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黎明期

国際放送主な出来事 黎明期

国際放送開始1935年~1940年代

国際放送主な出来事 国際放送開始1935年~1940年代

1950~70年代

国際放送主な出来事 1950~70年代

1980~90年代

国際放送主な出来事 1980~90年代

2000~2015年

国際放送主な出来事 2000~2015年代

1935~1939(昭和10年~昭和14年)

国際放送元年「ハローフレンド」と呼びかけ

年代史  >  1935~1939  >  国際放送元年  | 日中戦争勃発で国策化が進む国際放送

主な出来事

’35
  • 3月 ドイツが再軍備宣言
  • 6.1 日本、国際放送(当時「海外放送」と呼ぶ)始まる(日本語・英語)名崎送信所20kW
’36
  • 1.15 ロンドン軍縮会議から脱退
  • 2.26 2.26事件
  • 5.7 帝国議会衆議院で斎藤隆夫議員が軍部の横暴に対する粛軍演説を行う
  • 11.25 日独防共協定締結
’37
  • 4.1 国際放送に独・仏・スペイン語
  • 7.7 盧溝橋事件によって日中戦争勃発
  • 8月- 上海事変
  • 11.6 イタリアが日独防共協定に参加
  • 12.13 日本軍が南京占領
’38
  • 1.11、御前会議で「支那事変処理根本方針」を決定し、「国民政府を相手にせず」との政策を打ち出す
’39
  • 7.1 中国・南洋向け放送を拡充
  • 7.26 対日経済制裁を意図した『日米通商航海条約の一方的な破棄』石油・くず鉄などの軍需物資の調達が困難に
  • 5-9月 ノモンハン事件
  • 9.1- 1945第二次世界大戦

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当初の目的は在外同胞へのサービスと国際交流の促進

1925年に放送を開始した日本放送協会は、その当初から海外に向けた国際放送の実施を念願としてきた。そこには、海外で生活する同胞へのサービスという意味合いと、国際連盟からの脱退など国際的な孤立が深まる中で日本の姿を世界にアピールしたいという思いが込められていた。そして国内放送開始から10年を経て、国際放送が始まる。

国際放送の第一声

1935年6月1日 国際放送の第一声を担当した中村茂アナウンサー

1935年6月1日 国際放送の第一声を担当した中村茂アナウンサー

「遠く海外在住の皆さま、こちらは日本放送協会、東京愛宕山のスタジオでございます」

1935(昭和10)年6月1日に発せられたラジオによる国際放送の第一声だ。担当したのは中村茂アナウンサー。日本時間の土曜日の午前10時半、独自の放送網で海外に発信する国際放送の始まりである。

番組表によると、中村の言葉は日本語で10分間続いた。その後、日本放送協会の岩原謙三会長の言葉が日本語と英語とで流された。この中で岩原は、「国際間の政治的不安と経済的矛盾の解決、融和を図り進んで世界的文化の建設に貢献」することが国際放送の使命だとしている。

英語ニュースは5分間流された。ニュースを読んだのはこの日のために入局した日系二世のアナウンサーの吉井壽雄で、当時の放送番組確定表には、「『ハローフレンド』と洗練された英語も耳新しい」と書き残されている。

そして日本の民謡と続き、再び日本語ニュース、「君が代」が流れて午前11時半に終了。中村の第一声からもわかる通り、北米西部、ハワイに住む日本人移民に向けた放送だった。

在外同胞のための国際放送

国際放送第1日 岩原謙三NHK会長あいさつ

国際放送第1日 岩原謙三NHK会長あいさつ

名崎送信所(茨城県結城郡名崎村、現在の古河市)日本初の国際放送 出力20kW

名崎送信所(茨城県結城郡名崎村、現在の古河市)日本初の国際放送 出力20kW

国際放送は日本放送協会の強い意向で始まったものだった。岩原は、この年の元旦の国内向け放送でも、「とにかく誤解せられることの多い日本のまことの相を、諸外国に伝えて国際親善の一助とも致したいと思い、その計画を急いでいる」と述べている。

岩原の言う準備とは、国際電話設備を利用した短波放送の送受信機能の整備と外国語を話せる人材の確保だった。

それは英語だけにとどまらなかった。1937年、従来の英語と日本語の放送に、新たにドイツ語、フランス語、スペイン語が加わる。その後も使用言語は増え続け、終戦までに24言語で放送が出される。

岩原は前述の初回の国際放送で、「遠く郷国を離れて日夜その目的のために努力しておられまする在外50万の同胞に対して慰安と啓発の道を開き得ると共に我が日本に関心を持つ諸国の人々に正しい我が国の相を伝え得ることは200万ラジオ加入者一同の本懐であるばかりでなく、9千万国民全体の大きな喜びである」と語っている。

「国際親善の一助」として始まった国際放送だが、日本が国際社会で孤立を深める中で、その姿を急激に変えていくことになる。

外地と外地放送局

「外地」とは植民地や租借地などを指す言葉で、戦前の台湾、朝鮮、関東州および満鉄(南満州鉄道)付属地、樺太(サハリン)、南洋群島などを意味していた。これに対して北海道から沖縄までの日本固有の領土を「内地」と呼んだ。関東州は遼東半島の先端の地域を指す。また、満州(中国東北部)は、1932年に建国を宣言し、外地とは異なるが、事実上日本の支配下にあったので、便宜上ここで扱うことにする。

これらの外地にも順次放送局が開設され、朝鮮と台湾には朝鮮放送協会、台湾放送協会、満州には満州電信電話株式会社が放送局を設置。日本放送協会は樺太とパラオに放送局(短波)を設置。一時期は内地の日本放送協会と広大なネットワークを形成した。

外地放送の特色は、外地統治の必要上、言語の異なる他民族である外地の住民に日本語を普及するため、あるいは現地語で重要な情報や娯楽を提供するために、放送局の設置が急務とされた。外地にいる内地人(日本人)は、内地の放送を直接(中波・短波で)聴取したいという希望が強く、したがって外地の放送局は多くの番組を東京からの中継放送に頼ることになった。一方で、パラオ放送局などは、現地向けに日本語放送を出す目的とは別に、米本土に向けた英語での国際放送の中継拠点としての役割も担った。

日中戦争勃発で
国策化が進む国際放送

孤立化する日本とプロパガンダ放送化が進む国際放送

放送開始から1年経ち、国際放送の時間枠の拡大が進んだ。番組は日本の歌謡曲や民謡、ラジオドラマなどで構成され文化的な装いを保っていた。しかし2・26事件の発生などで社会が混乱する中、次第に放送内容を国の機関が決める国策化が進む。そして1937年、日中戦争の勃発を機に、国際放送は電波戦の先兵として機能し始める。

国際放送の拡充

1935年7月4日 日米国際放送 日本よりの歌謡曲放送

1935年7月4日 日米国際放送 日本よりの歌謡曲放送

1936.7.4 日米交歓国際放送

1936年7月4日 日米交歓国際放送

「昨年6月から始めました短波による海外向け特別放送は、太平洋沿岸諸国に於いて優秀なる聴取成績を示すに至り、海外第一線に立って活躍しつつある在留同胞に非常なる感激を与へつつあります事は、私共の喜びとするところでありますが、更に北米東部、南米及び欧州に向けて試験放送を実施中でありまして、本年は一層此の海外放送を拡充し、使命の重要性に鑑みて、一段と力を注ぎたいと存じて居ります」

 1936(昭和11)年年頭での岩原会長の言葉だ。当初は、音楽などの文化的な内容の発信に力を入れていた。当時の番組表を見ると、ニュース以外は、歌謡曲やラジオドラマ、コメディなどを放送している。中継で東京宝塚劇場から歌劇を放送している日もある。しかしそうした文化的な放送は徐々に姿を消していく。その大きなきっかけとなる事件がこの年に起こる。

国際放送の国策化

1937年7月 盧溝橋事件。北京郊外で日中両軍が衝突、日中戦争の引き金となった

1937年7月 盧溝橋事件。北京郊外で日中両軍が衝突、日中戦争の引き金となった

当時の国際放送国際課 海外ニュースの編集の様子(1937年10月撮影)

当時の国際放送国際課 海外ニュースの編集の様子(1937年10月撮影)

1936年2月、将校、下士官1400人余りが反乱を起こし、総理官邸などを襲撃。2・26事件である。事件は鎮圧されたが、諸外国では日本で革命が起きたかのように報じるなど、北山節郎著「ラジオ・トウキョウ」によると、誤った報道も散見されたという。一方、国際放送は正確なニュースを日本語と英語で伝えたと政府内、特に軍部から高い評価を得る。それは皮肉にも政府に国際放送の対外宣伝機能を強く認識させるものとなった。

7月、内閣に情報委員会が設置される。主に内務省、外務省、陸海軍の情報部門からなる組織で、対外情報活動の強化をその目的とした。国際放送は情報委員会の指導の下に置かれることになる。プロパガンダとして位置づけられたのである。

1937年7月、北京郊外で日中両軍が衝突する。日中戦争の引き金となった盧溝橋事件である。国際放送は翌日、次の様に伝えている。

「…while detached Japanese troops were engaged in night maneuvers about 1,000 meters north of Lukouchiao, a sudden attack was made by Chinese soldiers under the cover of several armed guns…」

演習中の日本軍が中国軍に襲われたという内容だった。