解放し、大東亜共栄圏を作る」。これは当時の日本が世界に発信した戦争遂行の大義で、特に欧米列強の植民地だったアジア向けなどの放送で強調された。

日米開戦後、国際放送を指導する機関として、海外放送連絡協議会が設置される。そして1942年4月、国際放送の更なる拡充が行われる。その目玉は英国の植民地だった対インド放送の拡充だった。放送時間を1時間35分にし、従来のヒンディー語に加えて、ウルドゥー語、ベンガル語、タミール語、パンジャブ語などが加えられた。インドの独立勢力を勢いづけることが狙いだった。

戦況が不利になるほど重要に

米軍が戦果を次々と発表する中、日本は、それらはデマであるとして、「米海軍の損害隠匿政策を暴く」などと伝えた。こうした中、国際放送は、敵兵が故郷を思い出すことで厭戦気分に駆り立てられるような番組を始めた。それは、不利な戦況を伝える内容は抑えて、女性アナウンサーが米兵に直接語りかける内容になった。番組名は「ゼロアワー」。太平洋の各地で米兵に聞かれ、女性アナウンサーは米兵から「東京ローズ」と呼ばれた。

「ゼロアワー」では、米軍捕虜などの手紙も紹介された。郷里の家族に宛て日本で元気に過ごしているなどと書かれたもので、日本人アナウンサーが代読した。

一方、1944年4月には、インド独立運動の東京支部による「自由インドの時間」の放送が始まった。インド独立運動の指導者だったチャンドラ・ボースがマイクの前に立ち、大英帝国はいずれ崩壊すると指摘して、祖国の人々に独立への戦いに立ち上がるよう呼びかけた。

当時、BBCの「帝国放送」でインド向けの放送原稿を執筆していた作家のジョージ・オーエルは、日本がインドを大英帝国から解放すると主張し、これを戦争の大義としていることに危機感を覚えていた。これに抵抗して現地語での放送を開始するなど英米は国際放送を強化していった。

真実の情報から遮断された国民

日本国内では、政界は大政翼賛会が結成されて、事実上一党支配の政治体制となり、産業界も戦時下で統制経済下に入った。言論界はすでに、新聞・通信社などの統合と管理が進み、放送も国家管理下にあった。世界で何が起きているか、日本の政治、そして戦線で何が起きているかを知る真の情報から国民は遮断されていた。

国際放送と戦犯

戦前の国際放送に従事していた外国人の中には戦犯に問われた人が何人かいる。最も有名なのは日系米国人、アイバ 郁子 戸栗だろう。「東京ローズ」と呼ばれた英語放送を担当した女性アナウンサーのひとりだ。当時彼女と国際放送で仕事をしていた水庭進は、東京ローズは複数いた、と証言する。戦後、アイバは「自分が東京ローズだった」と名乗り出、米軍に身柄を拘束されるが、罪に問われることはなかった。ところが、アイバが米国に帰国することが知られると米本国で彼女を訴追すべきという声が大きくなる。そして帰国後に国家反逆罪で訴追され、罰金と禁固刑及び米国籍はく奪の刑が確定する。「戸栗さん(アイバ)のことを思うと、かわいそうで涙が出ます。(旅行で来ていた日本から)アメリカに帰ろうとした時に戦争が始まって帰国できず、国際放送でのアナウンスは生きていくために仕方なかったんです」(水庭)

後に有罪の決め手となった証言が虚偽だったことが判明し、アイバは大統領特赦で釈放され米国籍も回復する。2006年に90歳で死去。その直前、「困難な時も米国籍を捨てようとしなかった愛国的市民」として米退役軍人の会から表彰された。